かの有名な海南高校バスケ部のマネージャに就いてから、一年と少しが過ぎた。

初めてバスケ部のサポートをしたときから変わらず厳しい仕事ではあるが、この仕事も、バスケ部も、すべてが私にとって心地よい存在になっている。
可愛い後輩もできたし、みんなはいつも優しい。
ここで過ごすことは何よりも楽しい時間。ああ、これが幸せってやつかもなあ、と最近ではそんなことすら考えてしまうほど満たされた生活を送っている。
  


あーあ、あと十分か。

部活の終わり間際は、少しだけ寂しい気分になる。だけれど、終わるまでが活動だ!と自分に古くさい喝を入れ、時計から目を離した。 

それから基礎練習をしている部員を横目に、いつものように備品のチェックをしていると、コートの真ん中から、痛てっという地味な悲鳴が聞こえてきた。


慌ててそちらに目をやれば、一年の清田がひとり、棒立ちになって俯いている。 
「あれ、どうかしたの?」
「あ、もふこ先輩…いやちょっと、軽く足挫いちゃったみたいで…」
「うわ、大丈夫?とりあえず、向こう行ける?」
頼りないだろうとは思いつつ、頷く清田を支えながらコート端にある椅子へと向かい、なんとか座らせる。
こちらを心配そうに見ていた他の皆は、牧さんの"今日はもう終わるか"の一言で、解散してしまった。

清田の足元にしゃがんで、怪我の具合をチェックする。大丈夫だ、重い捻挫には至っていない。
「酷くはないね、よかった。でも冷やしておこうか」 
「あ、はい、オネガイシマス」
「うん、ちょっと待ってて」
「あと、テーピングしてもらってもいっすか?」
「て、てーぴんぐ…」

そう、覚悟はしてたけど。
この瞬間。
私の不器用さを部員に見せつけなくてはいけないこの瞬間が再び、とは。

私の絶望的な表情を見た清田は、いきなり両手をぶんぶん振る。
「…あ!でもそんなたいした怪我じゃないし、やっぱ大丈夫ッス!帰るだけっすし」
「い、いや、だめだよ、やる、やるよ!」
後輩にそんな気を使われてはたまらない。慌ててテープを取りにその場から離れる。

さあ、どうしよう。

とにかくバレないように、出来る限り器用そうに巻くしかないのかもしれない。


テープと湿布片手に清田の元に戻れば、彼の足元に神が座り込んでいた。
思わず口の中で、げげっと呟いてしまう。帰ったんじゃなかったのか。他の人はもうほぼ部室で着替えてるか帰宅してるっていうのに。

「どう?ノブ」
「いや〜捻挫にも及ばない感じなんで、全然大丈夫ッス!」
「そう。でも一応、大事にした方がいいよ」
「ありがとうございます!神さんやさし〜〜」

ああ、いますぐ清田に言ってあげたい。こいつは優しくなんかないんだと。

「もふ?早く固定してあげないの?」
「…今やるの」
「よかったねノブ」
あ、ほら、またこの笑顔。


部員のほとんど、いや、学校のほとんどの人が騙されているとは思うが、実はこいつは、鬼なんだ。

こいつは、私が世にも稀な天才的・不器用で、テーピングがズブの素人レベル(より酷いかもしれない)ということを知っている。
何故なら最初にそれを見せつけたのが、この神なのだから。
それなのにこの言動。まるで楽しんでいるかのよう。

「はあ、…じゃ、清田。やるね」
もうやるしかない。は〜い!とにこにこしている彼の足を取り上げて、頭の中に熟読した本の、手順の図を浮かばせる。
よし、いける。








「えっと、あーでも、無いより全然歩きやすいっすよ!!!!ほんとに!!ありがとうございました!」
「ごめん清田。本当にごめん」
「あ、謝ることないですって!」
「…もふ、前より下手になった?」
「う、ひどいこと言わないでよ…」
「だって本当にそうだから」
予想通りの不格好丸出しのテーピングをやってのけ落ち込んでいる時に、そういうことを言うか。そう、こういうやつなんだ。
なけなしの力で、ぐっと神を睨めば、いつものにこやかな顔で返される。ああ、なんでこう、人にずけずけと物を言えるんだろう、こいつは。

