嬉しいことに今年もたくさんのお祝いの言葉が届いた。純粋に喜べる年齢というわけではないけれど、それでも嬉しいのは嬉しい。ひとつひとつに返信をしながら歯を磨いていると軽やかに玄関のチャイムが鳴った。

 40歳最後の夜は自分の声を収録して淡々と編集するという作業をしていた。作業に集中したいのにちらちら頭に浮かぶのは柄にもなく恋人と過ごしたかったということ。まあ、恋人いないけど。いないけど、だ。



「恋煩いぃ?」



 素っ頓狂な声を上げると栄純はへらへら笑いながらキャスター付きの椅子の背もたれをきしませた。



「自覚無いってやばいっすね」



 あまりにも久しぶりすぎてすっかり忘れていた感覚。どうやら俺は片思いをしているらしく、栄純曰「恋煩い」をしているらしい。しかも無自覚、だけど周りからは暖かい目で見守られているらしい。そんなの全く気付かなかった。自分で言うのもあれだけど俺は鈍い方ではないしそんな目で見られていたらとっくの昔に気づいているはずだ。だから考えられなかったのに言われてしまえば人間さらに意識をするというもので、彼女を目で追う回数が明らかに増えてこれは、そうだと認めざるを得なくなった。俺は今絶賛片思い中、なのだ。


 インターホンを覗けばそこには赤い何かを持った女の子がニコニコ笑いながら俺の名前を呼んで手を振っていた。条件反射、歯ブラシをくわえたまま玄関の方へ飛び出して走る。かけていたチェーンと鍵を急いで開けてドアノブを回したら風で赤色がふわりと揺れた。



「お誕生日おめでとうございます!!」



 向こう側から聞こえた明るく弾む声。バラの花束だと気づいたのは彼女の満面の笑みを見てからだった。そしてそのバラの花束は挨拶よりなにより先に言われたお祝いの言葉と笑顔を添えて俺に向けられている。首の付け根からじんわり熱くなってきて無意識に歯ブラシを噛んだ。



「・・・将司さん?」



 きょとんとした顔でこっちを見ているなまえにハッと我に返って慌てて花束を受け取る。口は今動かせないから一旦ストップ、と目の前に手のひらを向けて、そのあと手招きをする。大人しくそれに従ったなまえは玄関に入るとドアを閉めてご丁寧にカギまでかけてくれた。俺は手招きを続けてリビングの入り口まで連れてきた後、歯ブラシと花束を交互に指差し、とりあえず待ってての意味を込めて花束をなまえに持ってもらった。何が面白かったのか分からないけど小さく声を漏らして笑ったなまえはお邪魔しまーすとのんびり言いながらリビングへ入っていって、それを見届けたあと足早に洗面台へ向かう。
 さっきも見たはずなのに、鏡に映っていた俺はとてもだらしなく見えた。歯磨き粉は唇の端についているし無精ひげも生えたまま。髪もぼさぼさで着ているTシャツは今日に限って襟元が伸びてよれている。だけどため息なんかついている暇はなく、髪を一つに束ねて急いで顔を洗った。本当はもっとじっくりひげをそって髪も整えたかったけど時間がない。せめてものあがきでTシャツを着替えて髪はブラシで梳いて耳にかけた。まあ、まともに見えるだろう。・・・さっきと比べれば。



「ごめん」



 リビングに入るとそこにはなまえがバラの花束を抱えたままソファに座っていて、俺の顔を見た瞬間嬉しそうに立ち上がった。きれいにメイクをして笑顔に似合うポニーテールを揺らす。白いシャツから見えるネックレスは、俺が似合うと言ったものだった。意識してくれたのか無意識なのか変に勘繰りそうになる頭を振って思考を元に戻す。



「それじゃあ改めて」



 おめでとうございます、と差し出されたバラの花束。まさか好きな女性に花束を貰うなんて思ってなかった。



「ありがと」



 花瓶はどこに仕舞ったっけ。どうしよう、嬉しさで心がふわふわする。



「私、何番目ですか?」

「え?」

「将司さんにおめでとうって言えた順」



 一番じゃないって分かっているはずだけど、それでも楽し気に聞いてくるなまえに言葉が詰まった。



「ま、数えきれな」

「一番」

「え?」

「今日初めて顔見ておめでとうって言ってくれたのは、なまえが一番目」

「あっ・・・」

「だから、めちゃくちゃ嬉しい」



 滑り落ちる本音に俺よりなまえの顔が赤くなっていく。まさか自分が一番だなんて思っていなかったようだ。



「将司さん」

「ん?」

「だから、って、どういう風に取ればいいですか?」



 だから、だから?自分が言った言葉を頭の中で繰り返してみる。なまえ“だから”めちゃくちゃ嬉しい。


 ・・・やってしまった。自覚がないってこのことか。自然と言ってしまっていた。


 多分お互い顔が赤いと思う。そしてこの沈黙がその答えだとも。だけどお互い何も言えないし踏み出せない。どうしたらいいんだろう。



「あの!」



 きょろきょろ視線を泳がせながらなまえが言った。



「遠まわしでごめんなさい!」

「え、何・・・」

「それではお邪魔しました!!」



 深々とお辞儀をして俺の顔を一切見ず逃げるように帰っていったなまえの背中を呆然と眺める。と、遠まわし?



本数で花言葉って変わるらしいよ



「そういう・・・」



 花瓶に飾ろうと改めて見た花束は12本のバラで出来ていた。スマホの画面にはバラの花言葉。全身が熱くなってしばらく動けなくなった。



「どうやって返そう・・・」