女子高生というブランドを手放して8年が経った。未成年だった私は20代の折り返し地点に立っていて、向かうのは30代だ。まだ女子高生だった私が憧れて仕方なかった30代は想像よりも早くやってくるし、憧れるようなものでもない。むしろ来てほしくなくて、毎年誕生日が憂鬱になる。バカみたいに祝ってもらってプチプラコスメのプレゼントにはしゃぎまわっていた女の子は、今はコンビニでタバコとビールを買っては暗いアパートへと帰る日々を過ごしている。


 同窓会の帰り道、よく将司さんと待ち合わせをしていた公園にふらりと寄ってみた。夜の11時を過ぎた公園には誰もいなくて私の足音が静かに響く。久しぶりに履いたグレージュのパンプスは浮腫んだ足にとても厳しくて、両足の小指がひりひりしている。普段の大きなバッグから必要最低限のものだけを入れ替えた小ぶりなバッグから取り出した長い付き合いになるタバコは、将司さんが吸っていたものと同じだ。分かりやすく未練たらたらな自分に呆れるを通り越して笑いが出てくる。

 私が就職してからも何回かは連絡を取っていた。だけど私は将司さんの家に行くことはなかったし、将司さんから呼ばれることもなくなって、所謂自然消滅という形で終わってしまった。そりゃあ未練も残る。私の連絡先は変わってないのに連絡が来なくなったということは、結局そういうことだろう。でも悲しいことに連絡手段がないわけではない。電話番号もアドレスも知っているから、ラインという便利で憎たらしいアプリが“知り合いかも?”なんておせっかいも甚だしい機能で将司さんのアカウントを表示してくるのだ。ということは、将司さんのラインにも同じように私が表示されているかもしれない。

 タバコに火をつけて取り留めなくそんなことを考えていたら冷たい風がワンピースの裾から吹き込んで私の体を撫でつけた。ぶるりと身震いをするとタバコの先が揺れて、少し伸びていた灰がふわりと宙を舞った。寒いなあ。あの日も、確かこんな風に寒かった気がする。嫌に記憶に残っている眉間へのキスとカフェオレの温度が蘇ってきて泣きそうになる。卒業したらどうなるんだろう、なんて、淡い期待込めた質問に、ゆるゆると笑いながら無難な言葉を振りかざした将司さん。そんな将司さんの言葉に勝手に傷ついて勝手に包丁で自分を滅多切りにしたバカな私。



「・・・なまえ?」



 小指の痛さに負けて近くのベンチへ腰を掛けてパンプスを脱いでいた私の名前を誰かが呼んだ。ハスキーで、少しこもったような声が耳の奥に引っかかる。タバコをくわえたまま、ゆっくりと前を見ると、そこに人影があった。暗くて顔はよく見えない。・・・見えない、じゃなくて、多分見ようとしていない。だって、あり得ないもん。こんなこと、あってたまるか。そう思ってた。



「・・・やっぱり」



 くわえていたタバコがぽろりと地面に落ちた。そんな私を目の前に立って見下ろす顔は最後に見たときより幾分か老けて見えた。



「ま、さし、さん・・・」



 喉がかさついてまともな声が出ない。名前を呼ぶので精一杯の私から視線を下に向けた将司さんは、一歩近づいたかと思うと、足の裏を地面にこすりつけた。音に釣られて視線を下げてみると、パンプスの上に乗った私の足と足の間に踏みつぶされて火が消えた長いままのタバコの吸い殻が、一つ転がっていた。私がくわえていたタバコを情けなく落としたところは、ばっちり見られていたらしい。とんでもない羞恥心にかられて顔があげられない。そしてそんな私を見ているはずなのに、目の前の人の気配がなくならない。たっぷりの沈黙が夜の冷たい空気を満たす。息苦しくてたまらなかった。

 言いたいことがあったはずだ。いっぱい、あったはずだ。なのに、なんで一つも出てこない。女子高生だった私の方がよっぽど沈黙を壊すことが上手いじゃないか。



「・・・久しぶり」



 きっと普通の挨拶だ。数年ぶりに会ったんだから。だけど今の私にとってその言葉はただの挨拶なんかと比べられないぐらい重く、返事さえ困ってしまう。気を抜いたら泣いてしまいそうだった。鼻の奥がつん、と痛んで、目元が冷たい夜に不自然なほど熱い。お腹の底が震えるような感覚は、あのきれいな彼女さんの存在を知ってしまった日に似ていた。

