誰一人立ち止まらない駅の前、その人はギターを弾きながら大きな声で歌っていた。黒縁の眼鏡に頭にはタオル、そしてひげが生えてるお世辞にもきれいだとは言えない見た目なのに人の合間を縫うように響く声はそこら辺のアーティストなんかよりずっといい声で、そのギャップに思わず私だけが立ち止まる。だけど男の人は立ち止まった私に気づいてないのかただひたすらに歌い続けていて周りなんか見えていないようだった。

 指で弦がはじかれて歌が終わる。私は拍手はせずにその場にそっとしゃがみこむ。そこでようやくこっちの存在に気づいたのか男の人は大きく目を見開いた後、一拍置いてバカでかい声で「わぁ!?」と叫んだ。その声はさっきの歌声からは想像できない気の抜けるアホっぽい鼻声で、私の中で見た目と声がばっちり合致する。



「聞いてたの!?」

「はい」



 聞いてほしくて歌ってるんじゃないのか、と思ったけどあえて口に出さずに一言だけ返事をする。びっくりしてるのか目線がきょろきょろしだした男の人から視線を下にずらすとさっきまで気づかなかったギターケースがあった。中には小銭がいくらか入っていて、簡単に計算すると大体1000円ぐらいだった。どのぐらい歌ってたのかは知らないけど1000円なんて今どきの小学生のお小遣いレベルだ。大人が時間を割いて稼ぐ額じゃない。そんなギターケースの隣にはスケッチブックにでかでかと「土井茂男」と書かれていた。この人の名前なんだろう。鼻声以上に見た目とぴったりで少し笑いそうになる。・・・あ。



「・・・っていうか、きみ高校生でしょ」

「・・・はい?」

「もう遅いからお母さんに怒られるよ」



 本当に心配そうな顔でそう言った土井茂男になんと返していいか分からなくなった。「もう遅い」と言っても時間はまだ8時も過ぎてなくて、部活や塾や習い事に通っているような中学生や高校生ならまだまだ普通に外を出歩いていてもおかしくない時間だ。この人の頭は一体何年前で止まっているんだろう。心配してくれていることは分かるけど、見知らぬ女子高生にこういうことを言える神経は普通に疑う。



「別にうちの親厳しくないんで、全然大丈夫です」

「でも今の時間帯女の子ひとりって危ねぇって」

「・・・土井茂男さん」



 口うるさく言われるのはうんざりする。家でも学校でも何かにつけてやんや文句を言う大人が嫌いなのに、初対面の男に説教なんかされてたまるか。



「漢字、間違えてますよ」



 “茂”の部分に点が一つ足りない。指を差して指摘をすると土井さんはきょとんとした顔で私とスケッチブックを交互に眺める。名前を間違えるなんてあり得るんだろうか。芸名なのか。にしては古臭くてセンスがないと思ってしまうあたり、私は今どきの女子高生なんだなと思ってしまった。



「・・・どこ?」

「点が足りない」

「あ、ここ?」

「違うって、ここ」



 変なところを指さした土井さんの手を押しのけて草冠の下を指をさしたけど、しっくりきてない彼の顔にちょっとだけイラついてスマホをバッグから取り出した。そして本体の横のボタンを強く押せば明るくなったロック画面にポップアップでラインの通知が何件もきていることを知る。送り主は友達と母親。うんざりして無視を決め込んだ私はポップアップを全部消してスマホの電源を落とした。



「土井さん、ペンないの?」

「ペン、ペンねー・・・今日は・・・えーっと・・・」



 そう言いながら周りをきょろきょろするけどもちろんそれらしきものが転がっているわけもなく、顔を上げて目を合わせれば「ねぇや」と眉を下げて笑った。ちょっとだけ情けない、でもなんだかほっとけないその表情に胸をつつかれ、なんだか少しこそばゆくなった私はそれをごまかすためにちょっと咳払いをしてバッグを地面に置いた。中のスマホは教科書とノートの隙間に追いやって筆箱代わりのコンバースの形をしたポーチを取り出す。太字のマッキーは持ってないけど細字の黒ペンは持っていたからそれでどうにか修正しようと思ったのだ。



「貸して」

「う、うん」



 なぜかちょっとだけ高圧的な態度になってしまっていた私に少しひるんだように土井さんはスケッチブックを渡した。力強く名前が書かれた紙は砂でざらざらしていて、よく見たらシミがいくつも出来ている。雨に濡れたのかなんなのか知らないけど別のページに書き直せばいいのに、と思いながらも私は足りなかった点を書き足した。もちろん細くて目立たないその点を小さく四角で囲み塗りつぶす。バランスを見ながら何度かそれを繰り返すとちょっと浮いているように見えなくもないけど正しい“茂”の字が出来上がった。間違えているより何倍もいい。・・・いや、その前に字が間違っていることに気づくほどこれを凝視する人間なんてたぶんいないと思うけど。



