手薬煉引いた


窓の外は、いつも霧がかかったように遠くの景色が見えることはない。
壁一面を覆う大きな窓ガラスに手を触れると、ひんやりとした感触が指に伝わってきた。空が暗いせいか、ガラスには半透明に透けた私の姿が映しだされている。その肌は青白く、透けていることも相まってまるで幽霊のように思えた。
暫くそうして過ごしていると、カタカタとガラスが揺れる振動が私の指先を震わせた。その正体を探すように、思わず顔を上げる。それが風の仕業であることは分かっていたけれど、外には得体の知れない何か大きな存在が居るような――そんな気がするのに、その姿はどこにも映らない。
薄暗く広い室内は、足元に瓦礫の欠片が落ちていて足場が悪い。かつては窓ガラスの左右に佇む荘厳な聖母像の一部であったはずのそれは、すっかり色が変色してしまっていた。
その時、鉄の軋む嫌な音を立てて私の背後から明かりが射し込む。振り返らずに目の前のガラスに反射した景色で後ろを確認すれば、この部屋に備え付けられた大きな鉄製の扉を開いて誰かが入ってくるようだった。扉が開いて舞い上げられた砂埃が、室外の明かりを反射して微かに光っている。
扉を開いたその人物の影は、すぐに足を踏み入れることなく辺りを探るように室内を見回すと、それからようやくその身体を滑り込ませた。コツ、という革靴の音と共に、声が響く。

「……こんなところで何を?」

聞き覚えのある、男性にしては少し高めの落ち着いた声。その言葉は明らかに私に向けられていて、背後の人物が薄暗がりに立つこちらの存在を認識しているという確かな証拠だった。私は静かに深呼吸して、ゆっくりと振り返る。バタン、と扉の閉じる音が室内に反響して響いた。

「……それは貴方にも同じことが言えると思いますが、……ルカさん」

扉のすぐ傍にあるテーブルに手をついて僅かに首を傾げているのは、荘園での時を共に過ごしている内の一人であるルカさんだった。私の言葉に、彼は息を吐いて笑うとテーブルから手を離す。彼の手袋が触れたテーブルクロスの上から、細かなパン屑が落ちた。

「はは、確かにその通りだが――私は君がこの部屋に入っていくのを見かけたものでね、てっきり何かあるのかと」

彼がこちらに距離を詰める度に、コツコツと固い革靴の音が鳴る。私のすぐ傍に立った彼は同じように窓の外を見渡すと、特筆すべきものが無いことを確認して再び私へ視線を向けた。テーブル上の燭台以外に光源のない室内で、炎の橙が揺らめく濡羽色の瞳がこちらを見下ろしている。その視線から逃れるように、私は窓の外に目を遣った。彼はそれを逃がさぬように言葉を続ける。

「今日のゲームは終了した、それに君は参加者には選ばれていなかったはずだが……」
「……それは…」

彼の言う通りだった。ゲームの参加者でもない私が、その待機室として利用しているこの部屋を訪れる理由はない。私はその言葉に顔を俯かせ、言葉を濁しながら髪を耳に掛けた。別に見られてまずいことでもなかったが、わざわざ尋ねられるような大した理由は持ち合わせていなかった。
その時、不意に頬にざらりとしたものが触れる。それに驚いて視線を上げると、ルカさんの掌が私の髪を一束、掬うようにして触れていた。髪束に触れる指先の使い込まれて毛羽立った手袋からは、微かに機械油の匂いがする。

「そうか、どこかいつもと違うと思ったが……髪型か」

する、と指先で髪を滑らせた彼が、独りごちるように呟く。彼が口にしているのは、私の髪型のことらしかった。普段の荘園内では邪魔にならないように一つに束ねている髪を下ろしていたせいで、彼には違う印象に映ったのだろう。私はと言えば、突然の彼の行動に驚いてしまって動けずにいたのだが。
私の視線に気付いたらしい彼が、ぱ、と手を離して冗談めかすように両手を上げる。失礼、と口にした彼に曖昧に首を横に振ると、私は再び室内の様子を一瞥した。

「少し、……気になったんです、ゲームの時以外この部屋に立ち入ったことが無かったので」

それは事実だった。他にも理由が無いわけではなかったが、私がこの部屋を訪れた目的は何か荘園の秘密があるのではないかと――そんな疑問からだった。私のその言葉を受けた彼が、納得したようにあぁ、と呟く。

