一枚引いて戴けますか。
もうお夕飯にしようかと提案したのは、勿論、家主である私だった。
さっきまでの綺麗な夕焼けは、どこか遠くに行ってしまった。今は、あっという間に上から降りてきた藍色に染め上げられて、いつもと変わらない夜になっている。時間的には少し早めなのだろうけど、昨日の私はもうとっくに夕飯を食べ終わっていたことを考えれば、この時間にこの提案をするのは、きっと妥当なことだろう。
それに対してあの黒髪の彼は、特に異論無さそうに頷いてから、再び窓の向こうに目をやった。
そんなに景色が好きなのか或いは珍しいのかよく分からなかったが、静かにしてくれているので問題はないだろうと判断して、そのままにしておく。
それから何を食べようか、何を作ろうか逡巡しながら一人でキッチン横にある冷蔵庫を開けてみれば、湿布と塗り薬とキムチ。どうしてだか、いつも入れている食材がそこには無かった。
「…荒らされた?」
しかめっ面で思いついたことをぽつりと呟けば、真後ろに気配。
「此処に勝手に入れる奴がいるのか?」
「あそっか。いないや」
呆れたクロロの声を聞いて、ようやく此処が自分の念空間だったということを思い出す。そうだった。ならば、この冷蔵庫が空に近かったことにも合点がいく。
いくらいつも住んでいる方の部屋に食材があっても、この念空間の部屋の冷蔵庫には存在しないのだ。
いつもと変わらない窓からの景色を見ていたからか、そんな当たり前のことをすっかり忘れていた。
別の空間だから当然のことだけど、その癖同じ見た目をしているというのは、思った以上に混乱しやすい。我ながら不便だ。
そんな文句を込めながら冷蔵庫のキムチを睨んでいたが、現状を思いだして、いつの間にか後ろに立っていた彼を振り向き仰ぎ、口を開く。
「クロロ」
「なんだ」
「ピザ好き?」
○
机の上に乗せたパソコンを二人で覗いて、あれやこれや言いながら各々好きな種類のピザを電話で手際よく頼んでいった。
早い時間だということもあってか、予定よりも10分近く早くに家のインターホンが鳴く。
薄べったい箱に入ったままのピザをテーブルにいくつも置き、一緒に頼んだ缶ビールも冷やしたグラスと共に並べた。
一人一枚もあれば満腹になるだろうと計算して二枚のピザを買うつもりだったのに、目の前で心なしか上機嫌そうにプルトップを押し上げているクロロのせいで、合計五枚ものピザがテーブルに広げられている。
なんてことだ。
どう考えても食べきれないじゃないか。
こいつだって、見る限り大食いとは思えない。
きっと、元から食べきる気なんてないんだろう。とんだ浪費野郎だ。でも、残すのはもったいないから、はち切れて死にそうでも、こいつに食わせることにしよう。
そう決意して目の前の美人を睨めば、その口端が軽く上がる。
「食べないのか」
気付けば、こいつはもう食べていた。しかも、
「あ、それ私のピザ!」
クロロが手にしていたのは、私の大好きな、パイナップルの乗ったピザだった。
もう二枚もたいらげている。見ためによらず、大食漢なのかもしれない。いやそれより。
「…私がそれ頼もうとしたら、気持ち悪いとか言ってすごい嫌そうな顔したくせに」
「食わず嫌いは駄目だな」
「なんじゃそりゃ」
思ったよりそれが美味しかったのかは知らないが、呆れた私は、クロロが頼んだソーセージが馬鹿みたいに乗っているピザを仕返しとばかりに三枚ほど掴み取って自分の皿に乗せた。
だけど余りに油っぽくて、食欲はそそらない。自然に右手が動いて、ビールグラスに口をつけ思いっきり逆さまにしてやった。
○
「もふこ」
自分の空のグラスを握りながら、いつクロロのビールを掠め取ってやろうか、と少し酔った頭をフル回転させて考えていたので、呼ばれたことに気付くのに七秒はかかった。
