短い階段を上ればそこにはたくさんのダンボールとパイプ椅子が三つ並べられただけの簡素な二階席があった。二階席、というよりは物置のような雰囲気のその場所はホールより明かりに近いせいできらきらとほこりが舞っているのがよく分かる。むずむずする鼻をこすりながら椅子に近づくと青い皮の上にもほこりがわずかに積もっていた。

 私の前に立っていたマツさんは少し邪魔くさそうに足元にあった荷物を足で退けながら顔の前でパタパタと手を振る。



「ほこりやべーな」



 しかめっ面で呟いたマツさんは小さく咳き込みながら腰の位置より少しだけ高い柵の上のほこりを手で払っている。私はそっとその隣に並んでみんなより高い場所からの景色を見渡した。まだ人気のないステージには見たことのないギターやベースやドラムが並んでいて、袖のほうには鈍くくすんだ色のスタンドマイクがぼんやりと立っていてなんだか寂しく見える。そしてそれに反比例するようにホールのざわつきは大きくなっていた。集まっている人たちは私とは違って動きやすそうな格好をしている人ばかりで、でもその中でも周りに浮かない程度におしゃれをしている人もいる。こういうのがこの場所では正しい格好なんだろう。ちょっとだけ自分に呆れながらスカートの裾を指先でいじって薄いため息を漏らした。



「ここ、下よりは安全だけど足元は荷物とかあっから気をつけてね」

「あ、はい」



 マツさんはうーんと背伸びをしてちょっとめんどくさそうにあくびをした。



「じゃあ俺戻るから」

「ありがとうございます」

「いいえー」



 笑ってそう言ったマツさんはひらひらと手を振って階段を下りていった。そして二階席は私一人になる。

 パイプ椅子に積もっていたほこりをはたいて腰をかける。軋む椅子の音がおしりから全身に広がった。椅子の後ろに積み重ねられているダンボールのせいで目の前は広いのに圧迫感がある。マツさんもカウンターへ戻ってしまったし、とても心細い。私はバッグに入れていた携帯を取り出して何の用もないのにラインを開く。ほこりっぽい空気と人のざわめきが全身を包み込んで加速していく心細さに早くライブが始まればいいのにと強く思った。

 上條先輩との数少ないラインのやり取りを読み返していたら突然つめたい空気が肌を撫でた。びっくりして天井を見上げた瞬間ぱっと電気が消えてホールのざわめきが大きな歓声に変わる。消えた電気の変わりに明るい青色のライトがステージをまぶしく照らして、感じていた寂しさが一気に消え去ってしまった。くすんだ色でぼんやり立っていただけのスタンドマイクが、まるで生き返ったように輝いて見える。呆然としているとステージの袖から小柄な女の子たちが三人現れた。年齢は私と変わらないぐらいだろうか。そう思いながら見ていると一番小柄な女の子がギターを手に取った。あ、やっとライブが始まるのか。携帯の電源を落としてバッグに入れたのとほとんど同時にドラムの音が響く。続いてベースが、そしてギターが鳴る。



「こんばんはー」



 ゆるい挨拶から始まった曲は、とても優しかった。

 女の子のバンドがいるなんて知らなかったな。椅子に座ったままぼんやりとステージの上の三人を眺める。楽器が弾けない私には何が上手なのか下手なのか分からない。でも歌はとても聞きやすいと思う。ホールではどんどんお客さんのテンションが上がっていっていて、いろんな色の頭が揺れている。みんなとても楽しそうで、もしあそこに残っていたらただでさえ浮いてるのにもっと浮いていたかもしれない。マツさんにここに連れてきてもらって本当によかったと心の中でほっとした。



「なまえちゃーん」



 三曲目が終わってパチパチと拍手をしていたら突然後ろから名前を呼ばれて、慌てて振り向くとマツさんがコップを二つ持って階段を上ってきていた。



「どう?楽しい?」



 そう言って隣にやってきたマツさんは持っていたカップの一つを私に差し出してくれた。反射的に受け取ったカップの中にはパチパチと炭酸がはじける黄金色の飲み物が入っている。ほのかに香る甘いにおいは嗅ぎなれないものだ。



「ジンジャーエール飲める?」



 隣に座りながらそう聞いてくれたマツさんに私はとっさに頷く。せっかく持ってきてくれたのに普段飲まないから分からない、とは言えなかった。



「ならよかった」



 安心したように笑った後マツさんは足を組んでステージのほうを見た。私もそれに習ってステージを見る。女の子たちは顔を見合わせていて、そしてすぐに曲が始まった。優しいバラードだ。
 カップのふちに唇を寄せてふと気づく。