「それで、君の望むものは」

見つかったのか、と続けた彼は、好奇心を隠す様子もないらしく薄く微笑んでいた。
薄暗い室内。砂埃の薄く積もった床、色褪せた壁紙。天井から下げられたシャンデリアは古びて溶けた蝋が変色して固まっており、既にその機能を失っている。背の部分が欠けた椅子はいつもひとつ――一人分、多い。
その時、不意にどこからか聞こえてきた人工的な音に、私と彼は揃って顔を上げた。
先程まで二人の声しか聞こえていなかった部屋に響きだしたのは、ピアノの旋律だった。ゲームの前にどこからか奏でられるあの音色かと一瞬身体が強張りかけたが、それにしては音が違うし、音源が遠いように感じる。
止まることなく滑らかに奏でられるその音を耳にしながら、私は心当たりのある人物の名前を口にした。

「クレイバーグさんですかね……?」

作曲家だと名乗った彼が荘園のピアノの前に座っている姿は、何度か目にしたことがあった。とは言っても、彼は人前で披露することはあまり好まないらしく、誰かの気配を感じるとすぐにその手を止めてしまうのだが。
すぐにピアノの音から意識を逸らした私とは反対に、ルカさんはその音に耳を澄ますように顎に指先を当てたまま視線を上に向けていた。それから、独り言のように何かを呟く。彼の口にしたその言葉がピアノの曲名を示すものだということに気付くのには、少し時間がかかった。

「そういえば、ルカさんもピアノが弾けるとお伺いしましたが」

意外にも、と言っては失礼かもしれないが、彼はそういった芸術にも造詣が深いらしい。
彼に受ける第一印象からはとてもそれらに興味がある性格にも思えなかったのだが、この荘園で過ごすうちにその印象は驚くほど変わっていった。
私の言葉を受けた彼が、僅かに肩を竦める。

「…あぁ、誰から聞いたんだ?……弾けるという程のものでもないさ、発明以外はなんの取り柄もない平凡な男だよ、私は」

貴方がそれを言うと嫌味にしか聞こえませんが、という言葉は飲み込んで、私は苦笑した。育ちが良く教養があり、恐らく以前はその傷も無かったのであろう端正な顔立ちをした元天才発明家――なんて、この世に二人と居ないと思うのだが。

「ところで君は、ダンスの経験は?」

突然投げかけられた質問に、私は目を瞬かせて彼を見上げる。
向かいの彼は妙案を思いついたとでも言いたげに眉を上げて、愉しげな笑みを浮かべていた。

「随分前に、一度だけ……それも、初歩的なのもので……」

そう答えたものの、正直言って全く自信はなかった。朧げな記憶を辿るも、自身がどんな動きをしていたかさえ曖昧だ。
しかし彼はそんな私の様子を気にすることなく、迷いのない動きで手を差し出す。正装に合わせた薄手のものではなく使い込まれて古びた手袋が、彼の動きと矛盾してちぐはぐな印象を与えた。

「充分だ、……一曲踊ってもらっても?」
「え……、ですが、本当に踊れるかは余り自身が無くて――」
「構わないさ」

彼の差し出した手のひらの前で躊躇うように彷徨っていた私の手を、ルカさんは掬い取るように掴む。そのまま手を引かれて慣れない足を一歩前に踏み出せば、思っていたよりもしっかりとした腕に身体を支えられた。ぎこちない私の足取りに合わせる彼は随分手慣れていて、一度や二度の付け焼き刃の知識でないことはすぐに分かった。
リードする彼の動きは強引ではなく、しかし不安も感じさせない。まるでこちらが上手くなったような錯覚を覚えてしまいそうな程だ。私の口から、思わず感嘆と共に言葉が零れる。

「本当に何でも出来るんですね」

出来ないことを探す方が難しいんじゃないですか、と私が苦笑すると、彼は目を細めて自嘲するように笑った。
考えずとも、自然と足が前に出る。いつの間にか、ステップはピアノのリズムに重なっていた。

「いや、……そうでもないさ」

遠くで聞こえるピアノの音色の旋律はやけに明るく、この暗い広間とは余りにも釣り合わない。

「……あの発明を完成させられないのであれば、私は何も成し遂げられなかったのと変わりない」

それこそ舞踏会で披露しても恥ずかしくないであろう彼の美しく無駄のない動きと、白と黒の囚人服が妙に不釣り合いだった。時折私の身体にも触れる冷たく固い首枷が、暗闇の中で燭台の炎を反射して煌く。

「……あの発明?」

繰り返す終わらない悪夢、深まっていくばかりの猜疑心、姿を消していく参加者達。素性を語りたがらない彼らの過去には、私と同等か――それ以上に、後ろ暗いものがあるのだろう。そうでなければ、今この場に居ないはずだ。
彼のターンに合わせて、景色が回っていく。天井のシャンデリアは、かつては美しく輝いていたのかもしれない。
私たちは一体、何のためにここに集められたのだろう。

