朝、いつもどおりシャワーを浴びてから部屋に戻ると、未だに私のベッドで、のうのうと寝ている黒髪の男が見えた。
それはちょうど、海から打ち上げられた大きな鯨みたい。

うつ伏せになっているから、彼が寝ているのかどうかは実際のところ分からなかったが、起きている気配はしない、ような気がする。
まあ、別にどちらだっていいことだ。 

朝特有のぼんやりとした思考を残したまま、冷蔵庫からミネラルウォータを取り出し、なんとなく目に映ったままの彼を見つめながらボトルを傾ける。
その姿は、昨日の遅い夕方の光景に重なった。

それは、私が例の仕事仲間から解放されてから、慌ててこの念空間に帰ってきたときのことだった。

なんの規則性もなく散らばった缶詰たちや、可哀想なほど意味のないビニル袋が散らかった部屋に、今みたいに、まるで電池が抜けたようにのっそりと私のベッドに寝そべっていたそれは、明らかにふて寝のようなものだったんだと思う。
何回話しかけても揺り動かしても無視を決め込むし、全身で何かの抗議をしているみたいな雰囲気を漂わせていたからだ。

私の方は、全くもう…とかなんとか言いながらも、なんとなく罪悪感があったものだったから、そんな クロロに対して特にちょっかいを出さず、そのまま静かに放っておくことにした。
しばらくは、何かやらなきゃいけないことだとか、仕事関係のことをしていた記憶があったけれど、気付いたらもう朝だったから、そのうちに私も寝ていたらしい。


で、今に至る。
そしてまだ起きもしないクロロを更に放っておいて、私はシャワー室に向かったわけだ。


片手にペットボトルを持ちながらベッドの近くの窓を思い切り開けると、涼しいくらいの風が頬を撫でる。
太陽の位置が、思っていたより高かった。
ゆっくり振り返って窓枠に凭れるように立ち、携帯で時間を確認すると、"朝"というには遅い時間。

ああ、有り得ないくらい怠惰な生活。

誰のせいなんだろうねえ、と呟きながら綺麗な黒髪をそよがせているクロロに目を向ける。

相変わらずごろんと気の抜けたように頭を投げ出している彼は、やっぱりまだ目覚めないつもりらしい。

なんとなく、頭のどこかで「ちょうどいいな」という言葉が聞こえた気がした。
直ぐにその言葉の元を手繰ると、目の端に映っていた例の赤。私の机の上に行儀よく乗っている。
やたら安っぽくて濁ったビニルに入れられたその一組のミサンガに手を伸ばし、それを取り出してみる。込められた念のせいなのか、微かに光っているような気がした。

一つを摘み上げて更によく見てみる。
しかし、その光が怪しいものなのか否かは、見ただけでは判断出来なかった。
持ってみても特に嫌な感じはしない。
まあいっか、と呟いてから特に躊躇することなく、だらりとベッドからはみ出しているクロロの手に、
それを巻いた。


「…なんだこれは」
自身の身体の変化についてはやはりまだ敏感のようで、クロロは思っていたよりも早く反応した。

「仕事仲間から貰ったミサンガ」
「…ミサンガ?」
思ったとおり、ほんとうに寝ていたらしい。眩しそうに細めた目が、私を見た。
それから、その手に巻かれたものを見定めようとさらに目を細めて凝らしている。絶になっているんだから、この怪しい光は見えないはずだ。

「これね、念が込められていて、相手が危害を加えようとすると、もう片方のミサンガをしている人に教えてくれるらしいよ」
「へえ…それ、絶状態でも作用するのか?」
「あ」
確かに。
一番確認しなきゃいけないことを、聞き忘れていた。
とんでもなくあほっぽい自分の失態に注目されないように、極力なんでもなさそうな顔をしながら横目でクロロを伺うと、思ったとおり呆れた半分の瞳がこちらを見ていた。

「…失神してない絶の人間を扱うなんて滅多にないんだから、しょうがないじゃない」
「とことん抜けているというか何と言うか、…」
その後に続く言葉は聞こえてこなかったけど、何が言いたいのかは分かるから深追いはしない。
だがよく考えると、私の仕事仲間は、私が軟禁している対象者を自動的に絶にすることぐらいは知っている。
ということは、それを知った上でこのミサンガをくれたのだから…。
彼の腕にあるそれと対を成すもう一本を、自分の腕に巻き付け、結んだ。

