今日の夜は帰れそうだよ、でもちょっと遅くなるかも。
たったこれだけの文章を打とうとした形跡だけが残ったまま、アプリを閉じることさえ忘れていたラインのトーク画面が、携帯のロックを外した瞬間出てきたとき俺は思わず叫びそうになった。現在午前二時。わらわらと居酒屋から出てくるバンドマンやスタッフの山の中、酔っ払った誰かが三次会だ!と叫んでいるのが遠くに聞こえる。まずい、これは本当にまずい。まず時間帯がもうまずいし何より今日帰ってこれることを伝えてないのが一番まずい。彼女は早寝の子だからたぶんもう一人ベッドで熟睡しているだろう。だからといって無言で帰って無言で隣で寝てたりなんかしたら絶対に怒られる。なんで連絡しないの!?ってあまりにも怒る彼女がリアルに頭に浮かんで本当に怒られてるような錯覚に陥る。いや、怒るだけならまだいい。問題は泣かれることだ。俺は彼女の涙にめっぽう弱い。ぽろぽろと目じりから零れる涙を見るだけで胸が張り裂けそうになって涙の原因を殺したくなるほどに、弱い。だから俺が原因で彼女が泣いてしまったら過去の自分を殺すことは出来ないからその場ですぐ自害でもするかもしれない。自害。
「たーくろっ」
思わずうめいてしまうほどの衝撃が首全体に走って骨が軋むのを感じた。鋭くはないけど重たい痛みがじんわり首から肩にかけて広がっていく中で俺の首を攻撃したであろう太い腕がそのまま肩に回される。その太い腕の酒臭い犯人を横目で睨みつけると犯人は顔を真っ赤にしてけらけら笑っていた。
「かみじょうくん痛い」
「携帯眺めてどーしたの!三次会行くぞ」
「あ、無理」
「えぇー?なんでよ」
「・・・俺これから自害しなきゃいけないから」
「は?自害?」
肩を組んだまま顔を覗き込んできたかみじょうくんは怪訝そうな顔で俺を見つめたあともう一度「自害ぃ?」と呟いた。それに対して俺は頷いたあと、そうだ、まだ決まってなかった、と慌てて否定するように首を横に振る。そうしたらかみじょうくんが余計に怪訝そうな顔になって、その顔を見ていたらなんだかどんどん情けなくなってきた俺は一方的に組まれていた肩を組んでかみじょうくんに泣きついた。
「どうしようかみじょうくん、俺本当に自害するかもしれない」
「なになに、どうした」
「ほら、俺たち昨日スケジュール貰ったでしょ?」
ここ最近アルバムのリリース関連で仕事量が一気に増えてとても忙しい毎日を送っている。前はスケジュールなんて一ヶ月に一回、短くても二週間に一回貰う程度だったのが年数が経つほどどんどん間隔が短くなってきて、今なんて三日に一回のペースで貰うようになっていた。酷いときは明日のことが前の日の夜に分かるなんてこともある。突然「明日から東北キャンペーンだから」とか無茶振りだってされるようになった。元々不安定なスケジュールがもっと不安定になって、家に帰ることも昔よりまばらになってきた。だから帰れることが分かったときには絶対連絡をする、と、俺が勝手に彼女に約束を申し込んだのだ。そして彼女は絶対だよ?とそれを受け入れてくれたのだ。そう、全部俺から発信しといて、このざまである。
「でも今までは守ってたんだろ?だったら一回ぐらいいいんじゃね?」
少し呆れたように言ったかみじょうくんが続ける。
「それに今連絡入れりゃあいいじゃん」
それで解決するなら悩まないんだよ、かみじょうくん。
なんて言われるだろう。
大きなため息を吐いてポケットから家の鍵を取り出す。申し訳程度にもならないだろうけどないよりあったほうがいいと思って買ってきたケーキが入ったコンビニの袋が立てる音がマンションの通路に酷く大きく響いてるような気がする。早く部屋に入らなければ。意を決して鍵を鍵穴に入れた瞬間、チェーンがかけられてる可能性があることにようやく気づいた。え、どうしよう。チェーンかけられてたら、え?そんな最悪なシチュエーションがこの鍵を回せば待っているかもしれないってこと?え、そんな最悪で情けないことが、あるかもしれないの?