「あれは私とあの人の全てだ、……私の発明品だ」

私の手を握る彼の指先が、僅かに緊張で強張った。
非対称の黒翡翠が、強く光る。
その時、がくん、と足を踏み外す感覚がした。床に落ちていた瓦礫に足を取られたのだと気付いた頃にはとうに私の身体は後ろに傾いていて、驚きで唇が僅かに開く。
声を上げる間もなく、繋いでいた彼の手が私の手を強く引いた。腰に当てられていた腕を回して彼の方に抱き寄せられる。
寸でのところで転ばずに済んだ私は、至近距離に詰められた彼の顔を呆然と眺めるしかなかった。いつもより僅かに見開かれたその瞳には燭台の炎とは違う、私の瞳の色が映っている。頬に、重力に従って落ちてきた彼の髪がかかった。

「…、……す、みません、ありがとうございます」
「いや、……怪我はないか?」

私が首を縦に振ると、彼の表情は私のよく知る薄い笑みへと戻っていく。

「すまない、私のせいで君に怪我をさせるところだったな」

ここはダンスには不向きらしい、と呟いたルカさんが私の身体を抱き起こしながら辺りを見回した。視界が悪く見えづらい中でも、いくつもの瓦礫の欠片が床に散らばっているのが見える。
気が付けば、先程まで荘園のどこからか聞こえていたピアノの音色は止んでいた。
私と彼の間に沈黙が流れかけたその時、再び静寂を破るように小さな何かが床で跳ねる硬い音がした。
自身のすぐ傍で聞こえたその音に思わず辺りを見回すと、ルカさんが息を吐いて小さく笑う声が聞こえた。私が体勢を立て直したことを確認した彼が、自然な動きで私から手を離す。そのまま彼はテーブルの方へ歩み寄ると、脚の付近に屈んで指先で小さな何かを拾い上げた。彼の動きを追っていた私の視線の先で、チカ、と金色が光る。

「君の……袖のカフスだろう」

こちらを向き直った彼の指先に挟まれたそれは、確かに私のシャツの袖についているカフスと同じもののように思えた。自身の袖を確認すれば、両袖についていたはずのカフスがひとつ、姿を消している。

「今のでどこかに引っ掻けたのかもしれないな」

眉を寄せて苦笑するような表情を見せた彼に、私は取り繕うように返事を返した。たわんだ袖に触れると、カフスの外れた部分から解れた糸が垂れ下がっているのが分かる。

「いえ、元々金具が緩んでいたんです」

以前からそろそろ新調しなければならないと考えていたものだったから、恐らく寿命だったのだろう。彼が手にしたカフスは少しくすんでおり、鈍い金色をしている。差し出されたそれを受け取ろうと手を伸ばせば、ルカさんはカフスを手にしたまま私の手元を見つめていた。

「あの、何か……?」
「あぁ、……いいや、そうしていると君は人形のように見えるな」

つ、と彼の指先が私のシャツの手首から垂れたままの白い糸をなぞった。
不健康な肌色に、睡眠不足で隈の消えない瞳、縫い目のように薄らと残る傷跡。
お世辞にも精巧なつくりとは言えないだろうが、彼の言葉には一理あるかもしれないと、そう思ってしまった。
但しそれは私だけでなく、この荘園で過ごす人々誰もが舞台の上で踊らされる操り人形のようなものだと、そんな意味でだったが。
尤も、それを口にした彼の真意がどういったものかは分からない。

「……そうかもしれませんね」

糸の先を辿る彼の指先が、私の手首に触れた。
冗談さ、と笑った彼は変わらず真意の読み取れない表情のまま、私の手に静かにカフスを握らせる。

「次は正式な場でエスコートさせて貰いたいものだね」 
「……荘園を出られたら、是非」

そう返して口元に笑みを浮かべた私に、彼は僅かに目を細めるだけで頷くことはなかった。私がそれは実現することがないと知っているように、彼も本気ではないのだろう。
カフスを落とさないように手のひらに握り込んで、一歩身を引く。それでは、と頭を下げて扉の方へ向かおうとした私に対して、彼は動く素振りを見せなかった。

「君の用事は、もういいのか?」

代わりに向けられたのは、静かな一言だった。
彼の言葉に、足を止める。

「……何のことでしょう?」

窓の側に立ったままの彼は、答えない。私も、振り返らなかった。
扉にかけた手を見つめる。願いを叶えるために必要な、ゲームの勝利。そのために必要なのは仲間の協力ではなく、私以外の敗者だと、そんな考えが浮かんでしまったのは、いつだっただろうか。
危険を冒す必要はない。ただ、ゲームの直前に私以外の参加者に不和が起きるようなことがあれば、――その切っ掛けさえあれば、それで充分だった。

「そうか、……それじゃあ、また明日」

彼が息を吐く。蝋燭の炎が、微かに揺らめいた。

「えぇ、また明日」

遠くから聞こえてくる不思議と心地いい音楽に、足を踏み出す。
ピアノの音は、聞こえなくなっていた。

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