「何もない世界って」



 私が淹れたコーヒーが美味しいと笑ってくれた彼は、私の店の常連のお客さんだ。男の人にしては長い髪で、ふとした瞬間憂いのある表情をする人。年齢は聞いていないから分からないけど多分私より少しだけ年上だと思う。席はいつもカウンターで、私は彼の目の前でコーヒーを淹れる。たまに焼いたクッキーなどをサービスで出すと柔らかく表情を崩して食べてくれる。おいしいよ、と少しハスキーな声が言ってくれるだけで私の心はまるで十代の女の子に戻った時のようにときめきだすから、まぎれもなく私は名前も知らない彼に恋をしている。

 文庫本を読んでいたと思っていたら本から目を離した彼が私を見ていた。その顔はどことなく寂しそうだった。



「どんな世界だと思います?」

「何もない世界・・・?」



 何もない世界、って、そのままじゃないんだろうか。何もない、んじゃないだろうか。でも何もないって、どういうこと?頭にたくさんはてなを飛ばして考える。その間、彼はコーヒーを一口飲んで、自分も考え始めたのか黙ってしまった。出来た沈黙の中でジャズ調にアレンジされた昭和の曲が静かに流れている。

 身の回りには小さなものがたくさんあふれかえっている。きっと一つずつ消していっても私たちの時間だけじゃ足りなくて、何もない世界なんて出来上がらない。だからどんな世界なのか、私には想像できない。真っ白で、真っ黒で、もしかしたら真っ青かもしれないし、真っ赤かもしれない。言葉に表せないことが妙に悔しくて一生懸命考えるけど、その考えは目の前の彼の声でかき消された。



「いきなり変なこと聞いてすみません」



 眉を八の字にして笑った彼の顔を見た瞬間、心の中にスコンと何かが落ちた気がした。



「私がいない世界」

「え?」

「何もない世界って、私がいない世界だと思うんです」



 彼は首をかしげて私を見つめた。



「私の周りを消すのは大変だから、私が消えてしまえばそれは私にとって“何もない世界”になる、と・・・」



 いきなり何を言ってるんだろう。我に返った私の言葉尻がしぼんでいく。恥ずかしい。いい年した女が何言ってんだ。しかも好きな人の前で。



「す、すみません、いきなり」



 お詫びにケーキでも、と言いかけてやめた。彼が優しく笑ったからだ。見たこともない、慈愛にあふれた笑顔は何かを見透かしてるような気がして、胸がときめくというより、少しだけ背筋がひやりとした気がした。



「ううん。それがあなたの“何もない世界”なんですね」



 私の、何もない世界。



「もう一杯コーヒーいいですか」



 気づけばいつもの表情に戻った彼に弾かれるように現実に戻らされた私は慌ててポットを握ろうとして、お湯が入っている熱い本体に触れてしまった。手を振り上げると驚いた表情をした彼が文庫本を閉じて私の手に手を伸ばす。触れた手は、氷のように冷たかった。



「大丈夫ですか?」

「あ、大丈夫、です・・・ちょっと当たっただけなので・・・」



 その言葉に彼はあからさまにほっとしたように息をついて手を引っ込める。ドキドキと心臓が動くけど、それは低くうなってるようだった。ときめきじゃなくて緊張した時のような苦しさが私を襲う。なんだろう、この感覚。私はこんな感覚を知らない。
 ちらりと彼を見やると目があった。目を細められる。



鈍色のハッピーエンド



「多分、これでよかったんじゃないかって」



 コーヒーを飲みながら彼は言った。私はただ黙って続きを聞く。



「俺が勝手に思ってるだけですけど」



 曲が途切れる。CDが一周回ったんだろう。



「二人にとって、その世界が救いになったなら」



 彼は閉じていた文庫本を私に差し出した。少し戸惑ったけど大人しくそれを受け取れば彼はにっこり笑ってコーヒーを飲み干した。



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