街のネオンを反射するほど濡れたアスファルトの上を半ば強引に引っ張られながら向かう先は一回だけテレビの特集で見かけたことのあるチョコレートの専門店らしい。俺の前を無言でずんずん進むなまえの髪はさっきまで降っていた強めの雨のせいで少し濡れていて毛先が顎に張り付いている。表情は今日顔を合わせたときから変わらずしかめっ面のまま、無言でずんずん歩いていく。そのしかめっ面の理由は昨日の夜わんわん泣きながら電話をかけてきたから知っている。だからいつもなら強めに文句を言っているはずだけど今は何も言えずにただ着いていくしかできなかった。


 白いライトに照らされた濡れた看板の文字を読む前になまえは迷いなく自動ドアをくぐった。引っ張られたままの俺も強制的に店内へと足を踏み入れる。店の中は思わずなまえと似たような顔になるぐらい綺麗で、あまりの場違いさに一瞬で居心地が悪くなった。早く出たい、という俺の気持ちを一ミリも汲み取ろうともしないなまえはずんずんとショーケースに近づいていく。強制的に目の前にきてしまったショーケースの中は淡い光で上品に照らされていて、その中に並べられているチョコレートはまるで全部おもちゃのようにキラキラして本当に食べられるのか信じられなかった。そしてもちろんおいしそうだとも思えなかった。そんなチョコレートの隣に控えめに値段の書かれたプレートが立っていて、そこに書かれていたとんでもない値段に少し目眩さえした。俺が人生で食べた一番高いチョコレートをはるかに上回る値段が、価値が、この小さな粒たちにあるというのか。これ一箱買う金でビールが何杯飲めるか計算しようとして慌てて止めた。



「これがいい」



 やっと口を開いたなまえが指したのはショーケースの中でも二番目に高い箱だった。それと同じ量でまだ安いチョコレートもあるというのに。



「・・・こっちなら買ってやる」



 量が多くて二番目に安いチョコレートを指す。俺を見上げるしかめっ面はちょっとだけ目を細めて「・・・譲歩しよう」と呟いた。買ってもらう側のくせにあまりにも生意気な態度でさすがに少しいらっとした俺はつま先でなまえの足を軽く蹴った。



「ありがとうございました」



 丁寧な挨拶を背に居心地の悪い店から出る。俺から手を離して高級そうな袋を握ったなまえの表情はしかめっ面ではなくなったものの好きなものを買ってもらった人の顔ではなかった。無、の一文字で片付けられそうな、そんな顔だ。



「次はどこ行くの」

「・・・これ食べる」

「じゃあ家行く?」

「今、食べる」

「は?今?」



 ぎょっとしてなまえを見ると本当に袋を開けそうな勢いだったから次は俺がなまえの手を引っ張って歩き出した。とりあえず路上は絶対いけない。せめて、と近くにある大きな公園へ向かう。今の時間帯とこの天気だから人はいないだろう。俺に引っ張られながらなまえはおとなしく着いてくる。


 公園にたどり着くころにはまた雨がぱらつきはじめていて、慌てて屋根の下にあるベンチへと向かった。そして手を離した瞬間、なまえは俺のことを見もせずに袋を開けてチョコレートを取り出して乱暴に包装紙を破り捨てた。裸になった箱の上にぽつぽつと小さな雫が落ちていることに気づいたのと同時に次は蓋が乱暴に開けられて、おもちゃのようなチョコレートが大きく揺れながら視界に入ってくる。角の丸い赤い粒が荒々しく震える口に投げ込まれる。がり、と奥歯でそれを噛みながらなまえはぼろぼろと泣いた。



 五年付き合っていた男に捨てられた、と泣きながらなまえから電話がかかってきたとき、俺はすぐには言葉が出なかった。それはなまえの彼氏のことをよく知っていて、さらには来週なまえの誕生日だということも知っていたからで、まさかこのタイミングで?と思ったからだ。一ヶ月前に楽しげに新居探しをしていたなまえが本人の大きな泣き声で消されていく。そして泣きすぎてむせたなまえにやっとかけた言葉が「なんで?」の一言だった昨日の自分はたぶん本人と同じぐらい混乱していたと思う。あまりにも突然のことで慰めの言葉なんて見つかりもしなかった。まあなまえ自身もただ発散したかっただけで慰めの言葉なんて求めてもいなかったからそれは別によかったんだけど。



「ころしてやる」



 また一粒口に運びながらなまえは昨日散々電話口で聞いた言葉を言った。


 あの店のチョコレートはなまえの彼氏が記念日にいつも買ってきてくれていたものだったらしい。


 のろう、ころす、しね、と暴言を吐きながらまるで過去を噛み砕くようにばくばくとチョコレートを食べるなまえを見て、俺も一粒勝手に摘む。ほとんど同じタイミングでチョコレートを口に入れたらなまえも俺も固まってしまった。ひんやりしていた粒が口の中の熱でゆっくり溶けていく。ねっとりした甘さが鼻にまで抜けた。それを奥歯で噛み潰せば、固まっていたなまえがごくりとチョコレートを飲み込んだ。そして出たのは暴言でもなく。



「にがい」



 いつだったかは覚えてないけど、ビターチョコが嫌いだと言っていたことをしゃくりあげて泣くなまえを見ながら思い出した。俺はなんとなく、自分がミルクチョコを食べたことがよかったんじゃないかと思った。嫌いなもので思い出を塗りつぶせば楽になるんじゃないか、口の中にまだ残るくどい甘さで喉を焼きながら真剣に思う。そんな俺なんか見もしないでなまえはにがい、とまた泣くのだった。



カカオ100%



「びたー、きらい」

「そのまま嫌いになっちゃえば?」

「・・・そんなことできるか、ばか」



 がりっと音がする。箱の中のチョコレートはもうすぐなくなる。