大人の男の人の優しさというものは子供の私には分からない。少なくとも身近にいる大人の男の人と言えば自分の父親と学校の先生ぐらいだから私を異性として見る人はいない。だから私にはマツさんから受け取る優しさが分からないのだ。


 六時間目の数学の途中、ポケットに入れていた携帯がぶるりと短く震えた。こんな時間にラインを送ってくる人間なんて限られてくる。その選択肢の中に入ってる人を思うと胸の底がきゅっと痛くなる。ノートの隅にちまちま増える落書きは似顔絵からぐちゃぐちゃと黒い丸に変わっていって最後は全部塗りつぶしてしまった。シャーペンで塗りつぶされた場所は光が反射しててかてか光っている。

 ボールがいろんな場所に転がっていくサッカー部を横目に重たい足を引きずりながら歩く。結局震えた携帯はそれから一回もスカートのポケットから出さず内容も見なかった。もし重要な用事なら電話がかかってくるだろう。マナーは解除しなくてもバイブで気づける。それに、それに、と誰に言うわけでもないのに携帯を見ない言い訳をたくさん考えていると校門を抜ける生徒たちが同じほうをちらちら見ていることに気づいた。それに対して見ただけで帰っていく人もいればひそひそと友達と話しながら帰っていく人もいるし、そんなに見つめて大丈夫なの?と思うほどガン見している人もいた。校門に向かって歩いていた私も漏れなくその生徒たちに混ざったその瞬間、空気が止まる。門の近くに停めてあったのはあのおんぼろの軽自動車で、運転席ではマツさんが下を向いたままタバコを吸っていた。
 胸の痛みを誤魔化すようにバッグの持ち手を手のひらが痛くなるほどぎゅっと握り締めて顔を伏せて歩き出す。重たかった足は地面にそのまま沈んでいくんじゃないかと思えるほどさらに重たくなって私の歩みの邪魔をした。まるでアニメで見るような足かせをつけられているような気分だ。
 マツさんはきっと上條先輩を待っているんだ。言い聞かせながら他の生徒に紛れて車の前を通り過ぎようとするといきなり乱暴にドアが開けられる音がした。



「なまえちゃん」



 その場にいた生徒の一部がざわついて、その中にいた同級生が私のほうを見たからたくさんの視線が私に向けられたのが分かった。
 心の半分は走って逃げたいと思っていて、半分はもう逃げられないことを確信していた。私はもうこれ以上逃げる術を知らない。捕まえられたら最後、マツさんとその終わりにたどり着くんだろう。そのとき、初めてそれが怖いと思っている自分がいることに気づいた。大人の男の人の―――マツさんの優しさの本当を知ることが怖い。分からないままでいたい。今までいなかったはずの自分が言う。でもそれはもう叶わない。私の重たい足はマツさんに向かって動いていてあのおんぼろの軽自動車を目指している。