一昨年買ったお気に入りの赤のマフラーが色あせて見える。街を歩く女の人たちはみんなきれいに身だしなみを整えていて、私みたいにノーメイクで歩いている人はいない。いや、たぶんしっかり探せばいるのかもしれない。でも私は同じノーメイクの人にだってきれいな女性が重なって見えるだろう。ああ、なんてみじめなんだろう。
高校生の時から仲が良かった友達に急に呼び出された私が賑やかな喫茶店で告げられたのは結婚するということだった。相手は、私が3年間胸を焦がした同級生。ほっそりした指にシンプルな指輪を付けた彼女は髪をきれいに染めて、丁寧にメイクをして、流行を取り入れた洋服を身に纏っていた。年相応の“きれいな女性”。それに比べて私はどうだ。美容室に行く暇がないからなんて言い訳をして伸ばしっぱなしの黒い髪に、気を抜いたセーターにジーパン、アクセサリーの一つも身に着けていない。今まで直接目の当たりにしていなかった年相応の女性との差を見せつけられて、それだけで結構ダメージを負ってるのにそこに私の好きだった同級生と“結婚”の文字までぶつけられて、心はズタボロだ。別に彼女は何も悪くない。私が彼を好きだったことは彼女も知らないことだし、身だしなみだって整えるのは当たり前だ。
おめでとう、の声は引きつってなかっただろうか。私は笑えていただろうか。
今年一の寒波が襲っていると朝のニュースで言っていた。吹き付ける風は肌を切り裂くように鋭くて、私は泣きそうだった。
「すみません!」
人混みの中必死そうな男の人の声が聞こえてきた。それはもう一度繰り返されて、気づいてもらえてないんだろうなと聞き流そうと―――
「すみません!」
―――聞き流そうとできなかった。それは私に向けて言われていた言葉だったらしいから。
目の前に突然回り込んできた黒のコートに黒のマフラーを巻いた男の人は声と同じように必死な表情をしていた。突然のことに肩にかけていたバッグの持ち手をきつく握ると、男の人は慌ててポケットからスマホを取り出して開きっぱなしの手帳型ケースのポケットから四角い紙を取り出した。差し出されたそれを条件反射で受け取る。それが名刺だと気づいたのと同時に、手が真っ赤に荒れているのも分かった。
名刺には英語で何か書いてあって、その下に名前、そして電話番号が書かれていた。
「今、カットモデルを探してて、ぜひお姉さんにお願いしたいんですけど・・・お時間大丈夫ですか?」
普段なら断ってるはずなのに、私はなんで首を縦に振ったんだろう。
連れてこられた美容室は外装からして私が絶対に選ばないだろうと思うぐらいおしゃれだった。中は無駄なものがなくスタイリッシュで、ごちゃごちゃと物が溢れかえっているところで働いているからか思わずひるむ。席は3席しかなくて、そのすべてが無人だ。そしてよく見ると店自体にも人がいない。カットモデルを探してると言っていたけど、この人はこの店の店長なのだろうか。一人で経営してるとか。
「バッグとコートお預かりします」
店内をじろじろと見ていた私に優しく声をかけたその人はすでに自分のコートとマフラーは取っていて、腰にはハサミやくしがたくさん入っているポケットを巻いていた。長い脚に黒のスキニーとブーツがよく映える。グレーのハイネックのTシャツをおしゃれに着こなす美容師さんを見たら自分がまたみじめに思えてきてちょっとだけ逃げたくなった。だけどここまで来ておいて逃げることなんてもちろんできず、素直にコートとバッグ、マフラーを預ける。
「こちらにどうぞ」
ロッカーに預けられた荷物を見届けたあと美容師さんに促されて私は3席の中の一番真中の席に座った。姿見に映る自分と対面して恥ずかしさやみじめさが体中を駆け巡るような感覚がして本当に泣きそうだ。でもそんな私に気づくはずもなく美容師さんは着々と髪を切る準備を始めている。そして手際よくクロスを私にかけると鏡越しに目を合わせた。
「やったらいけない髪形とかありますか?お仕事的にNGとか・・・」
「あ・・・な、い、です」
「長さはどこまで切って大丈夫ですか?」
「と、特には・・・」
「わかりました」
よろしくお願いします、と優しい声で言った美容師さんの笑顔はとても柔らかくて私の緊張を少しだけほぐしてくれた。
もう思い出せないぐらい放置していた私の荒れた髪を華奢なくしが梳かしていく。遠目で見ても荒れていることが分かる美容師さんの手と自分の手元を交互に落ち着きなく眺めていると柔らかい含み笑いが聞こえてきた。視線だけゆっくり動かして鏡越しに美容師さんの表情を伺えば、なぜか優しく笑っていた。普段なら他人の笑顔なんてどんなものでもマイナスな意味にしか捉えられないのに、美容師さんの笑顔だけはまったくそんな風には見えなかった。この不思議な柔らかいオーラは何なんだろう。何の嫌味もない、この空間は心地いいとさえ思えてきた。
「髪、何かお手入れされてますか?」
「え?」
「きれいな黒髪だなあと思って」