本当に十数時間前の自分を恨み殺したくなった。なんでアプリを起動してトーク画面まで開いてたのに肝心のメッセージを送ってなかったの!?バカじゃねえの!?しかもそれ気づくのに何時間かかってんだよ!!
頭をかきむしってその場にしゃがみこむ。無理だ。鍵を回すのが怖い。怒られることへの心の準備は出来てるけど泣かれることの心の準備は出来ていない。タクシーに乗って帰ってきてる間に最後に家に帰った日を指折り数えてみたらぞっとするぐらい日にちが空いていたことに気づいた。もしこれが俺と彼女が逆の立場だったら?そう考えたら怒りより寂しさや悲しさが勝ちそうな気がして、逆にしていた立場を元に戻してみたら本当に申し訳なくなって頭を抱えることしか出来なかった。
酷く静かな空気に包まれて鍵穴に刺さったままの鍵を回すことに躊躇していたらふいにドア越しにガチャンッと金属同士がぶつかる音がして、思わず鍵を引っこ抜いて後ずさると次はさっきより控えめな金属同士がぶつかる音がした。なにが起こってるか分からなくて身構えていると、なんと玄関が開いたじゃないか!
「おかえり」
玄関の向こう側にはパジャマを着て前髪をちょんまげにした彼女が、眠たそうな目で笑っていた。
「玄関のほうからなんか物音がするんだもん。びっくりして覗いてみたら卓郎でもっとびっくりしたよ」
リビングの電気をつけてキッチンへ向かったなまえが怒る様子も泣く様子もなくのんびり続ける。それに対して俺は「あ」とか「うん」とかもはや相槌とも言えないような声だけを返していた。連絡しなくてごめんの一言を言うタイミングが掴めない。別になまえの言葉をさえぎって言えばいいのに情けないことに口が重くて開かない。
「何飲む?お茶?水?」
「あ、えっと、お茶・・・」
「はいはーい」
冷蔵庫の扉が開く音がしてペットボトルからお茶が注がれるわずかな音さえ大きく聞こえる。言うぞ、言う。次なまえがこっちに戻ってきたら絶対言う。深呼吸を繰り返しながら何度もそう自分に言い聞かせているとうっすらとした影がリビングへ入ってきた。顔を上げるとなまえがコップを二つ持って歩いてきている。背筋を伸ばしてもう一度息を吸い込んだ瞬間、俺の目の前には久しぶりに見た自分のコップが差し出されていた。
「はい、お茶」
「あ、ありがとう・・・」
「いいえー」
しまった。またタイミングを逃した。
自分のふがいなさに心の中で自分を殴っているとコップのふちに唇を当てたままこっちを見ていたらしいなまえが突然ふふっと小さく声を漏らして笑った。それがあまりにも急なことで怒られるか泣かれるとしか思ってなかった俺はびっくりしてなまえを見つめてしまった。それでもなまえは笑っていることを隠すわけでもなく、むしろさらに笑っている。思わず開きそうになった口を慌てて閉じる。そして慎重に言葉を選んで話そうとしているとそんな俺よりなまえの方が先に口を開いた。
「ねえ卓郎」
「はい!?」
「なんか言うことない?」
え、笑いながら怒ってる?戸惑いながらも「ごめん」と言葉を搾り出したら「違うでしょ」と返された。ごめん、じゃなければ、場違いだと俺は思うけど。
「・・・ただいま?」
「うん、おかえり」
叱ってくれないうちはまだきみの手のひらの上だね
title by 星食
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