「ただいま」



 体に蓄積されているはずの疲れが今日はとても軽い。それはドアの向こうに愛しい人が待っているからで、思わず口元が緩んでしまう。会える、それだけで私は天に昇るほど幸せだ。



「おかえり」



 玄関を閉めるとスリッパの底をずるずると引きずりながら将司が迎えに来てくれた。服装こそ今朝と変わらないけど顔は無精ひげもしっかり剃られていてすっきりしている。そして何より今朝の寂しそうな顔とは全く違う柔らかい笑顔を浮かべている。くしゃくしゃと頭を思いっきり撫でたくなる衝動を抑えながら私も笑い返すと、将司はふいと顔をそらして廊下の隅に寄せていた私のスリッパを足元に並べながらにやけてる口元を手で隠した。



「おつかれさま」

「ありがとう」



 ようやく目と目が合うと隠すのを諦めたのか将司が口元から手を離して私が肩にかけていた重たいバッグを取ってくれた。閉じられた唇の端はゆるゆると緩んでいて、いつもの引き締まった表情はどこにも見えない。こんな将司を見たのは酷く久しぶりで、私の顔まで緩んでしまう。
 パンプスからかかとを抜いて冷たくなったスリッパに足を移してる間に将司はくるりと私に背を向けて先にリビングへと戻っていく。その背中に思わず投げかけた言葉は突然思いついたちょっと意地悪な質問だった。



「寂しかった?」



 ぴたりと将司の足が止まる。そしてちらりと肩越しに振り向いた。



「寂しかった」



 目を細めてそう答えた将司はリビングへと入っていって、質問を投げかけた当人の私はというと想像と違った将司のリアクションにめまいがして壁に額をぶつけてにやける口元を思いっきり引っ張った。



 しばらく玄関で悶えたあと深呼吸をして将司が入っていったリビングへ私も向かう。開けっ放しのドアに近づけば近づくほど空気は優しく暖かくなってきて、部屋に入れば外の尖った冷たい空気で冷えていた全身が大きく包まれた。暖かい。後ろ手でドアを閉めて冷気を完全にシャットアウトする。そして私はやっと重たいコートから解放された。すでにバッグが置かれていたソファに今朝と同じようにコートも置く。ハンガーは寝室にあるからあとで取りに行こう、と決めてそのままぼふんとソファに体を沈めた。将司は点いたテレビの前でリモコンを使いながら録画していたバラエティー番組一覧からなにかを探している。



「あ、そうだ」



 私の声に振り向いた将司は声は出さずに首だけ傾げる。



「晩ごはん、どうしよっか」



 テレビ台の上に乗せている時計が夕食時を指していたことに気づいた私に、それより少し遅れて気づいた将司はあー、と小さく呟いたあと目当ての番組が見つかったのかリモコンのボタンを一度だけ押してそれを時計の隣に置いた。



「作ってる」



 どこかに食べに行こうと思いながら問いかけたのにその返事はあまりにも想定外で、思わず言葉が喉に詰まってしまった。黙ってしまった私を将司は少し見つめたあと、ふっと優しく笑う。さっきのにやけ顔とも嬉しそうな笑顔とも違う余裕のある笑顔にときめいて胸が苦しくなった。



「なまえ、朝飯作ってくれたし」



 言われて今朝のテーブルの上を思い返す。あんな質素で大雑把な朝ごはんでも喜んでくれていたのかと思うと愛しくて愛しくてたまらなかった。



「食う?」

「・・・うん、食べる」



 そういうと将司はじゃあ待っててと言ってキッチンのほうへ歩いていった。私は胸の奥が痛むほどの愛がこみ上げてきていてなぜだか少しだけ泣きそうになる。なのに口元はだらしなく緩むんだから自分でもおかしかった。キッチンからお皿同士がぶつかる音と電子レンジのスイッチが入る音がする。それらは耳の奥で幸せに変わって私の中に浸透していく。・・・と幸せを噛みしめていてはっと気づく。私なに突っ立ってんの!



