また来てる。
今どき珍しくアナログなA4サイズの茶封筒を持ったその人は、月に2回ぐらいうちの出版社に持ち込みをしている。いつも頭を下げて踏ん反りがえってる担当に茶封筒を渡すけど、それは毎回押し返されていて中身を読んでいるところを少なくとも私は一回も見たことがない。
「また来てるよあの人」
すらりとした体格にくたびれたワイシャツに黒のスラックスのその人は悪い意味でよく人の目を引いた。毎回追い返されているのも相まっていつでも社員の話の恰好のネタにされていて、今日ももれなくひそひそ話の中心に立っている。もちろんそんな話の内容がいいものなわけもなく、今私の目の前でスタバのカップを傾けながらクスクス笑っている同僚は「いつまで夢にすがってんだろうね」と簡単に言い放っていて、そんな言葉が漂う空間はとても居心地が悪かった。私はストローを噛みながら茶封筒を渡そうとしているその人を見つめる。冷ややかな周りの目なんて気にならないんだろうか。
「あのさあ」
踏ん反りがえった担当はいつもより大きな声ではっきりと言い切った。
「才能ないって、いつ気づくの?」
仕事をしていた社員も手を止めて、フロアにいる人間のほとんどの視線が二人へ向いている。ひそひそ声はどんどん広がっていき小さな笑い声まで聞こえてきた。さすがにひどくないか、と思ったのに私は何も言えず―――違う、何も言わず、冷ややかな視線を送る人間の隙間に立っていた。
その人は俯いたあと小さく頭を下げてフロアを出ていった。
「ごみ箱に投げ捨てられなかっただけありがたいよね」
声を潜めることもやめた同僚は笑っていて、元々仕事をしていた社員はまた無言で自分の仕事に戻っていく。まるであの人の全てを否定するような空気がなぜか私の胸を押しつぶしてとても苦しくなった。これは同情なのだろうか。
自分のデスクにコーヒーのカップを置いた私は気づけば話のネタが変わっていった同僚のそばを通り過ぎて、あの人を追いかけた。理由は、よくわからない。
あの人が出ていってそんなに経っていないはずなのに、あのすらりとした影はどこにも見当たらない。歩くのが早いのか、走って帰ったのか。社内は広いけど社員以外が使う道なんて決まっているからそこを辿っていけば見つかるはずなのに、エレベーターホールについてもあの人はいなかった。無駄にでかい会社のエレベーターは一番上まで上ってしまっていて降りてくるのを待っているのは時間がもったいない。近くのドアを開けて階段の踊り場へ出た私は低いヒールでなるべく転ばないように気を付けながら5階から1階まで走った。走る衝動で首から下げた社員証がひっくり返ったり元に戻ったりを繰り返す。邪魔くさい。
1階にたどり着くとクリーム色の壁にすらりとした影が大きく伸びていた。見つけた、と安堵したのもつかの間、振り上げられている手に丸められた何かが握られていることに気づいてピリ、と背中に緊張感が走る。
「待って!」
想像以上に響いた私の声に影の方が大きく揺れて手も降りた。慌てて影の元に走り寄るとその人が目を丸くして私を見ている。初めて真正面から見たその人は顔色が悪くひどく疲れた表情をしていた。
「・・・誰?」
ぎゅっと丸められていた茶封筒がさらに両手で握りしめられてぐしゃぐしゃになっていく。
「あ、あの、私」
編集部のものです、って言ったらどう思うだろう。嫌な印象を与えるんじゃないだろうか。それか無駄に淡い期待をさせてしまうんじゃないだろうか。
「・・・読みたくて」
無意識に言葉がこぼれていた。
「あなたの作品、ずっと読みたかったんです」
くしゃくしゃに丸められた茶封筒を受け取って開けると中から原稿用紙が出てきた。マスを埋める文字はきれいなものではなかったけれど読めないほどでもない。
「・・・物好きですね」
階段の手すりに腰を掛けたその人―――黒谷さんは少し呆れたような声色でそう言った。
「・・・そうですか?」
「だって、見てたでしょ。俺がいろいろ言われてるところ」
「え」