「さて。ノブ、一人で帰れる?」
「はい!大丈夫す!神さんは、今日も自主練すか?」
「うん、そのつもり。あ、ノブは勿論だめだよ」
「今日は大人しく帰りますよ」

お疲れさまでしたと元気に叫んだ後、いつもより静かな足音で清田は帰っていった。
それを見送ってから隣を見上げると、いつもに増して涼しげな微笑みを湛えた神。その目とぶつかる。
「テーピングの練習、したい?」
「は、」
「だから、上手くなりたいのかって訊いてるの」
「、そりゃもちろん…」
「じゃあ、手伝ってあげようか」
「神が?」
「そう」
「今?」
「そう」
「…え、でも神の、自主練…」
「それはいいよ。その代わり、厳しくいくけど」
「え、あ、、ありがとう…?」
さっきの失態を思い返すと、別にいいよなんて言えない。厳しいのは嫌だったが、そんな我が儘は許されるわけが無さそうだったから、大人しくお礼を言って、頷いておくことにした。

それにしても、自主練を中止してまで付き合ってくれる、だなんてどうしたんだろう。不思議に思って考え込んでいたら、さっきまで清田が座っていたパイプ椅子に腰かけた神が、「おれとノブ以外に犠牲者、出したくないからね」と笑顔で憎まれ口を叩いてきた。人の考えを読んで、しかも悪口とは。やっぱりこいつは悪魔なんだ。



他人の足で練習した方がいい、という助言の元、しばらく神の足を借りて練習することにした。
「違うよ、ここは八の字にするの」
「ええ、だってここからどうやるの!?」
「このまま、左側に回すわけ」
「…あ、なるほど」
ぐいぐいとテープを持った手を誘導される。
しかし一度で綺麗に出来る私ではないし、適当な出来で許してくれる神じゃない。
しばらくは黙々とやっていた私だったが、自分の技術の無さというか、不器用さに疲れるのと同時に、スパルタの鬼・神からの指導は、疲弊しきってしまった後の私にとっては、まるきり地獄だ。

「…ああもうだめだあ…やっぱり出来ないよー!!」
「弱音は吐かない約束でしょ。厳しくいくって」
「……やっぱりちょっと言いたい」
「聞かないよ」
「なんだよこの冷血漢!」
「知ってるだろ?おれは冷たい人間なの」
そのまま、やりかけだったテープを強制的に剥がし、再びやり直しにされる。
それを見ながら、ええ…それ自分で言っちゃうの、と目で訴えながら仕方なく手を動かす。しかし向こうは全く涼しい顔だから、これ以上何も文句を言えなくなって、否応なしに練習に集中させられるのだった。

そのまま、時々怒られながら、一時間近く練習に付き合ってもらった。
その結果、一応見映えはそこそこ・機能も許せる範囲には持ってくることは出来たみたいで、神が少し嬉しそうに笑っていた。


「これで正々堂々とテーピングしてあげられるんじゃない?」
「うん!なんとか形にはなれたよね、ありがとう!」
素直に笑ってそう言えば、「いいえ」と返ってきた。
目の前の椅子に座ったままの神も、意外なほどの素直な笑みを浮かべている。


「なんか…神が、変」
「…手伝ってもらっといて、そういうこと言うんだ」
「あ、ええと、ゴメンナサイ」
そういうつもりじゃないんだけどね、と慌てて言い訳をしてから、そっと彼の顔を窺うと、またもや意外なことに、いつもの腹黒い笑顔じゃなく、あまり見たことのない優しげな表情をしていた。

「…ほら、やっぱり変じゃない」
「…いつもみたいに嫌味を言わないから?」
「そ、それもある」
ほんとうはそれだけじゃなくて、そんな素直な笑顔をしてるのも変なんだけれど、それを言ったらもう二度と見せてくれなくなりそうだから、指摘するのはやめておいた。
その代わり、私も素直に思っていることを表に出すことにする。

「そうやって優しい顔してる方が、神は似合うよ」
「…………」
「えっなにいきなりシカト?」
せっかく真っ直ぐに言ったのに、と顔を顰めると、困ったような、複雑な顔をされた。

「…恥ずかしい奴だよねもふって」
「どういうことよ…」
いきなり失礼なことを言われたから、さらに腑に落ちないぞという意味で嫌な顔をすると、いつもの見慣れたあの笑みが見えた。そう、あの、ちょっと呆れた笑顔。
「…ほら、もう帰るよ」
「え、ああ、うん」

いつもと違って変な神だな、という少しばかり消化しきれない気持ちがあったけれど、無駄なテーピングをされている足のままに靴を履き直した彼を見て、私の心は不思議と穏やかになっていた。

ぱたんという水銀灯の切れる音と、思ったより光のない体育館の景色が気持ち良く、神のもとへ向かう足取りは、気付かないうちに軽くなっていて、私はひとり、静かに笑ってしまった。


170108



 


-Suichu Moratorium-