目線だけを彼に向けて返事をすれば、「お前の電話だけは使えるんだな」と呟かれる。
電話注文をした時に気付いたんだろう。
それに、"だけ"と言うのだから、自分の携帯が繋がらないのも確認済みか。
「ま、例によって私のだけはね」
「もふこの携帯を使えば、俺も電話出来るのか?」
「そりゃ可能だよ」
ぺろりと指を舐めて、さらりと答えれば、案の定その携帯を寄越せと言われた。
なんでだろうと素直に疑問に思ってから、昼間の遺跡でクロロに遇った時に居た、茶髪のパンチパーマのことを思い出した。
「ああ、仲間に助けてもらうの?」
「…たすけて?」
意味が分からなかったのか、彼は大きな目を少しだけ見開いた。
「違うの?」
「…そうか、俺は軟禁中、だったな」
「忘れてたの?」
とことん無神経な奴だ。
私なんかじゃ、身の危険を感じるまでには至らないからなのだろうけど、だからといってここまで気を抜かれるのも腹が立つ。それを態度に出すのも腹が立つ。
かと言って、怒鳴ったりして怒るのも面倒くさい。こいつのために、そんなエネルギーを使うわけにはいかないのだ。
「まあいいや。はいドウゾ」
鼻から息を漏らしてからポケットに挿していた携帯電話を向かい側へとやや荒っぽく放れば、短い礼と共にボタンのプッシュ音が聞こえてきた。
暫く漏れ聞こえていた呼び出し音が消え、代わりに騒がしい男の声が響く。
会話の内容までは聞き取れなかったが、クロロの「五日後には戻る」という一言で、電話は終わった。
(これまた此方をなめきっている一言にカチンと来ないこともなかったけれど、何も言うまい。)
その後再び放られた携帯電話は、弧を描いて私の手元に戻ってきた。
「お仲間はなんだって?」
「まあ、それなりに文句を言われた」
「文句?」
普通、仲間だったら、心配をして大丈夫かとかそういうことを言うものじゃないのか?と心底疑問に思ったところ、まるっきりそれが顔に出ていたのだろう。クロロがペパロニピザを手にしてから、薄く笑んだ。
「俺が仕事の途中で此処に来たからな。一人で戻るのも面倒だったんだろう」
その言葉に、少し納得。
あの遺跡の地下に潜る道には、結構な苦労がたくさんあるのだ。同様に、地上に戻るのもこれまた面倒くさい。だからこそ面白いのにな、と小さな声で息を吐きながら言うと、そうは思えないような奴なんだ、と返ってきた。地獄耳か。
○
はあ。もう結構食べた。そう思ったところで、目の前のテーブルを改めて見下ろすと、未だに消えそうにないピザの山。
「ところでクロロ」
「なんだ?」
「ピザ。一人一枚って言ったよね」
「Sサイズにしろと言うから、一枚では足りないと判断しただけだが」
それで合計五枚にしたと。
ああ、分かった。
こいつ、中々手強い理屈屋だ。
敵に回すと面倒なことになりそうなので、はいそうですかと適当に返した。それから、"残したら押し込んででも食べさせる"という先程思い付いた手段が、やっぱり一番理に適ってるかもと思い直して、絶対に実行してやる。と、意気込んだ。
ピザの大食い選手権については、一足早く白旗を挙げた。私だって、合計すればワンホールと少しは食べたはず。女の人にしてたら中々な戦績だと思う。
ふうと軽く息を吐いて天井を見上げると、途端に私の取り皿がカタンと鳴った。
ちらっと見遣れば、皿の上に行儀悪く乗ったピザ。
精一杯の"ふざけるな"を目に込めて睨んだが、それは目の前のクロロには通用しないどころか、笑わせるという謎の効力をもたらした。
ああもう!こんなにも苦しいのに!
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-Suichu Moratorium-