なんとなく練習場に遊びに行かなくなったら同じように上條先輩とマツさんの家に遊びに行くこともなくなった。クラスが違う菅原くんと学年が違う中村くんとも積極的に話さなくなったし、あの楽しかった日々から残っているのは同じクラスの滝だけだ。そんな滝ともしょっちゅう話すわけじゃないから結局私は高梨くんに失恋したあの日に戻りつつある。前向きに生きていた華の女子高生から徐々に徐々に遠ざかっていって今じゃただ制服を着た子供だ。毎日毎日つまらないわけじゃないけどすごく楽しいわけでもない。ただの日常がもったいなく過ぎていく。

 上條先輩本人と話さなくなったのに今日も今日とて携帯は鳴る。毎日飽きない人だなともう呆れながら画面を開くとやっぱりそこにはポップアップでマツさんのメッセージが出ていた。どうせまた付き合おうと書いてあるんだろうと思ってた私の指が止まる。



「待った?」



 久しぶりに見たおんぼろの軽自動車から降りてきたマツさんは最後に見たときより髪が短くなっていてだらしなかったひげもきれいに整えてあった。しばらく見てなかったピアスは復活していてチャラさは消えていないけど。



「さっき来たところです」

「よかった、待たせたかと思った」



 つり目をきゅっと細めて笑ったマツさんはおんぼろ軽自動車の助手席のドアを開ける。



「じゃあ乗って乗って」



 “久しぶりに会える?”ときたメッセージに素直に会えると返事をした自分が本当に不思議だった。あんなに鬱陶しいと思っていたし不快にもなっていたのになぜ私はこの車の助手席に乗っているんだろう。

 がたがた揺れる車の中はマツさんのタバコのにおいで充満していた。灰皿には山ほど吸殻が入っていて今すぐゴミ袋にひっくり返したい衝動に駆られる。飲みかけの缶コーヒーの隣には新品のジンジャーエールが立っていて、あのほこりっぽいライブハウスの二階席を思い出した。鈍く光るパイプ椅子と低い柵に初めて会ったマツさんの顔が重なる。あのときはカルピスをこぼしてしまって迷惑をかけたな。でもマツさんは優しくて自分のスニーカーもジーパンの裾も濡れたのに突き放すこともなく私をあの場所に案内してくれた。ちぐはぐな人だって思ってたっけ。



「最近何してた?」

「別に、特には何も」

「え?何も?」

「することなくなったんで・・・」

「女子高生なんだからもっと遊ばなきゃもったいねぇから!」



 マツさんに何を言われてもいいように身構えていたけど車を走らせるマツさんは最後に会ったときと変わらずただのおしゃべりで、私の近況をある程度聞いた後自分のことも話し出した。その口から上條先輩の話も出てこなかったし、しつこくラインで送ってくる「付き合おうよ」の言葉も全く出てこなかった。画面上のマツさんと照らし合わせても合致しない。鬱陶しさも不快感もなく、ただ楽しいおしゃべりだ。そのことに驚いて身構えていたおかげで少なくなっていた私の口数はさらに減る。少しだけ何を考えているか分からなくて怖かった。



「タバコいい?」

「どうぞ」



 丁寧に私に聞いてきたマツさんに静かに返すとありがと、と言ってマツさんは慣れた手つきで片手でタバコを一本ケースから出して唇に挟む。緑色の百円ライターの石が二回ぐらい空振りした後無事に火花を散らして火を立てた。タバコの先が赤く染まって白い煙が揺れならが浮かんでゆっくり消える。久しぶりにするタバコのにおい。上條先輩のタバコはメンソールのにおいがするけどマツさんのタバコは苦いにおいだけがする。私の周りにタバコを吸う人間がいないからそのにおいは新鮮で、そして鮮明に頭に焼きついていた。窓のふちに座ってビールを飲むマツさんと共に。

 慎重に言葉を選んでることに気づいたのはマツさんが二本目のタバコを吸い終わったころだった。減っていた口数が増えて元に戻った私と話すマツさんは明るいけどたまに一瞬黙ったり言いよどんだりすることがあって、頭の悪い私でもさすがに分かった。気を使われている。自分が上條先輩本人より先に彼女のことを私に教えてしまったことを気にしてるんだろう。そういえば車に乗ってから私はマツさんと目が合っていない。余計に画面上のマツさんと今のマツさんが別人に思えてくる。子供の私には分からない、大人の対応なんだろうか。



「マツさん」



 すすめられるままジンジャーエールに手を伸ばす。透明なペットボトル越しに見える炭酸をはらんだ黄金色の液体はたぷんたぷんと揺れていて綺麗だ。味は思い出せない。マツさんと出会ったあのライブの日以来飲んでいないから。こんなものを飲まなくても大人になったような気分になっていたから飲む必要がなかった。だけど今は違う。私はただの制服を着た子供なのだ。大人になったような気分になる世界から離れた、華もないただの子供。



「上條先輩は最近どうしてますか?」



 マツさんがわざと触れていなかったことに容赦なく足を踏み入れるとマツさんは一瞬言葉に詰まった後何事もないように口を開いた。



「別に、普通だよ」

「どんな風に普通ですか?」

「なまえちゃんが知ってる智拓くんと変わらないってこと」

「学校で見かける上條先輩は私の知らない上條先輩です」



 前を見たままの横顔をじっと見つめる。まつげが長くてどこか女性的な目元は動かない。なのに口元は笑っている。



「じゃあそれも普通の智拓くんなんじゃねぇの」

「それじゃあマツさんが知ってる上條先輩を教えてください」



 そんなに上條先輩が気になってるわけじゃなくて、マツさんがあまりにも濁して逃げるのが気に食わなくて食い下がるとふと口元から笑みが消えてマツさんの目が私のほうを向いた。やっと目が合ったと思ったのもつかの間、イントネーションこそ変わらないのに冷たい声で言葉が投げかけられる。



「彼女と仲良くやってるって言ったら満足すんの?」



 背筋にひやりとした何かが這う。



「・・・ねえなまえちゃん」



 またひとつ気づいた。



「俺と付き合おうよ」



 マツさんは一度だって面と向かって直接“付き合おう”と言った事はなかったのだ。