前の職場は所謂「ブラック」だった。こなしてもこなしても増え続ける仕事、どれだけ頑張っても毎日毎日ねちねちと嫌味を言われて時間は過ぎる。休憩時間はほとんどなくて、帰るのは終電に間に合えばいい方。自分がしたいことも出来なくなって、趣味も時間もなくなって、いよいよご飯を食べる時間さえもったいないと考えている自分に気づいてやっと私は辞表を書いた。本当はくそ上司に叩きつけてやりたかったけど最後の最後に角を立てるのも自分の気分的に嫌だったので大人しくデスクの上に出した。もし引き止められたら、文句を言われたら―――なんて不安はあったけど、そんなものいらなかった。涙が出るぐらいあっさり辞表は受理されたのだ。自分で辞めると決めたくせに、バカみたいだった。私の今まで頑張ってきた全てを全否定されたみたいで、情けなかった。
そんな「ブラック」な会社と後味悪いお別れをしたあと必死になって就職活動を続けていたときに求人募集をしていたのが今の会社だった。数か月も仕事をしていなかった焦りからよく考えずに面接を受けたらびっくりするぐらいあっさり合格して入社。ぽかんとする暇もなく昔のトラウマでびくびくしながら初出社した日、初めて私に教育係の先輩が付いてくれた。一人で頑張らないといけないことしか知らなかった私からすればそれはとても衝撃的なことだった。そしてもう一つびっくりしたことがあった。それはその先輩の髪色だった。金色の毛先に目が釘付けになったのは今になればいい思い出・・・になってると思う。・・・でも吉岡さんの怪訝そうな顔を思い出したらあんまりいい思い出として頭に残さないほうがいいのかもしれない。
太陽が一番高い場所に上ってるお昼。私は吉岡さんに連れられて外回りの営業に出ていた。平日の明るい時間に外に出る新鮮さにちょっとわくわくしながら回る取引先の会社は大体見上げると首が痛くなるほど大きなビルの中に入っていて、そんなビルの中は寒いほどに冷房が効いている。日差しよりその冷房に夏を感じながら吉岡さんの隣でニコニコ座っている私は営業先の人たちからはどうも好印象に映ったらしく、何もしてないのに吉岡さんと会社と一緒に褒められてくすぐったかった。あとなぜかお菓子を貰った。スーパーのビニール袋にいくつも。
「小動物にでも見えんだろうな」
ビニール袋から貰ったお菓子を一つ取り出して封を開けた吉岡さんがそう言った。その言葉に思わず隣を見上げるとお菓子を口に運んだ吉岡さんが私を見下ろす。
「かわいい女性社員じゃなくて?」
ごくんと飲み込んだ吉岡さんが笑う。
「たぶん違うと思う」
「えぇ?」
「それか子供?」
「ちっちゃいって言いたいんですか?」
見上げる吉岡さんの顔を睨むけど吉岡さんには一ミリも効果がないらしくまだ笑ったままだ。その笑顔がちょっと眩しく見えてしまって目をそらしてしまう。
「拗ねるな拗ねるな」
「拗ねてないで、」
反論しようとした瞬間大きな風が吹いた。シャツを膨らまして肌を撫でた風は袋を大きく揺らして大げさな音を立てた後あっという間に消えていく。鏡を見なくても髪がめちゃくちゃになっていることが分かる。とりあえず前髪に指を通しながら目をそらしていた隣に視線を戻すと同じように風に弄ばれて髪が乱れていた吉岡さんが不快そうにシャツの裾を払っていた。いつもは耳にかけてなるべく隠している金色の毛先が出てきていて一気にまじめな雰囲気が崩れている。その金色の毛先に見とれていると吉岡さんと目が合ってしまった。
「何?」
「いや、何も・・・」
見とれていたことを濁そうとすると吉岡さんはわざわざ私の顔を覗き込んできた。普段は見上げるだけの顔が少し近くなって一瞬で緊張してのどが鳴る。
「チャラいって思った?」
いたずらっぽく笑って聞いてくる吉岡さんに言葉が詰まる。
「・・・キャッチの人みたいだなって思いました」
必死に絞り出した私の言葉にまた金髪の部分をなるべく隠しながら吉岡さんは
「言うようになったな」
と自分は整えたくせに私の前髪は乱暴にぐちゃぐちゃと乱していくのだった。それがちょっとだけ、嬉しかった。
灰皿にタバコを捨てて肩を回す。新人の仕事とはいえやっぱりまだまだ慣れてない部分も多くて疲れる。でもまだノー残業なのは自分で褒めたい。帰っていく先輩たちに紛れて自分も荷物を取りに行くためにロッカールームに歩いていると向かい側からほかの先輩たちと話ながら歩いてくる吉岡さんが見えた。やっぱり金色の毛先は隠れて見えない。ふと昼間の吉岡さんを思い出して小さく胸がとくんとくんと鳴った。ちゃんとネクタイも締めててスーツもきっちり着こなしてるのに、髪が乱れただけであんなにも雰囲気が変わるのか。普段の吉岡さんってどんな感じなんだろう。
「おー、お疲れ」
ぼんやり歩いていたと気づいたときには吉岡さんが目の前に立っていて、慌てて「お疲れさまです!」と返したものの変な間が出来ていたから不思議そうに顔を見られた。あなたのことを考えてぼんやりしてましたなんて言えるはずもなく私は乾いた笑いで誤魔化す。昼間みたいに顔を覗き込まれたらどうしよう、なんて身構えていたけれど吉岡さんは顔をのぞき込んだりはしなかった。よかったと心の中で息をつく。
「みょうじ、この後予定ある?」
「へ?」
「飯行かない?」
何事もないようにさらりと言った吉岡さんは微笑む。ご飯?吉岡さんと?
気づいたときには吉岡さんと一緒に歩いていた先輩たちはいなくて、どう考えてもご飯のお誘いは私のみに向けられている言葉だった。
「ぜひ!」
断る理由は一つもなかったし、何より悩んでいる時間がもったいなかった。だから返事をしたのはいいものの小さく鳴っていたはずの鼓動がどんどん大きくなってきている。おかしいな。これじゃまるで私、
「じゃあ予約しとくわ」
ポケットから取り出したスマホに指を滑らせた吉岡さんを見てこっそり自分のかかとをつま先で蹴る。鼓動は鎮まることを知らない。
仕事が終わってオフモードになった吉岡さんはネクタイを緩めて隠していた金の毛先が見えても全く気にせずお酒をハイペースで煽る。いつも会社で見るまじめな雰囲気は微塵もなくて、本当にただのチャラい男の人にしか見えなかった。だからこそ私は余計にどきどきする。
「次どうする?」
「え?」
百円ライターの石が擦れて小さな火花を散らした後、吉岡さんのタバコの先がじんわり赤くなる。
「・・・次?」
「うん」
「・・・えっと」
「無理ならいいんだけど」
唇の端から煙を吐いた吉岡さんの顔を見て私は唖然とした。だって、にんまりと面白そうに笑っているから。吉岡さんは全部を見越しているのだ。私が誘いを断れないことも。
「・・・吉岡さんって、意地悪」
そう言って自分のタバコに手を伸ばす。だけどその手はきれいな手にさらわれて、そのまま指を絡められた。私の手なんて簡単に包み込むほど大きい手は熱い。
「よく言うだろ。かわいい子はいじめたくなるって」
それはどのかわいい?
人生上々
title by さよならの惑星
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