「あれ?松田さんは?」

お昼休憩が終わったあと、いつものように捜査本部に戻ると、松田さんの姿が見えなかった。

今日は確か、非番じゃなかったよなあと不思議に思って、先輩方に訊いてみると、『朝以来、姿を見ていない』という答えが揃って返ってきた。どうしたんだろう。確かに朝は、あの喧しい声がこの部屋に響いていたのに。

「あの、竜崎。松田さん知ってます?」
いつものように書類にまみれたボスに尋ねると、明らかに呆れたような顔をされた。
「ああ、彼なら今日は風邪で早退しましたよ」

「風邪…?」

そうかそうか風邪ですか、と納得。それから、社会人の癖に風邪で早退ってなんだよ!自己管理くらいしっかりしろ!と思った。学生じゃあるまいし、と自宅で休んでるであろう松田に嫌味を言った。
その次の瞬間、『早退』という言葉が金槌で叩かれたかのように頭に響いた。


「…そ、早退ですか?」

嘘でしょ。

「はい」

嘘…。

「と言うことは、もう、今日は戻らない、んですよね」

そうでしょうねと軽く返す竜崎は、最早デスクに向かっていた。
どうしよう。
とっても困ったことになった。
至上最悪だ。

絶望の目でデスクの上を眺めてみれば、膨大な資料の山。実のところ、私と松田さんはいま、二人で一つの仕事を分担してやっている。データ打ち込みだから単純作業なわりに面倒で人手が要る。その理由から二人でやることになったのだけれど。
片方の松田さんがいなくなるということは、つまりはその全ての仕事は私に回ってくる訳で。
ちらりと再び資料を見れば、嫌気がさす程の量の多さ。なんていうことだ。眩暈がしてきた。そのまま散らかったデスクに座り込む。
まだ昼休憩から上がったばかりの時間だと言うことを考慮しても、こんな量、私一人で今日中になんとか出来るはずがない。限りなくインポッシブル。

嗚呼、大変だ。
参った気持ちをぶつけるように、キャスタの付いた椅子が悲鳴を上げる勢いで雪崩れるように座り込んだ。
私は今、今年で一番焦っている。いや、人生で一番と言っても過言ではないかもしれない。
この仕事をやっていれば、データ打ち込みなんかよりもっと大変且つ命の危機を感じるような仕事なんてざらにある。が、今回は話が違う。ただの単純作業ではない。命の危機、とは言えないが、なんだろう、明らかにそれに近い何かの危機に晒されている。私がこんなにも焦っている理由は、竜崎という私の上司にあった。
正確に言えば、彼とした約束(と言うか賭け事)だ。それが、私に冷たく嫌な汗をかかせる。今日は、あの賭けから3日。勝算は十分にあると思っていた。なのに。なのに。
想定外、の文字が頭の電光掲示板にちかちかと流れていくと同時に、風邪菌なんかに音を上げた松田に対しての嫌がらせが面白いように浮かんでは消えていった。




▼▲




「もふさん」

竜崎の声に、はっと顔を上げると、周りにはボス以外誰もいなかった。

「皆さんもう帰られましたよ」

竜崎は、私がきょろきょろしたのを気にしてかそう言うと、椅子ごとくるりと此方を向いた。

「纏められそうにないですか」

その視線は、私がいまの今まで必死に戦ってきた打ち込みの資料にあった。

「…やはり一人減ると、松田さんとは言え困るものですね」
「単純作業になればなるほど、ああいう方の力は必要になります」
「竜崎、それ褒めてないですよ」
「先に貶したのはもふさんです」
「私は良いんです〜同僚なんで!」
「私も上司なので許容範囲内です」

なるほど〜!なんて言いながら、お誂え向きな定型化スマイルで返しながら話を逸らしてゆく。

「あ、竜崎、ここのこれ、どこに入れちゃえばいいんですか?ここが未記入になってるやつって」
「それならそのままの欄に入れておいてください」
「ああ、分かりました。ありがとうございます」

またもやそっかそっかなどと適当に相槌を打ちながら画面を見ていると、突如感じる背後にある気配。
嫌な汗をかきながら恐る恐る振り返れば、にやけている竜崎。

「な、なんなんですかその顔…」
「もふさんこそ、なんでそんな上機嫌なんですか」
上機嫌?そんな都合良く捉えられては困る。これはその、“残業”になったことを悟らせないというか意識しないでもらおうというためのものなのだが。そんなこと当の本人に言えるはずがない。

「もしかして、共同生活が楽しみなんですか?案外素直なんですね」

「は!言ってないし思ってないです!それにそんなことしませんし!」
思わず立ち上がってそう叫ぶと、目と鼻の先が竜崎だった。計算ミス。

「…今日は、あの賭けから何日目ですか」

大変だ。本能がそう叫ぶ。目が本気。その本気の目のまま、じりじりと近付いてくる竜崎から慌てて身を引きながら答える。
「え、ーと、3日でしたか、ね!ね!」
「ご名答です。では貴女の脳みそは、3日前の私との約束を忘れてしまう程のものだったんですか?」
「あ、いーえいえ!覚えていますとも!」
「ならば、普通に考えれば貴女は賭けに負け、私との約束を果たさなくてはいけないんですよね?」

このままではまずい!と判断した私の脳みそ(竜崎が思ってる程馬鹿じゃない)は、ちらりと目に付いた時計から逃げ道を見つけ出した。

「りゅ、竜崎!」
押され気味だった形勢を逆転させようと前のめりになると、彼とばちりと目が合った。
「はい」
「ほら!まだいつもの残業の時間じゃないです!」
びしりと壁掛け時計を指差す。考えてみれば、今日はいつもより一時間は早い解散なのだ。それじゃあ納得がいかない。ただ先に先輩方が早く帰られただけじゃないか。と、論理的かつ感情的に反論すると、竜崎は不敵な笑みを浮かべた。

「確かにいつもより時間は早いですが、貴女が他の方より遅くまで残って仕事をなさってるのは事実です。それはいわゆる残業ですよね?それに、あと一時間猶予があるとして、終わらせられるんですか?」

それ。と、目で背後の山を指される。
つられてそちらをちらと見る。
到底無理だ。どんなにあがいても、答えは出ていた。そう思った瞬間、いや、こんな膨大な仕事が出た瞬間、いやそもそも松田が風邪とか言うふざけた理由でふざけた早退とかいうことをした瞬間から、この勝負は決まっていたんだ。

敗北だった。
見事なまでの完封負け。
ゆっくりと竜崎に視線を戻す。
きっとその目は、ひどく惨めなものだっただろう。

「…竜崎」
「はい」
「いつから、来たら良いんですか」
そうですね、と視線を逸らし一呼吸置いてから、此方を見た。

「今夜からです」


慈悲深き無慈悲!




コールド・ゲーム!


「あ、あの、竜崎、幾つか質問が」
「どうぞ」
「この膨大な仕事を私たちに振り分けたのって、昨日、つまり松田がずびずび言ってる時じゃ、ないですよね」
「…やはりもふさんは頭が良いです」



140218


松田さん。今日は早いうちに帰って明日に備えてください。と彼にしては優し過ぎる言葉を聞いた人がいるとかいないとか。



 


-Suichu Moratorium-