宝石を喰らう永遠

 ――僕の人生は、僕の生まれる前から決まってた。
 例えば、「イデア・シュラウド」というタイトルのゲームがこの世に存在していたと仮定する。イデアの名前のタイトルで売り出されたロールプレイングゲームの主人公が、他でもないイデア・シュラウドだとして。発売前の予告時点では確かにロールプレイングと銘打っていたくせに、実際に発売をしたゲームの中身が、蓋を開けてみたら、もしかしたらそのゲームはロールプレイングではなくただのノベルゲームで、しかも選択肢すら選ぶことのできない重大な欠陥バグがあるかもしれない。多くのプレイヤーが欠陥だといきり立ったそれが、問い合わせをしてみたら実はそうではなく、ただの正しい仕様であったと仮定して――はたしてそれは、「イデア・シュラウド」という人生ゲームとして、きちんと成立していると言えるだろうか?
 子どもであれば当たり前に聞かれるだろう質問といえば、「将来の夢はなんですか?」くらいのものだろうが――実際、イデアは周囲にうごめく大人たちにそんな質問を投げかけられたためしはない。好きなこと、趣味、特技。イデアが結果を出したことがどのようなことであれ、結局期待されるのは嘆きの島の冥府の番人、「S.T.Y.X.」の次期所長としての手腕に関わる能力だけ。海の底にある嘆きの島、あるいはその内側にある冥府のほど近くに押し込められてしまっているシュラウド家にかけられてしまった古い呪いは、イデアが生まれてから死ぬまでの道のりのすべてを決定してしまった。イデアが好きなことも、イデアにできることも、イデアがこれから先やりたいと考えていたことも、全部、あらゆる人生、すべてが意味を失って――それに気が付いてしまった瞬間、イデアにとってのこの世界は、色を失くした。
 死んだように生きていた。なにもかもつまらない世界の羊水を泳ぐ。呪いが燃やすブロットを象徴するかのようにゆらゆらと燃え続けるイデアの青い髪が、太陽のない景色を照らしている。その間、シュラウド家には末子のオルトが生まれるなどしたが――とくにその呪いの性質が変わることはなかった。
 オルトが生まれ、イデアと仲睦まじく育ち、よくよく遊ぶようになってから、しばし。――ある日のことだ。イデアの厭世のもととなった呪いを同じくする末弟のオルトが、イデアに、二人でこの島を出ようと言い出した。二人で遊んでいたシューティングゲーム――「スター・ローグ」に影響されてのことだ。いつかこの島を出ることなんていまの自分たちには望めまい。しかし、いまなら。幼い時分の、いまであるなら、その希望もあろう、と。
 幼い子どもたちにとっては、自分の部屋は、それだけでひとつの小さな世界だ。イデアとオルトは二人の生きている世界のひとつだった部屋を、二人揃って抜け出したわけで。あわよくば、この部屋から出るだけではなくて。それよりももっと大きな――そう、例えば、この嘆きの島からも足を踏み出すことができたら。
 小さい頃特有の万能感と、仲の良い弟に頼られたという歓喜に支配されたイデアは、自分にならできないことなどないと確信していた。実際、イデアは天才だった――九割九分のことならできてしまうほど、才覚に満ち溢れた子どもだったのだ。
 大人になればこの島に縛り付けられてしまうシュラウド家の末裔が、せめていまだけは、という薄らとした希望に託けて、いまだけ、今日だけと、興味と才能に任せて、島の外を伺い見ようとしてしまった結果。二人が好きだったゲームの主人公みたいになるにはたぶん大冒険が必要で、そういう冒険をしようと奮い立つには、この嘆きの島だけではあまりに狭すぎる。マップの開拓をする必要すらないほど小さかったこの島を出ようとするのは、当たり前だ。愚かではあろう。これは正当性をくっつけるためだけの言い訳だった。それでもイデアは、後悔とともに、いまだにあの頃の自分たちの気持ちに共感するのだ。あの頃、イデアたちに必要だったのは外の世界だった。だから二人は「S.T.Y.X.」の本部と繋がっている「オケアノス・ホール」から島の上に体を放り投げ、海上に開いた穴から、この薄暗く陰鬱な嘆きの島から出る方法を求めた。それを、あの頃のイデアは知っていた。
 イデアは弟と手を繋いだ。強く、つよく。互いの手のひらに通った筋がわかるくらい。血の通ったオルトの体温を感じているのとは逆の手に、絶対的な味方である魔導電子端末を持ったイデアは、自分が、自分なら、二人なら、「S.T.Y.X.」にかけられたセキュリティもすべて余裕でパスできるだろうと認識していた。そういう驕りが、イデアの胸に去来した。この島に、もっといえばこの島の奥深くにある冥府に縛られ続けている家のしがらみすらも通り越して、二人は、あの閉じられた穴の先にある高い空を目にできると――そう、思っていた。
