地下への階段を下りる私の足元はふわふわしていて、気を抜けば着地点を間違えて転げ落ちていきそうなほど浮ついている。特別な日にしか履かない5センチヒールのピンク色のパンプスは周りが暗くなればなるほど浮いて見えた。それが自分が未知の世界へ足を踏み入れているということを強調しているようで、頭がくらくらするほどときめいてしまう。長すぎず短すぎないスカートの裾を翻して私は地下へ地下へもぐっていく。


 受付のお姉さんから手渡されたチケットの半券とドリンクチケットを持って足を踏み入れたライブハウスの中は想像よりずいぶん狭くて寂れていた。お客さんもちらほらしかいなくて、私の存在が酷く浮いて見える。なんだか少し心細い。だけど出演者側の滝たちに会いに行くことも出来ないので私は半券だけをバッグの外ポケットにしまったあとドリンクが置いてあるカウンターへ向かった。



「すみません」



 ホールやステージより明るいカウンターにちょっとだけほっとしながら中にいる男の人に声をかける。猫背気味だけど随分背が高い男の人は私の声に反応すると手に持っていたビンを下ろしてこっちを向いた。



「はいはい」



 返ってきたのは予想の斜め上を行く鼻づまりの訛った返事で、思わず吹き出しそうになった。見た目はピアスやひげや明るい髪色でものすごくチャラいのに、口調だけがどうも合わない。私の存在と同じぐらい浮いている。だからだろうか、酷く安心した気持ちになった。

 男の人はチケットを持ったまま立っている私を少し目を細めて見たあと、カウンターに置いてあったメニュー表を差し出してくれた。



「どれにする?」

「あ・・・」



 優しい口調で聞いてくれたその人に私は慌ててメニュー表を受け取った。ラミネートされた手書きのメニュー表にはカクテルの名前がいくつか並んでいて、ちょっとだけ飲んでみたいと思った。だけど未成年なのに堂々とお酒を頼むような度胸はあいにく持ち合わせていない私は結局ソフトドリンクの一番下にあったカルピスを頼む。本当はいつも飲まないジンジャーエールを頼んでみたかったけど、冒険するという気持ちはここに来ることだけで全部消費してしまっていて、頼めなかった。

 男の人は慣れた手つきでプラスチックのコップに氷を入れると、腰を曲げてカウンターの下から1.5リットルのカルピスのペットボトルを取り出した。たぷたぷと音を立てて白い液体がプラスチックのコップを満たしていく。先に入れられた氷が少し溶けてカタン、と音が鳴ったところで男の人はカルピスを注ぐのを止めてキャップを閉めるとまたカウンターの下へ戻す。暗い場所から見る光を浴びたカルピスは、なんとなくいつもコンビニで見かけるカルピスと違うように見えた。



「はいどーぞ」

「あ・・・ありがとうございます」

「あ、ねえ」



 手渡されたコップを受け取ってカウンターに背を向けようとしたそのとき、優しい口調が私を呼び止めた。動こうとしていた足を止めて私は男の人の顔を見る。確かにひげが生えていてチャラそうに見えるけど、目元だけはなんだか女性的なことに気づいた。ちぐはぐ、その言葉がぽつんと頭に浮かぶ。



「今日はどこ目当てで来たの?」

「え?」

「いやー、そんな格好の子、なかなか来ねぇからさぁ」



 私と同じくらい浮いているその声に言われてしまってせっかく落ち着いていた心細さが戻ってくる。




「・・・あれ、なんか聞いちゃまずかった?」



 黙ってしまった私に何を勘違いしたのか男の人は少し不安げにそう聞いた。私は慌てて首を横に振って上條先輩たちのバンド名を出そうとして、また黙る。バンド名が上手く思い出せなかった。なんだっけ、なんだっけ。ちゃんと覚えていたはずなのにこんなときにド忘れしてしまうなんて。



「・・・同級生が組んでるバンドを見にきました」



 結局曖昧にしか思い出せなかった私はこう答えるしかなかった。間違ってはいない。でも男の人が求めていた答えとは多分違うだろう。



「誰?」

「え」

「今日出るバンド全員知ってるやつらだから、名前教えてくれたら分かるよ」

「あ・・・滝、滝善充です」

「あー、はいはい。9mmね」

「あ!」



 男の人のおかげではっきりバンド名を思い出せて思わず大きな声を出してしまって恥ずかしくなった。口元を手で隠すと男の人は笑いながら言う。



「俺そのバンドのドラムと一緒に住んでるよ」

「・・・マツさん!?」



 しまった。

 男の人は知らない人間にいきなり名前を呼ばれたことにびっくりして目を大きく見開いた。大慌てで頭を下げて謝ると、男の人は黙って私をじーっと見つめる。ぴりっと少しの緊張が体に走る。失礼なことをしてしまった。



