バーのカウンターに置かれた薄いガラスのカクテルグラスが淡い照明に照らされて中のカクテルが淡く光っている。その隣に並ぶ細長いグラスに中途半端に残った炭酸の気泡が浮かぶジントニックには絞られたライムがそのまま沈んでいる。

 飲んでしまいなよ

 その言葉を飲み込む理由は楽しそうにいろんなことを話す和彦くんがかわいくて仕方なかったことと、もう少し一緒にいたいという下心のせいだ。なんてったって二人で会うのは一ヵ月半ぶり、時計の針にせかされてもまだこの空間にいたいと思うのは仕方ないと思う。それに和彦くん自身が帰ろうか、と立ち上がらないんだから私から和彦くんの話を止める理由はほとんどない。むしろもっとたくさん聞いていたい。どこどこのご飯が美味しかったとか、いついつのライブで卓郎くんが歌詞を思いっきり間違えて全員から笑われたとか、満足気に、そしてものすごく楽しそうに話はどんどん続いていく。ずっとこの時間が続かないかなぁ、ほんのり赤みが増した和彦くんの横顔を見ながらアルコールのせいもあってうっとりとそう思った。



「ごめん、待った?」



 トイレに行っていた和彦くんが戻ってきたとき私は和彦くんと同じジントニックを飲み始めていて、待ってないよという意味をこめて小さく首を横に振れば和彦くんはそっか、と柔らかく笑った。



「そういや先輩は一ヶ月なにしてたの?」

「私?」



 話したいことは粗方話し終えたのか、次は和彦くんが私に話を振ってきた。少し背の高い椅子に座りなおして顔を覗き込まれる。私は少し口を開けて、また閉じて、前に和彦くんに会ってからの一ヶ月を思い返してみた。一ヶ月。どれだけ思い出しても特に和彦くんに楽しげに話せるようなことなんて一つもない。友達に誘われてネイルサロンに行ったことぐらいしか胸が躍ったような出来事が、本当に一つも思い出せなかった。思い出せなかった、というか、なかったのだ。一つも。ネイルサロンの話だって和彦くんに話したところで広がる話題でもないし、しかもあのときキレイに整えてもらった指先はもういつも通りの私の指先で、信憑性さえない。友達に撮ってもらった写真は、たぶん残ってるだろうけど。



「なんでもいいよ」



 優しく低い声が耳にゆるりと滑り込む。黙ってしまっていた私はなんでもいいなら、と自分の指先を眺めながらぽつりと呟いた。



「ネイルサロンに行った、ぐらいかな」

「ネイルサロン?」

「うん。甘皮取ってもらって、爪もきれいに整えてもらって、普段の私なら絶対しないようなネイルアートもしてもらったの」

「へぇ」

「もう剥げちゃったけどね」

「見たかった」

「ほんとぉ?」

「ほんと」



 こんなことに一ミリも興味がなさそうな和彦くんがそう言って笑ってくれたから私は調子に乗って写真あるよ、とバッグにそのまま突っ込んでいたスマホを取り出した。ボタンを押して画面が明るくなって、自分の爪の写真のことしか考えてなかった私の頭が急に冷める。確かに私は時計の針にせかされていた。それは終電までに和彦くんを駅まで送らなきゃいけなかったから。でもスマホの画面に映る数字はしっかり終電の時間を過ぎていて、暗くなった画面には青ざめた私の顔がぼんやり写っていた。



「和彦く」

「先輩、終電逃しちゃいました」



 したり顔の和彦くんを見て頭がくらっとした。これ、わざとだ。絶対わざとだ。会ってすぐに明日仕事だからって呟いたから私は終電で帰そうとちゃんと思ってたのに。

 夢心地だった私は一気に現実に引き戻されて慌てて財布を取り出した。半分以上残ってるジントニックを飲み干す余裕なんてなくて、他のお客さんと話しているマスターを呼ぼうと声を出そうとした瞬間、和彦くんに手を引っ張られて半分浮かせていた腰がまた椅子の上に戻る。



「和彦くん!?」

「いいじゃん、飲もうよ」

「でも明日仕事なんでしょ!?もう若くないんだから早く帰って―――」

「もうちょっと一緒にいたい」



 引っ張ったときに掴んだ手にするするとたくましい指を絡めながらダメ?と私にしか聞こえない小さな声で色っぽく囁いた和彦くんはさっきまでの楽しそうに話す和彦くんとは全くの別人に見えて、抗うことなんて出来なかった。



ゆるやかな一撃を



「全部計算だって言ったら怒る?」



title by 星食