 ――思っていた、だけだった。
 それは、まさしく傲慢な子どもの癇癪と我儘にすぎない。セキュリティ自体はイデアにだって余裕で解除できる。嘆きの島の叡智を結集させているセキュリティに、御年十歳の子どもがアクセスできるだけでもあり得ないことではあったのだ。収容されている化け物ファントムの力が強大であるせいで幾重にも張り巡らされた堅牢なセキュリティは、イデアの年で、触れただけで解除できるような代物ではなかったのだから。
 不幸であったのは、イデア・シュラウドという子どもが、誰の目から見ても理解できるような「天才」であったことだ。本来解除できるはずのないそれをやすやすと制御してしまったこと。優越感にかまけて、きちんとした理解もせず、軽い気持ちでロックを解除してしまったこと。イデアの才能が最悪のかたちで噛み合ってしまったこと――それに尽きる。
 施設内に警報音が鳴り響いた。研究施設であるこの場所の地下奥深くにあるケージに収容されているファントム――力ある魔法士の成れの果ての化け物が、ひどく緩慢な動きでもって放出される。スタートがゆるやかに見えたのは、イデアの視界にちらちらと映った焦りのせいもあったかもしれない。いつの間にかイデアから離れてしまっていたオルトの温度が遠ざかっていった。イデアは大きな図体のファントムを目にして意識をなくしてしまって、それで、次にイデアがその蜂蜜にも似たアンバーを開いたとき、そのときにはもうイデアの隣からオルトの姿は消えていた。それだけが、あの陰惨な事件ののち、イデアのもとに残った真実だった。
 イデアはあのとき、おそらく、たぶん、そのまま、色を失くした世界に諦めて生きていれば、そこそこの、約束された人生を歩んでいたはずの選択肢を、間違ってしまったのだろう。普通に生きていれば、ハードモードではあれど、こんなにも凄惨な事件を起こしてしまうことはなかっただろう。
 あの日のイデアは、きっと、人生ゲームにおける選択肢を、間違えてしまったのだ。

◆ ◆ ◆


「遥か彼方の栄光を目指し、流星のように駆け抜けろ!」
 ――「スター・ローグ」。それが、シュラウド家の呪われた兄弟が幼い頃によく遊んでいたシューティングゲームの名前だった。決まり文句は毎度変わらない。幼い兄弟が何度も刷り込まれて覚えてしまうくらいに何度も出てきたそのキャッチコピーは、イデアの心を幾度も引き上げさせた。富、名声、力、それだけではない、帰る場所すらない主人公が、奮起し、自分のうちに秘めた力を励起し、宇宙を支配する悪逆の魔王に勝利するような、勧善懲悪の物語。なにも持たないただの人間が、実はどこぞの国の王子様で、いつか、宇宙のヒーローにまでなる。王家の力など使う隙もなかった。魔王を倒した主人公は、そのおおよそを自分と仲間たちの力だけでやり遂げたのだ。イデアの操作する主人公が乗り込んだ機体をキラキラとした瞳で追いかけているオルトが、きゃらきゃらと楽しそうに笑った。
 この世のみんなが夢見るような、誰もの好意を集めるヒーロー。その物語を補完するような、重厚なサブストーリー。
 ゲーム本編の種類としては、「スター・ローグ」は紛れもなくシューティングだ。ある程度どのような人間でも気軽に扱えるようなイージーモードと、ゲーマー向けのハードモード、それから玄人向けのエクストラモードが存在するのに加え、このゲームにはほぼバグがなかった。おそらく開発とデバッガーが死ぬ気で頑張ったのだろうと察すことができるくらいに、ゲーム性は、同年代のゲームの中でも特別な美しさを誇っている。しかし、そういった機能性以上に、評価が高いポイントがあった。それが、このゲームの本筋――ストーリーだ。スター・ローグのユーザーの多くがこのゲームの物語を特筆して語るのは、ストーリーが緻密なプロットに裏打ちされた清廉な性質を持ち合わせているから。あまりの人気の高さに、このゲームは二度、三次元のコンテンツに落とし込まれた。それが、映画と舞台。後に形になった映画は成功例として多くのファンに語られているが、それに比べて映画に先行した舞台は、多くのファンに、なかったものに近い扱いをされている。映画と舞台、成功と失敗。二つの明暗を分けたのは、おそらくその脚本の完成度のせいだろう。
 ――とはいえ。そんな「評判の悪かった」舞台を評すとき、扱き下ろされる脚本とともに誰もが口を揃えて言うことがある。まさしく、異口同音で、一様に、ひとりも取り残すことなく。
 誰もが言った。「あの舞台をして良かったのは、稀代の天才俳優たるリムネー・コンスタンツを発掘したことだ」と。