「・・・あ」



 やっと口を開いたかと思ったら男の人はへらりと笑った。



「きみがなまえちゃんか」



次は私が驚く番だった。



「智拓くんからよく聞いてる」



 カウンターから出てきた上條先輩の同居人―――マツさんは優しい声でそう言って私をお客さんが増えてきたホールから少し離れた場所に案内してくれている。ホールにはこれからもっとお客さんが増えてくるらしく、ヒールを履いているライブハウス初心者の私がそこにいると危険らしい。何が危険なのかさえも分かってない私にマツさんは見てれば分かると思うよ、と言った。



「まーさか今日来る後輩が女の子とは」

「今までもあるんですか?」

「うん、バンドしてる後輩はよく見に来てる」

「そうなんだ・・・」

「なまえちゃんはバンドとかしてるの?」

「いえ、してな、」



 かくんと足の力が抜けるのが分かった。どうやら段差のふちにヒールが引っかかったみたいで、視界が一気にぐらつく。でも踏ん張れるほどの着地点は足元になく、そのまま後ろに倒れそう、に、なった。
 手に持っていたコップが床に落ちてしぶきが足にかかる。ぐらついたはずの視界は安定して、倒れそうだった体は倒れずその場にあった。一瞬で理解することは難しく、何度か瞬きをしてやっと気づく。コップを持っていた方の腕と肩を、支えられていたのだ。ぐい、とさらに引っ張られて私はようやく元通りに立つ。



「大丈夫?」



 私の顔を覗き込んだ心配そうな目に頷くだけの返事をする。マツさんはそんな私にちょっとだけ笑いかけた後、床をみて「あーあー」と声を出した。床は氷とカルピスで水浸しになっていて、しかもマツさんのスニーカーとジーパンの裾まで濡らしてしまっていた。



「ごめんなさい!」



 事態を理解してさっと血の気が引いていく。慌ててバッグからハンカチを引っ張り出したけどマツさんは受け取らず、待ってて、と肩を叩いてどこかへ行ってしまった。私はカルピスの海となった足元を見て泣きそうになる。マツさんのスニーカーだけじゃなくてカルピスはしっかり私のピンクのパンプスも濡らしていた。べたべたする。入り口からホールに入ってきたお客さんが立ち尽くしている私を不審そうな目で見ながら通り過ぎていくのが分かった。邪魔だろう。人に迷惑をかけている。少しでも迷惑にならないようにと端に寄ってはみたものの、私と同じくらい床に飛び散った氷とカルピスもお客さんの邪魔をしていて、申し訳なくて、そして今すぐ逃げ出したかった。



「おーい」



 入ってくるお客さんに混じって戻ってきたマツさんの手にはモップが握られていて、私に近づくと周りのお客さんに謝りながらカルピスの海にモップを下ろした。



「気にしなくていいから」



 モップで床を拭きながらマツさんは一瞬視線を私に向ける。



「よくあることだから!」



 自分のスニーカーもジーパンの裾も濡らされたのにマツさんは私を怒ることもなく、文句を言うこともなく、慣れた手つきでモップを滑らせる。そしてやっと本当は私がしなくちゃいけないことだと気づいたときにはカルピスも氷もなくなっていて、甘いにおいだけが残っていた。



「すみません」

「いいよいいよ。怪我するよりマシだから!」

「でも」

「いいって」



 ふわりと大きな手が私の頭を撫でる。その顔は笑顔で、大人の余裕を感じた。もしもこれが逆の立場なら私は絶対怒って突き放すのに、マツさんはそんなことはせずに優しく許してくれている。これ以上食い下がって謝り続けてもたぶん話は進まないし逆に迷惑をかけそうだと思った私は一度だけ頭を下げたあとお礼を言った。



「ありがとうございます」

「いいえ」



 やっぱり大人だ。そして優しい。余裕があるから私にも優しくしてくれるんだろう。



「じゃあ行こうか」



 振り向いた瞬間に少し浮いた髪の向こうに一瞬光る何かが見えた。ちぐはぐ、またそんな言葉が浮かんで消えた。