左腕に巻いた時計を見た。
あと数時間で、今日が終わる。
あと数分で、今日のお仕事が終わる。
そう考えてから、大きく伸びをした。それから、机の上の書類を纏めて角を揃える。
今日のノルマは、あと四分の一も残っている。とりあえず言えるのは、あと数分で終わる量ではないと言うこと。
また、残業か。と、軽く鼻から息を漏らした。
しかし実は、この捜査本部は(この職業ににしては)驚くほど時間外労働が少ない。
これは、私が竜崎の元で働き始めて、気づいたことの一つだ。
(他にも、「仕事が忙しい時と、暇な時の差が激しいこと」や、「お昼休みや上がりの時間が、きちんと取られていること」などがある。いずれにせよ、私には嬉しい誤算だった)
そして、そんな最近気づいたことの中で最もダメージの大きかったものは、「残業を少しでもすれば、終バスがなくなる」ことだ。
終バスのことを考えてから時計を見れば、もう結構な時間だった。辺りを見回せば、なんとなく帰り支度の整っている同僚たち。
そして、定時になる。
それまで向こう側で紙に埋もれて考え込んでいたボスが、ゆっくりと顔をあげたので、そちらを向く。
「皆さん、お疲れ様です。一段落が着きましたら、今日のところは、お帰りになってくださって結構です」
「お、もうこんな時間か。じゃ、お疲れ」
「お疲れさまです」
「先に失礼する」
竜崎の一言で、一段落が着いた方々が動く。ああ、無情にも帰宅される先輩方。
相沢さん、夜神さん、終いには松田さんまでもが立ち上がった。
「あれ、もふこちゃん。まだ上がらないの?」
屈託のない笑顔でそう言う松田さんは、いつもより上機嫌そうだ。どうせ、このまま何処かに飲みにでも行くのだろう。いや、彼はいつも上機嫌そうに楽しく笑ってるから、実際のところは分からないけど。
「おーい、もふこちゃん?」
「あ、すみません。ぼーっとしてました」
「大丈夫?まだ仕事あるの?」
「…はい、残念ながら」
先程も述べたように、このキラ特捜本部には残業は殆どない。これは、ここのボスである竜崎のあの「今日のところは、この辺りで」の一言による結果だ。そのお陰で、私も何回かは”普通”の時間に帰宅しているのだけれど。
「もふこちゃん、最近なんだかそわそわしてない?なんかあったの?」
またもや自分の世界に入っていたために、松田さんの言葉が暫く理解出来なかった。
「え?何ですって?」
「だからね、最近もふこちゃん落ち着きないなぁと思ってさ」
驚いた。
なんというか、これは、図星だよ、松田さん。
変なことには、妙に鋭いらしい。
「いえ、大丈夫です!心配してくださって、ありがとうございます」何もないように、にこりとしておく。
「なら、良いんだけど。じゃあ、頑張ってね!また明日!」
彼の笑顔と言葉に軽く会釈をしてから、またデスクに向かう。
扉の閉まる音がして、静寂。
見回せば、もう先輩方は、みな帰られていた。
機械音、静寂。
呼吸音。
椅子の軋む音。
静寂。
衣擦れ。
「また二人きりですね、もふさん」
「誰のせいですか全くもう!!」
そう。
意図しない、二人きり。
竜崎と。
夜に。
「常識的に考えて、残業になってしまうのはもふさんのせいですね」
そう言って口を斜めにする竜崎。こいつもまた、ご機嫌そうだ。
「あーもー、あなたがこっちを何回も凝視するから!だから私、仕事に集中出来なかったんですよ!わかってますか?」
「それは、あなたの集中力不足ですね。上司への責任転嫁は、どうかと思います」
「っ、うう。もういいです!とりあえず仕事しますから…」
そのまま、じゃないとまた終バス逃しちゃう、と聞き取れないくらいの、息だけの声で独り言。
「…ご自宅は、遠いんですか?」聞こえたのか、と少し動揺。
「え、ああ、ええ。少しだけ」
「そうですか」
私の家は、ここから近くはない。終電は大きい私鉄なだけあって、二十四時を過ぎても何本かは出ている。しかし地元の本数の少ないバスは、そうはいかないのだ。
時計を確認。あと3分で支度をして此処を出れば、なんとか終バスに間に合う!と思うが、それは無理な話だ。非現実的。考える前に、もう脳味噌は諦めていた。
いいや、もう、慣れっこだ。
諦めて、仕事に取り掛かる。
今日もまた、何処かのビジネスホテルか、漫喫で泊まる。女の人としてアレな気はするが、仕方ない。好きでやった仕事だ。潔く決断。
「…今日は、もう帰っていただいても構いませんが」
竜崎が、椅子を軋ませながら回転して、此方を向いた。
「でも、まだ仕事が残ってるので、片付けないと…」
「しかし、ご自宅に帰れなくなるのでは?」
「そう、ですねえ」鋭いです竜崎。
「何処かに泊まるんですか?」
「はい、まあ、ビジネスホテルとか、ですかね」さすがに竜崎に、漫喫で寝るとは言えない。
「まだ時間、大丈夫なんですか?」
竜崎が立ち上がって時計を見た。
私もつられて壁の時計を見上げる。
先程の三分の猶予は、もう無かった。
「ああ、もう外泊することになりました」
少し可笑しくなって、笑ってそう言えば、彼も口角を上げた。
「なら、私のベッドで寝てください」
口角を上げたまま。
「は」
何を言っているんだ、こいつは。おかしくなってしまったのか。
目だけで「意味が分からない」と訴えてみる。
「どうしたんですか」伝わらなかったらしい。仕方なく、言葉を選んで伝えることにする。
「いや、あの。なんで私が上司のベッドで寝なくてはならないのですか」
そう言うと、彼は不思議そうな顔をした。
「強制ではありませんが」