 実際のところ、イデアによって魂を形どられた自律型ヒューマノイドである「ORTHO」には、リムネーの演技を見て衝撃を受けた記憶はない。無論、本来のイデアの弟、オルト・シュラウドにもだ。何故なら、スター・ローグの舞台が上演されたのは、実にイデアが十二歳の頃――オルトという太陽がシュラウド家から姿を消してしまった後のことであるので。オルトがいなくなってからスター・ローグの舞台でリムネーの演技との邂逅を果たすまでの約二年の間、イデアは、消えてしまった弟の姿を再現することに心血を注いでいた。それが罪滅ぼしなのか、あるいは自分の寂しさを埋めるためだったのかは、いまは定かではない。自律型ヒューマノイドという倫理観をマジカルホイールで勢いよく轢いていくような新技術の確立。イデアは正しく異端であったが、まさしく天賦の才をハデスより賜った男でもあった。自分の作った自律型ヒューマノイド一号にORTHOという名前を付け、新たな「弟」として学習をさせ、それでも虚しさが飛来したイデアの心臓に空いてしまった形は機械では埋められない。オルトの成長を見守ることだけでは、イデアの空白には少しばかり質量が足りなかった。イデアの心臓を埋め立てるのに空いていた隙間にひっそりと手を差し伸べたのが、スター・ローグの舞台に立ったリムネーの演技だったというだけの話。
 リムネー・コンスタンツは、こと演技においては間違いなく鬼才だった。ぱっとしない子役。スター・ローグの舞台の初演が終わるまでは、リムネーの世間からの評価はそういうものだっただろう。原作ファンからも評判の悪い舞台に立っただけで世界に羽ばたけるわけがないので、実質的には「スター・ローグのリムネーを見た映画監督がリムネーに目を付け、その監督が作ったリムネー主演の映画が大ヒットした」と説明した方が確実性は高いのだけれど。
 ぱっとしない子役――事実はそれとはまったく違う。リムネーはスター・ローグの主人公たる青年と、その双子の妹の二役を見事演じ切ってみせた。いままでの「ぱっとしない」評はあくまで自分で自分の役に即した存在感をを獲得していただけ。リムネーの内側は自我すら極めて薄く、演じた役はリムネーの心臓に肉薄している。
 ゲーム・舞台・映画と、リムネーの演じた主人公――の双子の妹は、どう足掻いても途中で命を落としてしまう。けれども、その三つを横並びにして比べた時、そのキャラクターからもっとも「なにか」を受け取ることのできるコンテンツがどれかと聞かれたら、それは間違いなく舞台の板の上。イデアと同年代の人間が演じているものにしては、その演技はいやに老成していた。
「銀河の果て、宇宙の躯。この星空でいちばん幸せな人生を、あなたが、他でもないあなたが、手に入れることができますように。ともに育つことのできなかった片割れへの、唯一の願いです」
 ……スター・ローグの舞台そのものが鳴かず飛ばずであった当時、リムネーのその怪演を知る人間は少なかった。イデアが、自分はリムネーという演者の古参オタクであるという認識を得ているのは、そのためだ。
 人気爆発中の新進気鋭の映画監督がその演技に目を付け、リムネーを学園恋愛モノに抜擢した作品が、驚くほど売れた。しかしそうしてリムネーの人気が爆発する以前にファンレターを送り始めたイデアは、すっかり自分の隅に空いた隙間にリムネーへの信仰を埋め込むことで事なきを得ている。
 二人に、直接的な関わりはなかった。イデアはリムネーという役者のいちファンに過ぎず、リムネーはイデアの存在を知ることもないだろう。どう転んでも無関係で、どう足掻いても交わらないはずの世界線に生きていた二人。
 イデアは確かに高名な貴族の御曹司であるが、リムネーのような芸能人ではなかった。シュラウドの人間はその呪いとともに担う冥府での役割から表舞台に立つことはなく、遺伝的におおむね陰鬱な性格をしているせいもあるのだろう。リムネーがシュラウド家を認識するような出来事もない。嘆きの島の存在すらおとぎ話のようなものと認識しているリムネーが、イデアの出したファンレターをもとにその存在を辿ることもまた不可能。
 イデアとリムネーの生きる世界線は交わらなかった。表面上は。――そう、表面上は、という話だが。

◆ ◆ ◆


 リムネー・コンスタンツの朝は早い。朝の五時に起床して台本を読み込む。一時間ほど経ったら歯を磨きながらシャワーを浴びて髪を乾かす。最低限ひととして成立する程度の準備であってはいけない。演技をすればよいというだけではないというのは、ここ最近の先達がリムネーに教えてくれたことだ。たしかにリムネーの尊敬している役者の美しさに比べれば、リムネーという人間はいまだ未熟な卵でしかないだろう。
