ふあーと間抜けな欠伸を噛み殺して背伸びをする。
そして、もう定時なんてとっくに過ぎた時計を確認。嗚呼またこんな時間になってしまった。いつものことだから特段、困ったとか嫌だとかは思わない。これが慣れってやつか、と苦笑してから、無意識にちらりと定位置に視線を飛ばした。
私の視界には、いつものようにストイックに仕事をしている竜崎の背中。真っ白でくちゃくちゃで、なのになんだか自信に満ちたあの猫背。


私は小さく肩で息をついた。


実のところ私は、先週から、変なことを考えている。
あの背中をどうにかしたい、と思っているのだ。
この感覚は、触りたい、に近いのかもしれない。こうして改めて考えると、実に変態チックに聞こえるのだけど、これが大真面目な悩みだから困る。
理由なんて、勿論分からない。分かったんならこんな気苦労なんてしないし、早々と問題は解決出来るはずだ。

そして私が、なんでなんだろう、と思う度に竜崎の背中が遠くなって、息が詰まるような感覚に陥るのだ。

彼の傍に行きたいのだろうか。と思ったこともあったが、それはどうやら違うみたいだった。
彼の背中をどうにかしたい。そんな訳の分からないもやもやとした感情に、私はずっと悩まされている。

今日もいつものように、仕事が一段落したときのこと。これまたいつものように彼の背中を見つめていると、私の中の誰かが、その願いを叶えてしまえ、と呟いた。
近付くだけなら、と思う反面、いきなり部下が変な行動を取ったら嫌だろうなと思うと、どうにも実行出来ずにいた。無理だ無理だ。常識的に考えて、そんなこと、出来る訳がない。そう制止をする自分もいる。
しかし、私のもやもやは執拗に主張してくるのだ。
きっと、近付いたらその理由も分かるんじゃないか、やってみる価値はあるぞ、と。

そんなもやもやに後押しされ、しかも捜査本部には他に誰もいないことを良いことに、彼に、「竜崎、」なんて声をかけてしまった、それが間違いだった。




視界に此方を軽く向く竜崎が映る。
「もふこさん。どうかしましたか」

嗚呼、どうしよう。どうしよう。瞬時に、焚き付けた自分を少し呪った。と同時に、大丈夫だと自分を落ち着かせる。まだどうにでも修正できるんだから焦る必要はない。このまま世間話にしてしまえばいいんだから。仕事、疲れましたか?とか、そうやって訊いてしまえば不自然でもなんでもない。そうしろそうしろ!と、思ったはずなのに、口は勝手に動いていた。

「竜崎、相談があるんです」
「…なにか、あったんですか」

余程神妙そうに見えたのだろうか、あの竜崎から私を気遣っている雰囲気が見てとれた。確かに深刻な問題であることは間違いないが、如何せん不謹慎。

「竜崎、私、教えてほしいんです」
「何をですか」
私のふわりと掴めない質問が不意だったのだろう、いつもはそう見せない、きょとんとした彼の目。それを見ると、どうなってもいい、どう思われてもいいから、全て吐き出してしまおうと思えてきて、今まで胸の底に沈んでいた言葉が、少しずつ溢れ出してきてしまった。

「私、最近、竜崎の背中を見ると、辛いんです。なんて言うのか分かりませんが、苦しくなって、近付きたくなって、なんて言うかこう、抱き締めたい、ような気持ちになるんです。ああ、変な意味じゃないんですよ。でも、なんでだか理由が分からないんです。何ででしょう?竜崎、分かりますか?なんなんですか、これ?もう辛くて嫌なんですけど思わずにはいられなくて不可抗力というか本当どうにもならないんですたすけてください!!」

堰を切ったように止めなく流れた言葉は、言い終わりになるにつれて捲し立てる様になった。溜まっていたことが吐き出せたからだろう、私の心は少し軽くなった。ほんの少しだけれど。
反対に、目の前の竜崎はきっと、困っているだろう。顔にはそんなに出さないけど、驚いているのはよく分かる。嗚呼、困らせてしまった、と後悔。

しかし次の瞬間、目の前の竜崎は、いつもの百倍の優しい笑みを浮かべてくれた。
 

「…理由が、知りたいんですか?」
あれ、余り驚いてない。
「そう、ですね。あと、出来れば解決方法も」
「わかりました」
案外あっさり頷いた彼は、また前に向き直る。
そして、そこから動かなくなる。

「あ、あの、竜崎?」
「はい」
怒ったのかと思ったが、そうではないらしい。
「ええと、どういうことでしょうか」
「もふこさんがやりたいようにすれば良いんですよ」背中が喋る。

くら、血が下がる感覚。と同時に目眩がした。
私のやりたい様に…?
竜崎は正気なのか?

「そ、そんな。私、どうしたら…」
「取り敢えず、抱きついてみればいいんじゃないですか」
「…それは」
「やりたいのでは、ないんですか」
まだ背中が喋る。
此方を向いたり、作業に戻る気配がない。きっと私がやらないと、これは終わらない。

覚悟をある程度決めて、そろりそろりと無駄に忍び足で彼の後ろに立った。
心臓が煩い。
邪魔だ。
投げ捨ててしまいたいくらい煩い。
嗚呼、どうしよう。
そう思いながらも震える私の手は伸びた。
いつだって行動は意思に素直じゃない。
くちゃくちゃのシャツに僅かに触れる。
どうにでもなれ、と口の中で言いながら、腕を回した。


「………」
「………」
「………」
「…それで、どうですか」
竜崎の声が、振動となって身体に響く。
それから五秒たって、私は腕を解いた。

「…すみませんでした、竜崎」
「気にしないでください」

口調はいつもの百倍緩やかだったが、彼はそのまま振り向かなかった。
それはきっと、彼の優しさだった。

抱き返しがない抱擁の、言い様の無い悲しみ。それに気付き自分の愚かさが嫌になって泣いている人間に、気付かないようにしてくれている。おまけに、そんな私に答えをくれた。

なんて馬鹿だったのだろう。
私は竜崎に、抱きつきたかったんじゃない。
彼に抱き締めてほしかったんだ。
ようやく気付いた。
でも気付いたと同時に私のちっぽけな恋は、壊さなくてはならなくなった。皮肉なことに、それも竜崎が教えてくれている。

目の前の白のシャツが、歪んでは戻り、歪んでは戻る。そんなふうにいつまでも涙が静かに流れたが、止める気なんてさらさらなかった。もう全て、流してしまえ。忘れてしまえ。
自分で気付くよう仕向けてくれた竜崎の優しさで余計に流れた分もあったが、もうそんな優しさも忘れなくてはならないな、と思うとまた泣けてきた。
でもそうか、これが恋ってやつだった。




思いだす権利と、忘れる義務



20140625



 


-Suichu Moratorium-