私の好きなお菓子を机に置いていってくれた滝とか、私の部屋の時計の電池を代えてくれるお父さんとか、重たい荷物は絶対女子に持たせない先生とか、そういうものだけが優しさだと思っていた。それしか知らなかったから。
「全部話すから」
私でも振りほどけるほどの弱い力でそっと手を握ってきたマツさんは苦しそうな顔のまま口を開いた。
マツさんからしつこく送られてきていたラインは元は上條先輩が勝手に送ったものだったらしい。マツさんは少し濁しながら話したけど簡単な話、上條先輩は私が鬱陶しくてマツさんを利用して自分から遠ざけようとしていたのだ。マツさんはそんなことをしないで直接振ってやれと言い続けたらしいけど上條先輩はそれでも私に直接言うことなく、四、五回ラインを繰り返した後、諦める様子のない私に嫌気がさしたのか全部マツさんに丸投げした。
そして上條先輩がそんなことをしていたと知らない私を見ていて耐えられなくなったと言った。
「久しぶりに会った日、どうにかしてこんな状態終わらせたかった」
でも終わらせ方間違えたな、とマツさんは力なく笑った。
「傷つけないようにしたかった。ほんとに」
ほんのわずかに手の力が強くなる。マツさんから本当のことを聞くたびに私の耳はひとつも聞きこぼさないように敏感になっていく。
しばらくの沈黙の後、一秒にも満たないぐらい一瞬マツさんの眉間に寄った皺を私は見逃さなかった。
「でも、あまりにもなまえちゃんが食い下がるから、あんな言い方んなって」
私の手を握っていた力がゆるくなったと思ったらそのままするする離れていった。離れていった手はそのままマツさんの口元を覆った。くぐもった声が聞こえてくる。
「なんだろね、智拓くんじゃなくて俺を見てって気持ちが勝ってしまった」
人間はびっくりすると全てが止まるらしい。眉間に皺を寄せたマツさんも町の音も風も自分の呼吸さえも止まったように感じて動けなくなる。波のように遠くなったり近くなったりするマツさんの言葉がやっと私の頭の一部を掠めた瞬間、止まった全てが猛スピードで戻ってきた。眉間に皺を寄せたマツさんのまつげが震えているのも見えるし町の音も大きく体になだれ込んできて風は体を切りつけるように吹き込んでいるような感覚になった。呼吸も荒くなる。自分の激しく動く心臓がマツさんに見えるんじゃないかと思うほど苦しい。こめかみとうなじが一気に熱を持った。口の中も熱い。
「面と向かって言ったら嫌われると思った。絶対言わねぇって決めてたのに」
薄くて短いため息が指の隙間から漏れる。
「・・・我慢しときゃなまえちゃんにあんなこと言わせなくて済んだかな」
低いトーンで言ったマツさんはもう一度、次は大きなため息をついてハンドルに顔を伏せてしまった。
「・・・じゃあ」
私の声にもマツさんは顔を上げない。
「なんでさっきまた同じこと言ったの?」
顔を伏せたままマツさんは鍵を回してエンジンをかけた。エンジンの音で町の音が薄くなる。
「・・・逃げたかった」
「え?」
ゆっくり首だけを動かして私を見たのは情けない笑顔だった。
「なまえちゃんが呆れてくれたら本当のこと言わなくていいと思った」
なんて情けないんだろう。マツさんも、何も知らなかった私も。
マツさんの優しさだって私が知ってる優しさじゃないか。
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