 夜の帳を下ろしたような、いまにも星が瞬きそうなほどに黒々とした濃紺の髪が、青みを帯びた光をまとった、雨が降る前の雲のような鉛色をした瞳を覆い隠した。リムネー・コンスタンツ、九歳。ヴィル・シェーンハイトという役者に憧れて演技の道を志した、あるの話をしよう。
 ――リムネーには、夢がなかった。
「将来の夢はなに?」「やりたいことはある?」……子どもであれば当たり前に投げかけられる質問だ。もはや使い古されていると言い換えてもいい。実際、リムネーも例外なくその質問を投げかけられたことがある。けれどそもそも、リムネーには自我というものが足りなかった。両親との関係が悪かったわけではない。いまよりもっと幼い時分から端麗な顔立ちをしていたリムネーに少年のような服を着せていた母と、そういった顔立ちであるからこそ映えると少女趣味なものをリムネーに押し付けていた父の行動に別段嫌悪感をおぼえることもなかった。言われた通りのことをして、頼まれた通りのことをこなしてみせる。元来自分というものをたいそう薄くして母の胎より生まれ出でてしまっていたのだ。それも当然と言えた。
 そういう性質をしていたせいもあって、演技の道に進みたいと思ったのは、リムネー自身の行動と、ヴィルという同年代への憧憬だけのことではなかった。そもそもヴィルの演技を見たのもリムネーのそれが起点ではない。その原因はヴィル・シェーンハイト本人にある。たまたま、リムネーと出身の近かったヴィルが自宅に帰って来ていたとき、たまたまリムネーとその両親もその近くを歩いていて、たまたまヴィルがリムネーの顔を自宅の窓から目にして、この顔をこのままにしておいていいはずがないと自分の事務所に連れていって。かなり無理矢理で、こじつけで、それはあまりにも強制的なことだったけれど、リムネーにはとくにそれを断る理由もなかったので、頷いた。その時点ではリムネーはべつに演技をしたいともしたくないとも思わなかったけれど――ヴィルが「これも勉強よ」と自分が出ている舞台のチケットをリムネーに渡したのが、思いのほか功を奏すことになる。
 その板の上には、世界のすべてがあった。腹からの声が縦横無尽に駆け回り、ひとは表情を携えて舞台の上の世界と対峙する。終演後ヴィルに演技をしてみたいですと言ったリムネーのそれが、はじめてリムネーが口に出した意志であったから、ヴィルは多方面に掛け合ってリムネーを俳優畑に進ませることにしたのだ。
 リムネーの自我はきわめて薄い。ガラス一枚と比べてなお余りあるそれは透明な水にも近いものだ。その内側に、役柄という色水を溶かす。あるいは肉薄するキャラクターが心臓にほど近い場所を独占する。するとどうだろう。リムネーという真っ白で未使用のキャンバスが色付いていくのがわかるだろうか。
 根本的な話だ。リムネーには才能がある。誰にも負けない、当代の「役者」としての頂点はいつかリムネー・コンスタンツに塗り変わるであろうという確信すら、ヴィルにはあった。性差など恐るるに足らずと言わんばかりのリムネーは、幼い少女、村を出る青年、多くの民を導く王君、暗い地下の底で助けを求める姫様、そのことごとくを演じてみせる。もはや才能という言葉で片付けても良いのかどうかすらわからないほどのスピードのまま、リムネーは大人気ゲームのスター・ローグというコンテンツの舞台化のオファーを受け――はからずしも、それがすべての転機となったのだから、人生とはかくもわからないものだろうか。
 リムネー・コンスタンツに演じられない役はない。
 ……まことしやかに囁かれだした「リムネー・コンスタンツの性別がわからない」という噂のことは放り投げておいた。性がどちらだとか、リムネーにはとくに興味がない。関係もない。不躾な視線で自分を眺められていることすらすべて気にしないで、リムネーはずっと、大衆に求められるままの「リムネー・コンスタンツ」すら演じている。
 ――リムネーの朝は早い。与えられた役の台本を持って家を出る。ここのところは仕事が多すぎてすっかり両親と話す時間もなくなってしまった。次の休みにはしっかり話しましょうねという母の言葉に頷いてしまったのはリムネー自身だったが、特段休息を求めるほどの疲労も感じていない。母に言われたからそうする以上のなんでもない自分のそれに違和感をいだくには、リムネーはなにもないリムネーのまま成長しすぎたのだろう。「自我がない」という自我を得たまま、リムネーという役者は大成してしまった。
 人と偶像の間で、息をしている。息を吐く暇はなかった。リムネーの姿は、いまは幻想にもよく似ている。