春を通り越して夏が来たんじゃないかというほど暑かったのはたったの数日で、今夜はその数日分の寒気もまとめてやってきたように寒かった。何か上着を着てくればよかったとTシャツにジーパンだけの自分を恨む。腕を布の上から擦って熱を作る。腕の一部だけ温かくなっても寒いものは寒いけど自然と体が動くのはなんでだろう。
しばらく立っていたけど仕事終わりの足が徐々に疲れてきて俺は開かない玄関のドアに背中をくっつけたままずるずるとその場にしゃがみこんだ。ひんやり冷えたドアに背中の熱がゆっくり吸い取られていくのを感じながら垂れてくる前髪をふっと息を吹いて浮かせる。浮いた毛先だけさっきと落ちる場所を変えたけど髪の束は動かない。首を振って退けるけど結局邪魔くさくてかきあげれば吹き抜けた春の風が額を撫でて消えていった。青い香りがする。
一年間大事に使っているちょっと華奢な腕時計に視線を落とせばこのアパートの玄関の前にやってきてから三十分も経っていた。大体いつもラインが来る時間に合わせてやってきたのに今日に限って遅いことにちょっとのイラつきと心配が混ざって頭を埋め尽くすから無意識にため息をつく。静かな場所には足音一つ聞こえず、膝に顔をうずめれば時計の秒針が進む音と自分の心臓の音が聞こえてくる。会いたい、と足を運べばこのざまか。事前に言ってない自分も悪いのかもしれないけどこんな時間まで帰ってこないなまえもなまえだ。ただでさえこのアパートの近くは街灯が少ないというのに、もしものことがあったらどうするつもりだ。近所の通学路には痴漢注意の看板まで立っているんだぞ。いつまでここに住むつもりなんだろう。一緒に部屋を探そうって・・・言えてれば、こんな心配もしなくて済むのに。
鼻の奥がむずむずして思わず大きなくしゃみをする。変な力の入れ方をしたからか鼻の奥となぜか首筋に痛みを覚えて不快感に顔を歪めていると小さな悲鳴が聞こえた。
「誰!?」
いきなり聞こえた声に思わず勢いよく立ち上がると微かな光がこっちを照らしていた。その奥に見えた姿にイラつきと心配がゆっくり消えていく。
「早く上がってこい」
声でやっと俺のことに気づいたのか、うそ!と小さく叫びながら光とともに階段までなまえが走り出す。すぐに転ぶんだから歩けばいいのに、なんて思ってるくせに急いでこっちに向かってきてくれていることにムカつくが顔がにやけてしまった。だけどこの顔は見られたくないから眉間にしわを寄せて唇の端をできるだけ下げる。不機嫌そうな顔を作って待っているとドタドタと慌ただしく階段を駆け上がってくる音が近づいてきてそれが止まるのと同時に振り向けば髪を乱したなまえが目を丸くしてこっちを見ていた。
「和彦?なんで?」
「なんでって、近くまで来たから」
嘘。本当はなまえの会社よりもう少し遠いスタジオからわざわざここまで来たのだ。どうしても会いたくて。絶対言わないけど。
「言ってくれればもっと早く帰ってきたのに」
「なんかあったの」
「飲み会に誘われててさぁ。それがしつこくてしつこくて・・・」
飲み会、ねぇ。口で言わなくても一瞬の沈黙で俺が考えていることに気づいたなまえはいつもカギにつけている小さな懐中電灯を消しながら慌てた様子で俺の顔を覗き込んだ。
「女の先輩だからね!?」
「ふぅん?」
「本当だって!」
「別に何も言ってねぇじゃん」
「・・・顔が疑った顔してる」
「なにそれ」
ちょっと睨むように俺を見たなまえにたまらず吹きだすと、それに安心したのか分かりやすく表情を崩して離れていく。
「今開けるね」
キーホルダーやら懐中電灯やらがぶら下がったカギから一つを選んでドアノブに差し込んで回せば軽い音とともに簡単にカギが開く。やっぱりセキュリティ面が最悪なここからさっさと引っ越してほしいと思いながら開くドアの奥へ先になまえを押し込んだ。続いて俺がドアノブに差し込んだままだったカギを抜いて部屋の中へ入る。大雑把に端に寄せられたなまえの靴の隣にスニーカーを脱ぎ捨てて後ろ手でカギを閉めた。それとほぼ同時に部屋の中の電気が点いて暗かった玄関までうっすらと明るくなる。前を見るとうろうろしている背中が少し部屋を片付けていた。
「和彦、今日車?」
「明日休み」
傍から聞けば噛み合ってない会話でも俺となまえの中では成立していて、荷物を置く俺ににっこり笑ったなまえが嬉しそうに冷蔵庫に向かった。
「あ、その前にお風呂入る?」
「・・・飲んでから」
「りょーかい」
「なまえは?化粧ぐらい落とせば?」
「うーん、私も飲んだ後でいいかな」
「どうせめんどくさいって言ってうだうだするくせに」
笑いながらそう言うと図星をつかれたなまえは冷蔵庫を少し開けたあと、そっと閉じた。