「ものは試しでしょ」
「開き直りに近いな」
「なんとでもどうぞ」

着けることに少しの不安はあったものの、着けてみてしまえば特にこれといった違和感はない。
いくら凝視しても、念がこもっているのは見えるものの、嫌な感じがするわけでもない。
「うーん、特に何もないなぁ。クロロはどう?なんか感じる?」
「いや、何も」
「あそう。ならまあとりあえず着けておこう」

今のところ害はなさそうだし、あの子がくれたものだし、変なものじゃないはず、と心の中で何度か頷いた。
それからクロロに背を向け、とりあえず床に散らばったままにしていた荷物を拾おうとしたときだった。
突然、自分の手首に電撃。
「っ、え」
反射で振り向く。
が、それより早く首に熱。
視界に入った動くもの。
少し脳が揺れる。
一瞬何があったか分からなかったが、この圧迫感。
どうやらクロロに背を向けた瞬間、彼の腕によって首を捉えられ、そのまま締め上げられているらしい。
彼の腕の熱が、首に直接伝わる。
絶だからオーラはなく、彼の気持ちは読み取れない。
嫌な圧迫感はないが、殺意は感じる。
が、彼の表情を窺うこともできない。
気が遠くなる前に、とりあえず常套手段として背負投げを決め込もうとしたとき、ようやく首の圧迫感がなくなった。

「っはあ、…ちょっと、強すぎる、んじゃないの?」
念の為に飛び退いて、クロロから距離を取る。
窓を背後にしゃがんだ。
「実験というのはそういうものだろう」
そんな警戒態勢の私とは反対に、彼は肩を軽く回している。しかも、まるで"少し運動のために遊んでやった"と言わんばわかりの微笑み付き。

その冗談みたいな態度に苛ついて、強めに睨むが、クロロは全く悪びれた様子なく飄々とこちらを見てから、完璧な笑顔とともに肩を竦めてみせる。
「やるからには、本気で危険なことをする必要があると思ってな」
その言い訳じみた言葉の後に、大丈夫だったか?という音が聞こえたには聞こえたが、クロロの目は私のミサンガに向いていて、その態度からして、その発言は単なる音で、私の首のことは全く気にしていないことが手に取るように分かった。むかつく。けど、こんな心のなさそうなヤツに何を言っても無駄そうなので黙っておく。

「…これはちゃんと作動したよ、ビリビリってなった」
「絶の相手でも問題なしか」
少しは申し訳なさそうにしたらいいのに、ミサンガへの興味からなのか、もうそのことしか考えていなそうで、またもやむかつく。

警戒してしゃがんだが、クロロにはもう敵意はなさそうだった。もういいか、と思ったのと、体勢が辛くなったから、立ち上がって窓枠に座る。
すると、クロロもこっちに来て、窓横の仕事机に腰を下ろし、私の手首をつかんで、まじまじとミサンガを見て、自分のものと見比べている。
「何に反応してるのかな?」
「考えられるとしたら、オーラ未満の気の流れ…か」
なかなか高性能なミサンガだな、と思ってからあのスピード狂いに感謝した。
「まあ、これで性能はよく分かったから、クロロはきちんとつけておくように」
「了解」
「勝手に外さないように」
「分かった」
「あと、もう危害を加えないように!」
さっきの苛立ちと、私の可哀想に痛む首を思い出して、掴まれていない方の手で、クロロの肩にグーパンチしてやった。
「分かってる?万が一にでもこのか弱い私が死にでもしたら、クロロは此処から出られないかもしれないんだよ?」

彼は、殴られた肩を笑いながら撫でてから、それも良いなと微笑んだ。
…どんな趣味だよ、と内心で突っ込むと、窓からの暖かい風が頬を撫でた。

ふと窓越しに街を見ると、既に開いている店で賑わいを見せている。
完全に目が覚めた代わりに、今度はお腹が空いた。
私達の遅い朝は、始まったばかりだ。



240720









-Suichu Moratorium-