「座って待ってて」



 慌ててキッチンに向かうとちょうど将司と鉢合わせた。戻ってきた将司はマグカップを一つ持っていて私に差しだす。中には温かい緑茶が入っていて、おとなしく受け取るとそのままいつも座る椅子まで誘導されて、ソファより硬い椅子にすとんと座らせられた。将司はすぐ出来るから、と私の前髪を硬い指先で分けたあとまたキッチンへ戻っていく。さっきのニヤニヤが治まらない将司はどこにいったんだろう。ずっ、とお茶を啜ったのと同時にチンッ!と高い電子レンジの音が響いた。



 お茶を半分飲み干した私が率直に思ったことは自分の朝ごはんのクオリティーの低さへの恥ずかしさだった。もっと凝ったものを作ればよかった。卵焼きもウィンナーも誰でも焼けるし鮭にいたってはコンビニのものだ。浅漬けだってなんとなく食べたくて昨日の夜にざっと作ったものだったし味噌汁にいたってはインスタントな上にマグカップで出すという酷いことをしてしまった。なのに目の前にある晩ごはんはなんだ。



「なんちゃって山田定食」



 笑いながら私の向かい側に座った将司に私は何も言えなかった。

 炊き立てのお米、ピーマンの肉詰めにサバの塩焼き、手作りの味噌汁に小皿には高菜の漬物が添えられていた。それは女の私でも作らないようなしっかりした内容で、なんちゃってなんて言葉はいらない、本格的な定食だった。いつも使っているお皿しか使われていないのに全部初めて見るような気分になる。たぶんきみたちの正しい使い方ってこうなんだろうね。私みたいに“ワンプレート”なんておしゃれな言葉で誤魔化して洗い物がめんどくさいからって何でもかんでも一皿にまとめるのは間違っているんだろうね。



「料理とか久しぶりに作ったからうまく出来てるか分かんねぇけど」

「・・・久しぶりのクオリティーじゃないよこれは・・・」



 お母さんに教えてもらって作ったといったピーマンの肉詰めは私が作るものより百倍はおいしそうに見えるし、サバの焼き加減も皮が少し焦げてるぐらいで最高だ。豆腐とかぼちゃの味噌汁は私がよく作るから真似して作ってみた、らしい。高菜の漬物は総菜だって笑うけど私なら「そうだ!高菜添えよう!」なんてきっと思わない。しかもよく聞けば材料はわざわざお昼に買いにいったらしい。こんな寒い中!いつも忙しんだから寝てていいのに!!もうほとんど叫ぶようにそう言ったけど将司は驚く顔をするわけでもなく、でもなぁ、と言った。



「一人で寝てても寂しいだけだしな」



 手をこすりながらちらりと上目でこっちを見る。そんな顔をされたら、私は何も言えなくなる。



「・・・なまえが朝飯作ってくれて嬉しかったから」

「え?」

「俺もなまえを喜ばせたかったんだけど」



 スリッパがぱたぱたと床を叩く音がする。落ち着かないのか将司が足を揺らしてるんだろう。



「迷惑だった?」

「そ、そんなわけないでしょ!!」

「ならよかった」



 へらっと目じりにしわを寄せて将司が笑うから、もう、なんでもいいやと思った。これが将司の愛だし、受け取ろう。自分の朝ごはんのクォリティーには泣きたいけどこれからもうちょっと頑張ればいいだけの話だし、いろいろ悩んでたらご飯冷めちゃう。



「将司、ありがとう」

「・・・いいえ」



 よし、食うか!と明るく言った将司と一緒に手を合わせる。



いただきます



「・・・やっべぇ」



 私がつやつやのお米を口に運んでいるのと同時に味噌汁を飲んだ将司が顔をしかめる。ほんのり広がるお米の甘味を噛みしめながら首をかしげると眉をひそめたまま将司は小さく舌を出した。



「めっちゃしょっぺえ」



 そう言われたら食べずにはいられない。ご飯を飲み込んで私も味噌汁を一口すする。すすった瞬間、思わずむせそうになった。



「しょっぱ!!」



 豆腐とかぼちゃでどうにか抑えられてるにしても私が作るものよりはかなりしょっぱい。なんだ、将司のご飯だって完璧じゃないんだ。私はもう一口味噌汁を飲んで笑ってしまった。



「やっぱなまえの飯がうめぇな」



 早く飲んでしまいたいのか私と一緒に味噌汁を飲みながらぽつりと言った言葉、私にはちょっと熱くて胸が少しやけどしたような気がした。