「はい、どうぞ」

「おー、言われればこっちの方がしっくりくる!」

「それならよかった」



 まじまじとスケッチブックを眺めた後土井さんは私に子供のような笑顔を見せた。



「ありがと」



 それがなんというか純粋で、私にはないきれいさが眩しかった。







 塾の帰り、電車を降りるといい声が聞こえてくる。その声に誘われるように人の波から抜け出すと、頭にタオルを巻いた黒縁眼鏡でひげが生えた男の人が周りなんか気にしないで歌っている。近づいてまず見るのはギターケースの中身。今日はくしゃくしゃに丸められたごみが入っていた。散らばる小銭は1500円ぐらい。いつもみたいに何時からどのぐらい歌っているか知らないけどやっぱり成人男性が時間を割いて稼ぐ額じゃない。
 バッグに入れていた財布を取り出してチャックを開く。1000円札が2枚、今日の私が使うはずだったお金。それをギターケースに投げ入れる。その瞬間曲の途中だというのにぴたりと歌が止まった。演奏が止まったのと同時にしゃがみこもうとしていた私の体も止まる。中途半端に前かがみになった私を見つめる土井さんは眉をひそめて私を睨みつけていた。



「なに、これ」

「え、なにって・・・」

「子供がこういうことすんじゃねぇ」



 そう言った土井さんが荒々しくギターケースから取り出した2000円を突き返した。驚いて手を伸ばせないでいる私に握りしめてしわくちゃになった2000円をさらに突き返す。



「・・・ごめん、なさい・・・」



 まさか怒られるなんて思ってなかった私はくしゃくしゃの2000円を受け取りながらたまらず泣きそうになった。だって頑張って歌ってるんだからそれでお金を貰うのは嬉しいことだと思ったから。小銭とごみが投げ捨てられているだけのギターケースがかわいそうだと思ったから。良かれと思ってやったことなのに、土井さんはそれに対して怒っている。



「・・・別に金が欲しくてやってるわけじゃねぇのよ」



 黙り込んだ私に少しの沈黙を挟んだ後土井さんはギターを抱え直しながらそう言った。



「・・・じゃあなんでギターケース開いてるんですか」

「・・・形?」

「かたち?」

「なんかかっけぇじゃん、映画みたいで」



 無邪気に笑う土井さんを見てしまった私は、くしゃくしゃの2000円を握りしめてぽろぽろ泣いた。私にはない。こんな純粋さ、こんな行動力、こんな自信。それがものすごく悲しかった。

 あたふたしている土井さんが通報される一歩手前でようやく落ち着いた私は土井さんの目の前にしゃがみこむ。ごめんなさい、ともう一度謝って頭を下げると私の視界に入るように地面に近い場所で大きく手が横に揺れた。



「気にしなくていいって!」

「・・・でも・・・」

「あー・・・んー・・・あ!」



 何をひらめいたのか明るい声を上げた土井さんがぽんぽんと私に肩を叩く。顔を上げれば親指で上から順にギターの弦を弾きながら土井さんはにっこり笑った。



「じゃあさ、リクエストして!」

「・・・え?」

「自分の曲も大事だけど、たまには人の曲も歌いてぇなぁって」

「・・・土井さんが歌えるような曲、私知らないかもしれないですよ?」

「ある程度なら頑張る!」

「がんばるって・・・」



 あまりにも純粋な自信に吹きだすと土井さんの表情が優しく崩れた。



「・・・じゃあ、赤いスイートピーがいいです」

「赤いスイートピー?聖子ちゃん?」

「うん」

「・・・よっしゃ!」



 土井さんの指が弦を何度か弾いて止まる。やっぱり無理なのかな、と恐る恐る顔を見ると真剣な顔でギターを見つめながらゆっくり動かした指は優しいイントロを奏でだした。










 揺れる満員電車の中でiPodのスイッチを入れる。少しノイズが入っている音質が悪い曲が始まる。謎の歌詞を頭でたどりながら私は笑う。今彼はどこで何をしているんだろうか。映画みたいだって理由だけでまたギターケースのふたを開けて、妙に一つ点が浮いてる“土井茂男”の名前を出して、その横に自主製作の500円のCDを置いて、周りなんか気にしないで歌っているんだろうか。

 高校を卒業して利用回数が減ったこの駅に降りるたびに何年も前の記憶が鮮明に頭に思い浮かぶ。だけど記憶の中で座って歌っていた彼はその場所にいない。もう一度会いたいな、そう思うことも少しずつ減ってきた。結局は過去の記憶、スケッチブックに書かれた名前が本名なのか芸名なのかも分からない男の人にもう一度会えるなんて奇跡は起こらない。



「おーい」

「あ、ごめん」



 いい声を途中で切ってイヤホンをiPodとともにバッグの外ポケットに押し込む。先に待ち合わせ場所に来ていた友達に手を振った瞬間、聞きなじみのある声が聞こえてきた。何度も聞いてきたから分かる。ちょっと年を取った声だってことも。



「なにあれ、弾き語り・・・ってちょっと!」



 友達を置いて走り出した。さすがにスケッチブックの名前はきれいなものに変わっていた。その横に並んでいるCDも見覚えのないものになっている。



「すみません」



 ギターケースの中に小さく折りたたまれた1000円札が入っていることが、たまらなく嬉しかった。



「CD1枚ください」



ぼくら奇跡の星生まれ



title by 星食