全面ガラス張りで浴槽はもこもこの泡で溢れている。ラブホテルのバスルーム、話には聞いていたけど思った以上に華やかだ。なんでも別の部屋では浴槽にバラの花びらが浮いているらしい。



「なーんかぬめぬめすんなぁ」



 私の後ろでそうぼやいた松田さんは腕を伸ばして掬うように手のひらの上にたくさんの泡を乗せる。それに向かって思いっきり息を吹きかけると泡が散り散りになって飛んでいった。



 消えていなくなりたいと毎晩のように泣く私にいつも寄り添ってくれた松田さんにダメもとで「攫ってください」なんて言葉を吐いたのは数日前のことだった。その日の夜はいつも以上に消えていなくなりたくて、何もかも捨ててやると持っていたバッグをごみ箱に投げ捨てたり、クローゼットの中をぐちゃぐちゃに荒らしたり、髪を振り乱して一人暴れていた。誰でもいい誰か私をここから連れ出して。嗚咽を上げながら泣いていたら突然くぐもった着信音がごみ箱の中から聞こえて、投げた衝撃でごみの中に埋もれていたスマホを拾い上げれば松田さんからの着信。そしてもしもしよりなにより先に出た言葉が「攫ってください」だった。
 この言葉に対して松田さんは少しの沈黙を挟んだ後、正直に「無理じゃない?」と答えた。冷静な言葉に私の頭も少しだけ覚める。謝ればまた少しの沈黙を挟んで話は続いた。「今から迎えに行く」、と。

 スマホだけを持って外で待っていた私を松田さんは本当に迎えに来てくれた。私の手を引いて夜の街に繰り出してくれた。それは私が求めていた答えで、この人はなんでも与えてくれる、この人がいれば何もいらない、なんて恐ろしい思考に簡単に飲み込まれてしまうほどの喜びだった。


 ゆく当てもなくただ夜の街をさ迷って日付が変わったころ、歩き疲れた私が行くと言い出したのがお城のようなラブホテルだった。初ラブホテルの私と違って経験済みなのか手際よく部屋を取った松田さんに手を引かれ連れられた部屋は明るくて、まるでお姫様が寝るようなベッドが鎮座していた。ここで眠れるの?聞こうと思って振り向けば松田さんはバスルームに向かっている最中で私は当たり前のようにその後ろをついていく。もちろんぎょっとした顔で見られたが私が言うことを聞くわけもないと理解してくれているのか松田さんはついてくる私に何も言わなかった。



「一緒に入るって言い出すとは思わなかった」



 伸ばしっぱなしだった松田さんの腕の上に泡を乗せていくと鼻の詰まった笑い声が優しくバスルームに響く。だって、と言いかけてやめる。たぶん私が思っていることはもう松田さんに伝わっているだろう。湯船に沈んだ片腕が私を抱きかかえたから。揺蕩うお湯の中で体がふわりと浮かんで沈む。



「次はどこに行きますか?」

「電車乗って降りたことない駅で降りてみるとか?」

「いいですね・・・スマホしか持ってきてないけど」

「俺も」

「便利な世の中だぁ」



 言いながら後ろに体重をかければ意外とたくましい松田さんの胸に背中が引っ付いた。泡風呂の泡でぬめる肌の向こう、心臓の音は思ったより大きく伝わってくる。少し早いような気がした。



「どこにでも行ける」

「・・・じゃあ松田さんの貯金があれば日本一周もできちゃいそうですね」

「やってみる?」



 少し真剣な声色にひるんで一瞬返事が遅れてしまった。慌てて「やりたい」と言う私の声に松田さんの声が被って話が続く。



「まあ、電子マネーだけじゃ限界あっから難しい話だけど」



 そこで気づいた。わざと被せた。私に先を言わせないようにした。促そうとしたのはそっちなのに、なんで手を振り払うの。



「さーて、そろそろ上がるか」

「・・・私はもうちょっと入ってます」

「ふやけるよ?」

「いい」



 熱いものが奥からじんわり溢れていくのが分かった。目の縁からこぼれていく私の涙で泡がつぶれていく。ぽちゃん、ぽちゃん、雫が落ちる音が思った以上に大きく響く。余計に悲しく、虚しく、バカらしく思える。

 期待した私がバカだった。危険な思考に飲み込まれた私がよくなかった。ああ、やっぱり消えてしまいたい。



「・・・泣かないで」



 ひたすらに泣く私を抱きかかえてそう言った松田さんは首筋に顔を埋めて震える吐息を吐きだした。



ifが壊れる音がした



(攫えるものなら攫いたい)



title by 星食