黒谷さんの顔を見ると、とんとんと長い指が自分の胸のあたりを叩く。はっと気づいて顔を下げれば裏返っていたはずの社員証がしっかりと表になっていた。私の顔写真と名前と所属部署。全部黒谷さんにバレている。淡い期待を抱かせないようになんていうちっぽけな気遣いは結局無駄になって、気まずくなってしまった私は思わず口をつぐんでしまった。そんな私を見た黒谷さんはちょっと唇の端を上げて深く息をついた。気まずい空気が漂う。同僚たちの間にいるときより重たい。でもどうしようもない私は何も話さないまま原稿用紙に視線を落とした。
率直に言うと、どこにでもあるようなちっぽけな日常のお話だった。シチュエーションも凝ったものじゃなかったしストーリーの進み方だってありきたりだ。だけど、なぜかどうしようもなく胸が切なくなった。登場人物に熱がある。言葉の流れがきれいで違う風景が見えるようだった。引き込まれる、そんな魅力的な文章が流れている。
「・・・これ」
階段に座り込んでいた私が顔を上げると黒谷さんは暗い視線をこっちへ返す。今までどれだけ言われてきたんだろう。いいことを拾ってくれた人は一人もいなかったのか。
「とても、好きです」
見る見るうちに黒谷さんの目が丸くなって、口元を大きな手で隠した。言われたことなかったのか。
「黒谷さんは作品を書くことが本当にお好きなんですね」
原稿用紙を茶封筒に戻して返そうとするとその手を止められた。
「持ってても捨てるだけなんで」
「え?」
ふと思い出す。まだ幼かったとき、母に言われた言葉だ。
“自分が作ったものは大切にしなさいね”
作者の元に返されることを拒まれたくしゃくしゃの茶封筒がひどく悲しく見えて、私は思わずそれを抱きしめる。どこにも行き場のないこの物語は私が大切に持っておこう。だってもったいない。魅力があふれた原稿用紙がごみ箱に投げ入れられるなんて、もったいなさすぎるじゃないか。それに、一生懸命作られたのに、そんな未来、あまりにも悲しいじゃないか。
「もう来ないので」
「え?」
手すりから立ち上がった黒谷さんは私を見て小さく笑った。
「さすがに応えました」
「そんな」
座り込んでいた私も勢いよく立ち上がって、黒谷さんに詰め寄る。あんな才能のかけらもないごますりだけでのし上がったような奴に貶されたからって、諦めないでほしかった。出版社なんて他にもいろんな場所がある。きっと黒谷さんの世界を認めてくれる場所がある。・・・だけど私はそれを言えなかった。思っているのは本当だ。でも、現実がそうなのか、それは言い切れない。私のきっとなんて曖昧な言葉は目の前のくたびれた男の人を傷つけるだけのような気がして、情けなくも口が開かない。
無言で茶封筒を抱きしめていると少し乾いた笑いが聞こえた。私は、徐々に下がってしまった顔を上げられなかった。
「そんなに大事にしてもらったの、初めてかもしれない」
それから黒谷さんは本当にうちの会社に来ることはなかった。話のネタにさえもされなくなった黒谷さんは、私の世界から突然消えてしまったように感じてしまって寂しかった。家に帰って読む原稿用紙は茶封筒から出す回数が増えたせいでよれてきている。ボールペンのインクが乾ききらないうちに折りたたまれたのか、最後の文章の一文字がいびつに伸びていることに気づいた日、なんだかとても切なくて泣きそうになった。
なにもないせかい
黒谷さんの本を見つけた。声が出ないほど嬉しくて、買ってすぐに読んだ。ページをめくるのがこんなにわくわくしたのはいつぶりだろう。次、次、と文章を求めたのはいつぶりだろう。やっぱり黒谷さんの世界を認めてくれた場所があった。それがたまたまうちじゃなかっただけで、あの担当が見る目がなかっただけで、ああそうなんだ―――
新聞の上、見覚えのある顔が滲む。茶封筒、くしゃくしゃの原稿用紙、新品の本、だけどもうなにもない。
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