そういうことではないだろう。そこを突っ込んでほしかった訳ではない。私は一度、その一般的常識が通じない上司から目を逸らした。こいつはきっと、何がおかしくて、何が正しいのか分かってないのだ。
ため息をついて、もう一度彼を見上げた。
「…私が寝たら、竜崎が使えませんよ」
「大丈夫です、気にしませんので。そこの部屋にあるので、お先にどうぞ」
絶句。“お先に”?開いた口が塞がらない。今なら、そこにあるメロンさえ丸のみ出来そうだ。
「あの、りゅ、竜崎!」
「はい」
「…正気ですか」
私がそう訊くと、彼はぽかんとした。本当に私が戸惑っている理由が分からないのだろうか。そうであったら、こちらがぽかんである。
とにかく、"正気ですが。"と平然と答えた竜崎になんて答えるか、彼をなんとかわせば良いかを考えなくては。と必死に考え込んでいると、目の前の彼が少し笑ったように見えた。そして彼の口が、ゆっくりと動く。
「漫画喫茶よりは快適だと思いますが」
静寂。
「……えっ、な、なん…」
驚きの余りに口が回らない。
なんで、なんで。
竜崎に満喫で泊まっていると言ったことがあったか。
そんなわけはない。
そんなはずはない。
なんで、なんで。とぐるぐるし始めた私を見てか、竜崎が更に笑みを深くした。
「確かに二人で寝るとなると少し狭いですが、あのような椅子よりは寝心地が良いことは、保証出来ますよ」
「うわあ!黙って黙って!ほんとになんで、そんなこと、知ってるんですか!!なんで!」
「風の、噂ってやつですかね」
そんな不健全な風の噂があってたまるか!と悪態をつきたいところだが、これ以上パニックになると負けた気がするので、平静を装う。
「…とにかく、竜崎のベッドを借りるのは申し訳ないので、こちらのソファをお借りしてもいいですか?」
「これですか。腰が痛くなりますよ」
「大丈夫です」
「やはり女性にそのようなことはさせられませんので、ベッドを使ってください」
そんなことを気にするまえに、もっと気にするべきことがあるだろう。
眉間に皺を寄せ、竜崎を凝視しながら考えていると、ふいに彼が笑った。今まで見たことがないような、柔らかいくだけた笑顔だった。
「冗談です。私は使いませんので、ベッドはもふさんが使ってください」心底気の抜けた、楽しそうな声だ。
「…からかわないで、くださいよ」
珍しく見せたそんな笑顔に、そう返すのが精一杯だった。
「すみません、つい。もふさんは、からかい甲斐があるので」
「なんですか、それ」精一杯呆れた顔を見せてやる。
「案外楽しいんですよ」
勝手に楽しまないでほしいと思ったが、余りにも緩んでいる竜崎を見ると、それ以上怒る気力がなくなってしまった。
「…じゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます」
そう言うと、彼は短くはいと返し、再びパソコンに向かってしまった。
自分のデスクの上をある程度片付けてから席を立つと、後ろから声が飛んできた。
「もう漫画喫茶に泊まるのは、やめた方が良いですよ」
息を呑んで振り向くと、竜崎がにやにやしていた。
本当にこいつは、と呆れながら内心毒付く。
「これからは残業しないように、頑張ります」
「はい。しかし、残業はしてもらっても構いませんよ」
「え?なんでですか?」
「もふさんと二人きり、楽しいので」
「うわ!変なこといわないでくださいよ」
「今度から、残業したら、絶対に私のベッド使ってください。強制です」
「…ありがとうございます、お陰で残業、減りそうです」
嫌味っぽくそう言うと、残念そうな顔をされた。いったいなんなんだ。
「遠慮は無用です」
「はあ」そうじゃないんだけどな。
「…そうですね。三回に一回、一緒に使わせてもらえれば、それでいいです」
「いやですよ!!」
大きく拒否をすれば、竜崎は「では、」とにやりと笑った。変なことを思い付いたような顔だ。私の中で警鐘が鳴る。
「賭けを、しませんか」
やっぱり変なことを言い出した。
「なんの、ですか」
竜崎が言うことだ。あまり油断しないようにしなくては。安請け合いは危険だ。
「簡単なものです。もふこさんが、これから一週間、残業をするかどうか」
「残業をするかどうか…」
「はい。ちなみに私は、残業をする、に賭けますよ」
どうやら賭けをやることは大前提のようだ。少し考える。残業をするかどうか。一週間という期限付き。
結果は出た。そんなもの、簡単だ。私が日中仕事を頑張れば、残業なんてせずに済むのだ。勝算はある。
「…分かりました。じゃあ、しない、に賭けます」
そう言うと彼は、口の端を吊り上げる。
「決定ですね。では、私が負けたら、貴女の望むことをなんでもしましょう」
「うわ、すごいですね。…じゃあ、私が負けたら?」
「此処に貴女の部屋を造るので、住んでください」
「………」
「………」
「………」
「………」
「え?」
「ですから、貴女の部屋を造るので、住んでください」
「…いや、聞こえました、けど、なんというか、なんでですか?」
「なんでもです」
「、はあ」
なんじゃそりゃ。
ここにきてその返しはないだろう。と猜疑心一杯の目で見つめてやるが、向こうの飄々とした態度に変化はない。
まあでも、賭けに勝てば良いのだと思い直して、挑戦的な目で頷いてやった。
竜崎は、満足そうに口を斜めにして、「待った、は無しですからね」と楽しそうに言った。
ふたりあそび
「じゃあ、お休みなさい」
「ああ、もふさん」
「はい?」
「アップルパイ、食べませんか」
「…また、ですか」
「この間は、ショートケーキでした」
「……いただきます」