鏡越しに目があった。にこりと笑った美容師さんに昔の彼がなぜか重なる。似てるわけじゃないのに、どうしてだろう、泣きそうだ。
はさみが髪に当てられて、ざくりといい音を立てて一房切り落とされた。長い髪はクロスを滑り落ちて床に塊のまま落ちていく。それからどんどん小気味良い音が続いて私の髪はそのたびに床に落ちていった。少し違うけど失恋したから髪を切っているような気分になってきて、昔読んだ少し古い小説のワンシーンを経験しているようだ。
「お名前とか、伺ってよろしいですが?」
「な、名前?」
それまで淡々と無言でカットしていた美容師さんがいきなりそんなことを言うから声がひっくり返ってしまった。美容室で名前を聞かれることなんて初めてだし、大体こんな風に名前を聞いてくるものなのかと不安にもなるけど今は一対一、優しく質問してますという体だけどこれは答えるしか道がない。無理です、と答えられるような強い心を私は持ってない。
「みょうじ、です・・・」
「みょうじさんですね!」
おどおどする私と正反対の場所にいるような声のトーン。和らいでいた心がもうついていけないと悲鳴を上げだしている。
「・・・あ、俺、名前言いましたっけ?」
鏡の向こうの美容師さんが私を直に見る。無言で首を横に振ると美容師さんは苦笑いで謝った。
「菅原っていいます」
きっともう言うこともないだろう名前をなぞれば、菅原さんは苦笑いから嬉しそうな笑顔に変わっていった。笑顔にそんなに種類があるなんて、知らなかった。
それから菅原さんは私の髪を整えながらいろんな話をしてきた。その内容は様々で、さすがは美容師、引き出しがたくさんあるなと感心さえしてしまった。その中から分かったのは私と菅原さんが同い年だということと、同じ本好きだということ。本屋で見つけきれなかった少しマイナーな作家の新刊を読みたかったと言ったら、私の次の言葉を遮るように「貸しますよ!」と興奮した調子で言ってきたからびっくりを通り越して笑いが出てくるほどだった。自分でも熱が入りすぎたことに気づいたのか、菅原さんは顔を少し赤らめながら「すみません・・・」と小さく謝ったけど、笑いで返すぐらいには面白かった。
そんなことを話しているうちに鏡の中の私は1時間半前の私と驚くほどすっかり変わっていた。これだけ髪を短く切ったのはいつぶりだろう。普段なら自分の顔なんて見たくないけど思わずまじまじと見つめてしまうほどすっきりしている。少し首元がスース―するのが気になるけど嫌な感じではない。
「どうですか?」
「なんか・・・私じゃないみたいです」
菅原さんが折り畳みの大きな鏡を開いて後ろの方も見せてくれた。うなじも見える。まるで別人だ。
「ありがとうございます」
なんだか直接お礼を言いたくて振り向いたらなぜか菅原さんが少しだけ顔を赤くしていた。不思議に思って眺めていたら荒れた手で自分の髪をくしゃくしゃいじったあと店に響くほどの声で言った。
「メイクもさせていただけないですか!」
カットモデルをお願いされたときと同じ。私はなぜか首を縦に振っていた。なんでだろう。菅原さんが必死だから?私が自棄になってるだけ?メイクなんてよっぽどのことがない限り他人にしてもらわないでしょ。しかも今日初めて会った人だよ?まだ1時間半しか一緒にいないんだよ?
「絶対きれいにします」
そう言い切られたら、もう断れない。赤い顔の菅原さんを見て私は静かにもう一度首を縦に振った。
きれいの魔法
よく考えればあんなの職権乱用のナンパだ。メイクをし終わったあと「もっと一緒に居たい」なんて言葉、よく言えたもんだ。他人から聞けばそいつ大丈夫なの?と言いたくなるけど、実際経験して絆された私は大丈夫だった。ドライヤーの温風を受けながら惨めさに泣きたくなっていた冬を思い出す。
「ねぇ卓郎」
「んー?」
「あのときなんで私に声かけたの?」
指先で頭皮をマッサージするように髪を乾かしてくれる卓郎が黙り込んだ。ドライヤーの音で聞こえないは無し。だってさっき返事をしたから。
「・・・やっぱり私、浮いてた?」
「いや、ね?そうじゃなくてー・・・」
トーンを落とした声は拾ってくれた卓郎は、一旦ドライヤーを止めて私の顔を覗き込む。
「えーっと、なんていうか」
「なんていうか?」
「・・・寂しそうにしてたから」
「うん?」
「・・・元気にしたい、って思った」
乾いた髪を優しくかき上げながら恥ずかしそうに卓郎は続ける。
「なんでだろうね?」
「・・・私に聞かれても・・・」
「一目惚れだったのかも」
ドライヤーのコンセントを抜いてコードを束ねる卓郎に、「天然たらし」とだけぼやいて顔を見られないように肩にうずめた。
私たちは明日、最近また一段ときれいになった彼女と、私が3年間胸を焦がした彼に会いに行く。お互いの薬指に光を灯して。
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