いいにおいがする。

 ゆっくり目を開けると紺色のシーツが目の前いっぱいに広がっていて、まるで水をかくように掛け布団から顔を出すとカーテンがきっちり閉められた寝室にぽつんと一人残されていた。なんとなく痛むような気がする頭をかきながら背伸びをすれば俺の肌が触れていなかった部分のシーツがすっかり冷たくなっていて彼女は早いうちにベッドから出たということをようやく理解する。むくりと起き上がってベッドから降りれば昨日は確かになかったスリッパが置いてあって胸の辺りがむずむずした。



「おはよう」



 リビングのドアを開けるとそこにはまぶしい光と暖かい空気がたくさん溢れていて、思わず目を細めるとテレビの前に立ってリモコンをいじっていたなまえが高い位置でまとめられた髪の毛先を揺らしながら振り向いた。スーツ姿できちんと化粧をしたなまえは一瞬だけ驚いた顔をしたけどすぐに優しい笑顔になる。



「おはよう」

「おはよう」

「よく眠れた?」

「ひっさしぶりに熟睡できた感じする」

「それならよかった」



 ぼさぼさに乱れた俺の髪を撫でて整えながら笑うなまえにくすぐったくなるような愛しさがじんわりと湧き上がってくるのが分かった。こうやって朝になまえの笑顔を見れたのはいつぶりだろう。まず俺がなまえの家で朝を迎えること自体があまりにも久しぶりで思い出せない。最後はたぶん、まだ冷房さえ入れてないぐらいの季節だったと思う。

 なまえの笑顔にたまらず抱きしめるとスウェットの上からでも分かるスーツの生地が寂しかった。いつもなまえが見送ってくれるばっかりで、自分が家に残される経験はほとんどない。もう少し早く起きればよかったと後悔しながら首筋に顔をうずめるとくすぐったい!と背中を叩かれた。



「・・・仕事かぁ」

「それ私のセリフでしょ」

「いや、寂しいなって思って」

「・・・もー」

「なまえいっつもこんな感じなんだなぁ・・・」

「ちゃんと夕方帰ってくるから!」



 また背中を叩かれて仕方なく体を離すと困ったように眉を下げて、でもどことなく嬉しそうな顔をしたなまえが俺の手を握った。いつもはひんやり冷たい手が暖かくてゆるく握り返す。だけど細くて長い指の腹は俺の手の甲をなんどか叩いたあとするりと離れていく。別に永遠の別れだとかそんなものじゃないのに触れた肌が離れていくことが酷く寂しい。



「あ、朝ごはん作ってるよ」

「ああ、なんかいいにおいしてた・・・」



 なまえの視線は俺からそれてテーブルの上に乗っている皿に向けられる。ラップがふわりとかけられている皿には卵焼きとウィンナーと鮭という朝飯の見本のようなおかずが乗っていて、思わずぐぅ、と小さく腹の虫が鳴いた。そういえば昨日はあんまり食べないままなまえの家に来たからたぶん胃の中が空っぽになってるんだろう。



「ご飯もちゃんとあったかいからお腹すいたら食べてね」

「・・・腹減った」

「・・・食べる?」

「食う」



 ほんと?と目で訴えてくるなまえに無言で頷くとやっぱりどことなく嬉しそうにじゃあ準備するね、とスリッパを鳴らしながらキッチンへと歩いていった。ふんわり残るなまえのにおいとすぐに消えていった熱。暖房の暖かい空気がむなしく感じる。すぐそばにいるけど追いかけていくことも出来ず俺は何度か手をグーパーと動かしたあと何気なくテレビへ視線を向けた。星座占いが流れる画面をなまえと自分の星座を求めて眺める。そこでようやくテレビのボリュームがギリギリまで下げられていることに気づいた。カーテンが開けられていなかった寝室、昨日はなかったスリッパ、静かなテレビ、準備されていた朝飯。全身でなまえの愛を感じて胸が苦しくなる。慣れてしまった静かな一人の朝に戻るのが怖くなるほどの愛情を全身で感じながらふぅ、と大きく息をついた。

 テレビの音より大きな八時を知らせるチャイムが静かだった部屋に流れる。朝の情報番組も占いが終わって次の番組のスタートに変わっていた。いつも座る椅子に座りながらキッチンのほうを覗くとちょうど俺の茶碗を持って出てきたなまえとぶつかりそうになってお互い少しのけぞりながら謝り合う。



「ご飯これぐらいで大丈夫?」

「うん」



 渡された茶碗はまだ米の熱が伝わりきれていなくて少し冷たかった。それをテーブルに置いて皿にかけられているラップをはがしていると次は緑のタッパーと湯気が立っている俺のマグカップを持ってなまえがキッチンから出てくる。



「ごめん、味噌汁作る時間なくてインスタントなんだけど・・・」



 タッパーの中には浅漬けが入っていて、並べられたマグカップには温かい緑茶が注いであった。



「でもないよりかはあったほうがいいかなーって・・・あっち」

「大丈夫?」

「大丈夫大丈夫」



 最後にやってきたのはマグカップ。それを俺の前に置いたなまえは苦笑い。マグカップの中にはインスタントの味噌汁が作ってあって思わず吹き出してしまった。



「なにこれ」

「ごめん、味噌汁茶碗奥のほうに片付けちゃってて、ほんとごめん」

「いや、いいんだけどさ・・・味噌汁・・・」

「そんなに笑わなくてよくない?あ、箸!」



 せわしなく行ったりきたりを繰り返してくれてなまえが俺の目の前に並べてくれた朝飯たちはどれも色鮮やかに見えた。野菜がなくてごめんねーなんて言いながら俺がはがしたラップをくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に捨てたなまえはテレビを見ると小さくため息をついてソファに置いていたバッグとコートに手を伸ばす。



「将司が寂しいとか言うから仕事行く気失せちゃったじゃないかー」

「・・・休む?」

「私が休むと思う?」

「・・・まあ、思わないけど」



 でしょ?と言ってコートを羽織ったなまえと同時に俺も立ち上がる。不思議そうな視線が送られるけどドアを見る俺に気づいたなまえはちょっと笑って優しい彼氏だなぁと柔らかく表情を崩した。



「ゆっくりしてていいからね」

「うん」

「寝てていいし、お風呂も使っていいから」

「うん」

「あと」

「わかったから」



 靴を履きながらさらに続けようとするなまえの言葉をさえぎってコートの襟を整えてやるとまだなにか言いたげな顔をしたけどぐっ、と口を閉じた。



「・・・なるべく早く帰ってくるから」

「待ってる」

「・・・うん」



 じゃあ、とぎこちなく手を振ろうとしたなまえの体を引き寄せて額にキスをした。いきなりのことで一瞬固まったなまえの背中を軽く叩く。



「いってらっしゃい」



 体を離して寂しいという気持ちをこらえてそう言えば、なまえは深く息を吸い込んだあと満面の笑みを浮かべて手を振った。



「いってきます」



 ぱたん、と軽いはずの扉が重く閉まって玄関が一気に暗くなる。少しだけそこでぼーっとしたあと、なまえが準備してくれた朝飯を食べるために暖かいはずなのにどこか寒いリビングに戻るのだった。



しわしわになるまでいっしょにいたいな



 茶碗や皿を洗おうとキッチンに入ると味噌汁のごみが袋の中にまとめられていた。パッケージにはしじみの文字。頭のてっぺんからつま先まで愛で満たされていく気がして早く会いたくなった。



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