「マツさん」

「ん?」

「ドリンク代、五百円ですよね?」

「あ、いいよいいよ」

「え?」

「一杯ぐらい奢ってやれってここの店長も言ってたし」

「店長?」

「うん。気前のいいおっさん」



 まるで友達のことを話すように軽く言ってマツさんは自分のカップに口をつけた。私は視線をジンジャーエールに落とす。ぱちぱちはじける炭酸をしばらく見つめたあと、甘えてもいいかな、と思って私もカップに口をつけた。舌がピリッと痛む甘いジンジャーエールはなんとなく大人になったような気分になった。

 女の子たちが演奏を終えてステージから去っていくとホールの歓声もざわつきに落ち着いていく。



「女の子も出るんですね」

「今の子たちなまえちゃんと同い年だよ」

「やっぱり」

「どうだった?」



 横目でそう聞いてきたマツさんに私は少し悩んだあとジンジャーエールを一口飲んで「かわいかったです」とだけ言った。

 次に出てきた男の子四人組のバンドは単純にみんな顔がかっこよかった。演奏される曲はどことなく古臭く感じるけど、それでもお客さんは盛り上がっている。私にはよく分からないよさがあるんだろう。隣のマツさんは何を考えているのか分からない表情でステージを眺めている。私はそんなマツさんとステージをちらちら交互に見ながらたまにカップの中の氷を揺らしていた。正直、少しつまらない。ライブハウスに来るまではあんなにわくわくしていたのに、音楽にそんなに興味がない私にはライブの楽しさがいまいち分からない。みんな楽しそうな顔をしているのに、それについていけないことに申し訳なささえ感じる。想像と違う空間は窮屈だ。



「英語ばっかり」

「苦手?」



 ぽつりと呟いただけの言葉が思いがけず拾い上げられてびっくりした。私の言葉を拾ったマツさんはちょっと首をかしげてこっちを見ていて、私は苦笑いを返す。



「俺も」



 そう言ってくしゃっと笑ったマツさんはなんだか幼く見えた。



「いい曲だけど何歌ってんのか全くわかんねぇ」



 音楽が好きな人は洋楽でも歌詞の意味を理解した状態で聞いているんだと思っていた私はちょっとだけ驚いた。歌詞が分からなかったら共感する楽しみがなくなるのに、なんで好んで聞くんだろう。音楽の授業でクラシックを聞かされるときもよく思っていたことだけど、マツさんの顔を見てふと考える。たぶん、頭の作りが根本的に違うんだろう。音楽が好きで楽しめる人とそうじゃない人。その楽しめる人の枠に私は入らなかったんだと思う。

 ぺこりと頭を下げて四人の男の子たちはステージの袖へ消えていく。さっきの女の子たちのときと比べると歓声がざわめきへ返るまでの時間は少しだけ長くて、はしゃいだ女の子の声がいつまでもホールに残っている。やっぱり顔がかっこいいだけあって異性のファンが多いようだ。そこでふと上條先輩の顔が頭に浮かぶ。上條先輩にもこんなファンがいるのだろうか。低い柵の向こう側に広がる色とりどりの頭を見て不安になる。私だけが上條先輩のことを好きなんじゃないという当たり前の現実が怖くなった。



「次だよ」



 ジンジャーエールを飲み干してマツさんは優しく笑って教えてくれた。心臓が一気に高鳴る。私はたまらず立ち上がって柵の前まで歩いていくと、それを追いかけるようにマツさんも隣に並んだ。二人で見つめる無人のステージ。酷くのどが渇いてカップの中に残っていたジンジャーエールを一気に飲み干す。私の熱を存分に吸収して温くなったそれは全然美味しくなくて、強く残っていた炭酸が逆に喉を焼いていった。小さくなっていた氷が口の中に滑り込んできてそれを噛み砕いた瞬間、袖からひょろひょろした人影が出てきた。見知った顔がステージの上に並んでいる光景は不思議な感じがして胸が変にむずがゆくなる。そんなことを思っていたら一番最後にひょうひょうとした顔で上條先輩が出てきて苦しくなった。知っているのに知らない顔をした上條先輩がドラムセットに座ると女の子の悲鳴のような黄色い声が聞こえた。私だって叫びたい。でものどが引っ付いて声が出ない。ただ四人を高いところから眺めている。

 下を向いていた上條先輩がふいに顔を上げてこっちを見た。一瞬驚いた顔をしたあと、薄く笑ってひらひらと手を振ってくれる。それが嬉しくて浮かれて大きく手を振り返していた私をマツさんがかわいそうな目で見ていたことをこのときの私は気づきもしなかった。