 久しぶり、から後の言葉は将司さんからなかなか出てこなかった。将司さんが何も言わないからこの状況を終わらせる手段が見当たらない。仕方なくそろそろと顔を上げると、喉の奥で声が絡まった。将司さんが切なそうな顔で、私を見ていた。それは今まで一度も見たことのない顔だった。いろんな表情を知っていたはずなのに、そんな顔をする将司さんを知らなかった自分が、猛スピードで嫌になっていく。そして今更そんな顔で私のことを見つめる将司さんも嫌になる。

 ―――だけど、それ以上に胸が苦しくなるほど嬉しいと感じている自分が、認めたくないけど、確かにいる。

 ふと、言葉を探そうともしていない将司さんに気づいた。何か話題を探そうとするときの将司さんはいつも視線がいろんなところへ向かう。顎を触って唇を尖らしたり、引っ張ったり、落ち着きがない。だけど、今はただまっすぐに私を見つめている。切なそうに、苦しそうに、ただただ、黙って。



 パンプスが足元に転がる。冷たい砂が足の裏をチクチク刺す。



「なんでそんな顔するの?」



 咄嗟に出た私の言葉に将司さんは何も返さない。それが、かぁっと胸を嫌に熱くさせた。



「将司さんはずるいよ」



 ただの質問に答えてくれなかったから、無意識のうちに口が勝手に動いていた。それは子供のころから思っていたことで、だけど今まで一度も口にしたことのなかった言葉だった。



「私のこと何も知らないでしょ。どんな職場で働いていたかも、どんな振袖を着たかも、ブラックコーヒーを飲めるようになったことも、同じタバコを吸ってることも、かかってこない電話をずっと待ってたことも、踏ん切りつけようといろんな人と付き合ったことも、なにもかも」



 今こんなことを言いたいわけじゃないのに、止まらず畳みかけるように一気に吐き出す私に、将司さんは一瞬眉を顰めるだけでやっぱり何も返してくれない。分からない。何を考えているのか、どうしたいのか、正解はなんなのか。



「子供のころの私より、将司さんのこと知らない」



 なぜだろう、視界が揺らぐ。泣かない。泣きたく、ない。

 胸の内側、べりべりと黒い何かがはがれていく。中にあるのは、ただただ単純で、バカらしくて、捨てきれないものだった。



「私ばっかり、将司さんのこと好きだ」



 目を見て言えなかった小心者の私は視線を下げた。裸足で地面に立っている。これでパンプスを穿いたら汚れてしまうな。ストッキングは捨てなくちゃ。足の裏、痛い。そんな風に考えを散らさないと、耐えられなくて泣いてしまいそうだ。鼻が痛くてつまってるのは寒いから。目が熱いのは一気に話したから。帰りたい。帰ってほしい。もう、言葉はいらないから。



「いつか離れていくと思ってた」



 それはあまりにも唐突だった。驚いて反射的に顔を上げる。将司さんは相変わらず切なそうな顔をしていたけど、さっきとは違って言葉を探そうとしていた。私が知らない顔で、私が知ってる仕草をする。



「・・・それはそれで仕方ない、引き止める権利なんて俺にはないから」



 勝手だよ、ずるい。



「大人になって、新しい世界で、俺なんていらねぇだろなって、本気で、思ってた」



 くしゃりと顔をしかめた将司さんが自分の髪を乱暴にかき上げる。私に向けられていた視線は外れて、そのまま下に落ちていく。将司さんの表情も、言葉も、息が苦しくなるほど胸を締め付けるには十分だった。無意識に自分の胸をかきむしるようにワンピースの布を掴む。泣かない、泣かない、なんて言い聞かせていたのに、熱くなった目じりから大粒の涙が頬を伝っていくのが分かった。ひやりと冷たい涙がぼとぼとと落ちていく。



「なまえの言う通りずるいと思う。だって俺、ずっと待ってるだけだったもんな」



 ぐす、と鼻をすすった瞬間、将司さんの手の甲が顎から頬へ滑って涙をぬぐった。でもそれだけじゃ足りなくて、止まることなく涙は溢れ続ける。首筋まで濡れるほど泣きじゃくる私をしばらく見つめたあと、手の甲を離した将司さんは大きく一歩踏み出して腕を伸ばした。腕はあっという間に私を捕まえて、顔が将司さんの肩に柔らかくぶつかる。



「でも、俺だってなまえのこと好きだから」



 腕の力が強くなって将司さんは何も言わなくなった。それは、私が欲しくてたまらなかった言葉。ずっと欲しくて、でももう手に入らないと、諦めていた言葉。

 返事も出来なくてわんわん声を上げて泣く私を、将司さんは何も言わずただ抱きしめていた。



大人になったはずの私たち



以前いただいたリクエストで、過去作「好きだといって」の大人になった二人でした。