「・・・洗ってくる」
白のカーペットが敷かれた床に座ってテレビをつけた。ニュースとバラエティーが入り混じった今の時間帯、何を見ようか迷ってどんどんチャンネルを変えていく。一周回ってもピンとくる番組は見つからず、結局最初に合わせられていたニュース番組に落ち着いた。なんとなく眺めるニュースのコメンテーター枠に座っていた小説家の女の人が美人だと思いながらあくびをする。
なまえは気づくだろうか。今日が何日で、今が何時で、俺がなまえに会いたくなった理由とか。鈍いから気づかないだろうか。もう何年もこんなタイミングに巡り合えなかったから忘れてるかもしれない。
「いやー、ビール買っててよかったよねー」
振り向くと部屋着に着替えて上を向いていた前髪を撫でつけながらなまえが冷蔵庫の方へ歩いていた。
「和彦が突然来ることなんてほとんどないからさぁ」
冷蔵庫を開けるなまえからテレビへ視線を戻してベッドにもたれかかったまま、ふかふかの布団に頭を乗せて大人しくビールを待つ。やっぱり、気づかれなくていいや。気づかれても恥ずかしいだけだ。そう考えると今の状態自体が相当恥ずかしくなってくる。
「はい」
「・・・ありがと」
ビールを渡したなまえは俺の隣じゃなくベッドに座って、俺が首を上げる隙もなく上から見つめてくる。すっぴんの顔を見るのはいつぶりだろう、と見つめ返していると目をそらされた。
「なんだよ」
「照れた」
「はあ?」
「こういうの、久しぶりすぎて」
そっか。そんなに久しぶりか。
プルタブを指でひっかきながらいまだにこっちを見ないなまえを見つめる。にやつく口元を必死に手で隠しているけど目じりが完全に下がっていて感情が隠しきれていない。
「あ、乾杯しよ」
「なまえ」
覗き込んできたタイミングで首を伸ばして唇に触れる。
「会いたかった」
ぽかんとするなまえを見つめたまま続ける。
「本当はスタジオから直で来た」
ビールを手放してベッドに上った俺はもう一度キスをする。次は長く、二人の息を分けるように繰り返した。なまえは俺の腕を軽く握ってされるがまま、ちょっとだけ笑いを含んで全部を受け止める。たまに楽し気に肩を揺らしたかと思えばふと顔をそらした。
「ちょっと待ってよ」
「なに」
「そんなに会いたかった?」
「・・・会いたかったよ、悪いか」
やけくそになってそう言うとなまえは嬉しそうに顔をほころばせて抱きついてきた。肩に額をこすりつけて笑っている。そのリアクションにだんだん恥ずかしくなってきた俺は腰に腕を回してなまえが動けないように体を固定した。顔を見られたくない。恥ずかしくて熱いし、多分俺もちょっとだけにやけてると思う。
「なんでそんなに会いたかったの?」
くぐもった声で聞いてきたなまえは腕を徐々に上に移動させながらちょっとだけ顔を離す。ちらりと見やった目と目が合ってたまらず口を開いた。
「今年は一番最初に顔見たかったんだよ」
「・・・今年は?」
やっぱり。きょとんとした顔のなまえを見てため息をつく。腰に回していた左手を持ち上げて大事な腕時計を見ると時間は十二時を過ぎて三分経っているところだった。日付は、俺が生まれた日に変わっている。
「・・・うそ!!」
いきなり腕の中から逃げ出したなまえはテレビの横に置いている時計で時間と日付を確認するとさっきの楽しそうな表情から一転して顔を引きつらせる。それからゆっくり俺の方を見ると勢いよく手を合わせて頭を下げた。
「ごめん!!」
「別にいいって」
「でも、うわ、最低じゃん」
真っ青な顔でぶつぶつと呟きだしたなまえの手に指を絡めながら恥ずかしさなんて忘れて思わず笑う。
「お前連絡すんの毎年ギリじゃん」
「そ、れはぁ・・・」
「もういいってば」
ゆっくり押し倒しながらほほに触れるとなまえは一息ついた後指を絡めてないほうの手を首に回して言った。
「和彦の思うままに」
「・・・言ったな?」
なまえの言葉なんて待つわけもなく、「思うままに」俺は唇に噛みついた。
「お誕生日おめでとうございます・・・」
散々乱れたなまえが首筋のキスマークを撫でながら呟く。俺はその手を退けながら同じ場所にまた強く吸い付いた。とりあえず消えないように重ねているとのどを震わせながらなまえの指先が肩をひっかく。
「まだ足りない」
「・・・はぁい」
疲れて体の力を完全に抜いているなまえは少しだけ眠そうに瞬きを繰り返す。無防備なその顔が見れる今の幸せが胸を満たしていく。
1番の特権
かずひこくんおめでとう!!
title by チエラ
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