シュカに真珠

「教令院に入学するためには、一定の能力があることを示す試験をパスしなくちゃいけない。……とはいえ、君はそんな試験があっても余裕で合格できるだろうしね」
「試験……」
「幸いにして、普通の子が教令院に入学する年齢までは三年ある。君は既に『神の目』の持ち主だし、三年間で自分のやりたいことをやってみるのもいいんじゃないかな」
 ぴるぴると長く立った耳が震えて、彼の持つ長い黒髪がさらりと揺れる。困ったような表情をしている目の前の学者は、どうやらオリガの旧友だったらしい。生論派の学者だというこの男は、スネージナヤの出身だったというだけではない、彼女自身の性質によって孤立していたオリガの面倒をよく見ていた先輩だったという。オリガの葬儀に際してサファーの元を訪ねた理由がなんだったのかはサファーには知る由もないが、ともかく彼は母も父もいない幼いサファーの世話を焼こうという気概があった。教令院に入りたいんですけど。ぼんやりとそう口にしたサファーのことを振り返った男が、サファーを見て教令院の仕組みを説明している――サファーと言葉を交わす彼の瞳に映る感情のほとんどは、オリガによく似た瞳を持つサファーへの郷愁のようなものだ。シュリヤに対しての感情は、あまり感じられない。妙論派の学者として一定の尊敬はあったようだが、それを排した時、男はシュリヤを「家庭を放棄した男」という目で見る面が大きかったようだった。
 シュリヤのことをあまり好意的に見ていない理由として、彼自身にも家庭があり、妻がいて、息子がいるということがあるのはサファーも知っている。けれど、であればいつまでこの家に住み着くつもりなんだろうかという胡乱げな視線を向けてなお、男がサファーの元から去ることはあまりなかった。子どもがいるのなら顔を見せに帰ったほうがいいですよと再三語るサファーに対して、男はそうだねと頷くことが多い。定期的に自身の家族の話を語って聞かせる男のことは、サファーは決して嫌いではなかったが、オリガとシュリヤの話を口にする時の男はいやに面倒臭く、両親の話をしそうだなという時のサファーは、早々に男の元から足を遠ざけたものだった。
 実際男が長らく――一週間ほどの期間、何度か自宅に帰っていたが――サファーとオリガが住んでいた場所に滞在していた理由については、大人になったいまも、サファーにはよく理解できない。砂漠とサファーの家を往復するような日常を、男は二年間ほど繰り返した。この話をする時、結局あの人は何がしたかったんでしょうねという言葉で物語を締めくくるサファーに、男と同じような耳を持ったティナリが嘆息するようなことは、幾度かあった。あなただって、父と暮らしていたかったでしょう。――サファーにとって、一度も顔を合わせたことのないシュリヤよりも、二年間の面倒を見てくれたティナリの父のほうが、よほど父親のようなものだった。父とはこういった存在なのかもしれない。だとしたら、このような「親」からしばし離れて暮らすことになった「息子」からすれば、サファーはただの「家族に入り込む邪魔者」であったはずだ。サファーの認識上の「父」が、誰であれ。
「それを父さんの前で口にしてみなよ。きっと父さん、嬉しすぎて君のことを本当の娘にしちゃうんじゃない?」
「ティナリは本当にそれで良いんですか? 私は嫌ですけど、突然子どもが増えるなんて」
「僕は別に構わないよ。君とは生きていけない! ……なんてこともないしね」
「……変なひとですね。あなたも、あのひとも」
 僕の息子も、そろそろ教令院に入学するんだよ。よければ仲良くしてくれると嬉しいな。息子と砂漠に行ってきたんだと楽しそうに語った男の姿を、サファーは今でも思い出すことができる。――彼が言った通り、彼の息子であるティナリとサファーは、サファーが教令院に入学してすぐに出会うことになった。彼の種族は徐々に数を減らしてきているが、それを抜きにしてももともとこの時代においての数が少ない。ティナリの姿を見た時、その見事な大きい耳と、緑がかった黒黒とした髪色で、サファーはすぐにあのひとの息子だなとわかった。そしてティナリのほうもまた、サファーが父の言っていた子どもだということを知っていたようだった。光を飲み込んで静かに輝く白銅の髪に、花弁が落とす影のようにも見える紺色の丸い瞳。その特徴は父から聞いていたサファーの色合いとよく似ていたし、幼いながら既に怜悧な美貌をサファーが持っていたことは、ティナリにも容易に理解できたからだ。
 血の繋がった両親とはどちらとも違う明論派ルタワヒスト学院に入学したサファーと、父と同じ生論派アムリタ学院に入学したティナリの組み合わせは、同輩からはわりあい珍しく見られた。人当たりのいいティナリと、ツンとした態度であまり友人のいないサファーがある種の友人のような関係であることは、他方から見れば意外なことだったし、なによりサファーに関しては彼女の一年先輩である知論派ハルヴァタットのアルハイゼンとともにいる姿も幾度か見られていることもある。
 ルタワヒスト学院に入る人間に限った話ではないが、実際に高名な学者を並べてみた時、ルタワヒスト出身の学者には変人が多かった。サファーもまたその風説に違わず変な女ではあったが、風に乗ってその噂が聞こえてきた時、サファーはいつも「アルハイゼン先輩も変な人だと思うけどな」と考える。講義聞いてみたけどつまんないから教令院入学するのやめるわ、みたいなぼんやりとした理由で教令院に入学せず、祖母が亡くなってから祖母の言葉について考えた結果、彼は同年代よりもやや遅い時分で教令院の試験にパスしている。自分のことを棚に上げて先輩は変な人ですねと語るサファーのことを、アルハイゼンは大して否定しなかった。君も俺くらいは変な人間だと思うが、くらいは口にしたけれど。
 その頃、アルハイゼンは既にサファーが目指していた男と出会っていた。「神の目」の根底、サファーの抱く祈りの源泉、幼い頃のサファーが見据えた流れ星。彼がアルハイゼンと知り合っていることに気付かずアルハイゼンと立ち話をしていたサファーが、ふとアルハイゼンのことを呼ぶ声を耳にして、ゆっくりと振り返る。なんとなく聞き覚えのある声だと思った。――それもそのはずだ。アルハイゼンの名前を呼んだ男の風貌は、サファーが教令院に足を踏み入れる原因になった男の顔つきを、やや精悍にしたようなものだった。アルハイゼンが静かな声で彼の名前を呼んだ。アルハイゼンの元に駆け寄って来ようとした男が、サファーのほうに視線をやって、しばし動きを止める。何かを考えているようなローディング画面を経て男の足が動いた。きゃっきゃとしたテンションをした金髪の男が、廊下にいるのをいいことに、やけに騒々しくこちらへ駆け寄ってくる。
「アルハイゼン、どうしたんだこの子は! 君が懇意にしている後輩かい?」
「あなたの目に映る生徒が俺と同輩のように見えるか?」
「見えないから聞いてるんじゃないか。そうか……君も先輩になったんだな、アルハイゼン」
「感慨深そうにそう言われるような謂れはないと思うが――カーヴェ先輩」
 ――流れ星のような黄金の髪が、サファーの視界を横切った。知恵の実にも似た赤銅の瞳が自身を捉えるのを、サファーはこの目で認識した。

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