私の声のトーンを不思議に思ったのかカレーを口に運ぶのをやめて将司は首をかしげた。美味しそうな晩ご飯。一瞬モノクロのフィルターがかかる。そしてノイズが。疲れてるから、そう見えるだけなのに、胸が苦しい。さっきまであんなに楽しくて幸せを感じていたのに、急に不安の波が押し寄せる。情緒不安定、そろそろ本当に休みをもらわないといけないかな。



「・・・なんで家のこと、してくれたの」



疑問符をつけないだけで冷たく聞こえる私の声に将司は眉間にしわを寄せる。カチャンと音を立ててお互いスプーンを手放した。



「いつもなら、してくれないのに」



素直にありがとうって受け止めてればいいのに。感謝しなくちゃいけないのに。なんなんだこの黒いドロドロしたものは。



「・・・なまえ」



妙に真剣な声で将司が私の名前を呼んだ。黒いドロドロしたものに今にも飲み込まれそうな私の脳に一瞬別れという言葉が掠める。ああ楽しい晩ご飯。モノクロの晩ご飯。霞む視界。



「・・・俺」



ごくんとカラカラの喉にわずかな唾液を送り込む。脳を掠めて消えたはずの別れがわざわざ舞い戻ってきやがった。私は将司に捨てられるのか。今まで迷惑かけましたのお詫びのつもりなの?私は将司を支えるために寝る時間も削って一生懸命仕事して―――

そこまで考えて一個疑問が浮かんだ。誰がこんな状況を望んだ?

一個出てきた疑問がたくさんの疑問を引きずり出してくる。

誰が頼んだ?私はいつでもぐちぐち将司のためにって言いながら仕事をしてきたけど一回でも将司は私に仕事をするように催促した?私が働かなかったら本当に将司はダメになっていくの?料理も出来て気遣いもちゃんとできて、将司は私に出会う前はちゃんと仕事をしてたんじゃないの?一回部屋に来たのをいいことに将司の居心地がいい場所を勝手に作って勝手にお世話をしていたのは私なんじゃないの?全部は私の独占欲と、エゴ、なんじゃないの?



―――心の奥底にあった何かがゴトンと音を立てた。ほんの少しだけ息苦しくなる。



分かった、本当に、本当に私が、将司をダメにしてるんだ。自分の腕の中にいて欲しいから。離れていって欲しくないから。いつまでも私のそばにいて欲しくて真っ直ぐな道を歩かせてあげない、私が悪いんだ。



謝らなくちゃ、私は間違ったことをしている。全部全部間違いだ。将司をダメにするのも、穏やかな空気を壊してしまった今のこの状況も。謝らなくちゃ、将司、将



「主夫になろうと思って」



・・・



「・・・はぁ!?」



私が名前を呼ぶよりほんの少し早く将司が突拍子もないことを言い出したから、やっと導き出した答えが全部吹っ飛んでいった。主夫?主夫!?ちょっと待って!!



「バンドはどうすんの!?」



サラダやカレーや麦茶が入ったグラスが並んだローテーブルをバンッ!と叩くと将司はびっくりした顔で私を見上げる。



「いや、主夫してたってバンドできるし・・・」

「おかしいでしょ!?それだったら主夫する時間全部バンドにつぎ込んでいい結果残してよ!!!」



あ、言いたくない言葉を言ってしまった。私はダメだ。今の私は特にダメ。いい結果なんて、どれが結果になるのかわからない。今の状態が将司の中のいい結果なのなら私は否定しちゃダメだと思うし、私が考えるいい結果の定義を将司に押し付けるのも違う。
慌てて両手で口を塞ぐときょとんとした顔で私を見上げていた将司がふと表情を崩して笑い出した。私は嫌なことを言ったのに、なんで将司は笑っているんだろう。次にきょとんとするのは私の方だった。両手はまたローテーブルの上、皿と皿の狭い隙間に下ろす。



「なんで、笑ってんの・・・」

「だって、冗談なのに、真剣に受け取るから・・・」



・・・冗談?これ全部、冗談なの?部屋を片付けてくれたことも晩ご飯作ってくれたことも全部?

将司の一言で私は一瞬の間にいろんなことを考えたのに。黒いドロドロしたものにどんどん飲み込まれていって苦しくて苦しくて仕方なかったのに。
思わず目に涙の膜が張った。真剣に色んなことを考えてるのは私だけで、将司はマイペースに「ヒモ」生活を送ってるってわけか。私のお金で。
奥歯をかみ締めて耐えた。ひたすら耐えた。涙も、怒りも、全部。耐えるしかなかった。テーブルに乗せた手が震えている。俯いて内臓から震える体を一生懸命押さえる。カレーを少し食べただけの胃が引きつってほんの少し吐き気さえ感じた。



「・・・なまえ?」



もう将司の声を聞くのも嫌になった。今日私にしてくれたことは全て冗談。ヒモ男の気まぐれ。そしてそんなバカに振り回されたバカな私。舞い上がって年甲斐もなく照れたりして喜んで、そんな私を見て将司は何を思ったんだろう。
テーブルに乗せた手に力を入れて立ち上がればテーブルの足が軋む。何も言わずに将司に背を向けて私は寝室に引っ込んだ。