つがいの冬が泣く

 ツイステッドワンダーランドにおける「魔力を行使できる人間」――魔法士の養成・育成を行う学校は、極めて普遍的な概念だ。魔法の存在しない世界などとは違い、魔法を使えない人間だとしても、この世界では魔法というものは誰にとっても身近なもの。自分の持つ魔力を制御するという意味でも、魔法士育成学校というものは古くから重要視されている。
 数ある魔法士養成学校の中でも、とくに有名であろうと思われるのは、絶海の孤島である賢者の島に所在を置く二校――ロイヤルソードアカデミーと、ナイトレイブンカレッジだ。前者は白と青を基調としたお綺麗な制服に身を包み、後者は名前の通りカラスの羽のような漆黒を身に纏う。先述した通りどちらも交通の便に乏しい賢者の島に主な学舎を設けているが、それぞれ島の反対側に建てられているあたり、どうにも相容れないものはあるようだ。
 ともかく、この二校である。この世界に根差してから日の長い、名誉ある名門校。学内の治安に関してのみ言えば雲泥の差だが、それを補ってあまりあるネームバリューは、ツイステッドワンダーランドに生きる多くの人間を魅了する。
 ロイヤルソードアカデミーとナイトレイブンカレッジの二校は、長らくの間同じ島の中で睨み合いを続けてきた。どちらかというと反骨精神の強いナイトレイブンカレッジ生が一方的にロイヤルソードアカデミーを敵視していると言った方が正しいだろうか。近くに所在を置き、ともに歴史の長いこの二校に、もうひとつの共通点を見つけるとするのなら――それは、「男子校である」という一点に尽きるだろう。
 女性でも世界にその名を刻む高名な魔法士は確かに存在している。一代前の「冥府の番人」、アイドネ・シュラウドもそのひとりではあるが、しかし事実として賢者の島にあるこの二校は確かに男子校。女性、あるいは人魚や獣人の雌などがこの門をくぐるときは、ハロウィンなど、なんらかの理由で校舎が一般公開されるタイミングしか存在しない。そのはずだ。魔法士育成学校の特徴のひとつとして、それぞれの学校に伝わる魔法道具の存在がある。輝石の国・花の街にあるノーブルベルカレッジを形作るものが、正しき判事の鳴らした『救いの鐘』だとするのなら、ナイトレイブンカレッジに代々伝わる魔法道具は美しき女王が使っていた高貴なる『闇の鏡』だ。鏡に選定された魂のみがナイトレイブンカレッジの学舎に招かれる決まりになっている。鏡の誤作動かなんらかのバグがなければ、女性の魂を呼び寄せることなど有り得はしない。これまでもこれからも、そういう意思の中で、この学舎は守られてきた。なによりナイトレイブンカレッジはロイヤルソードアカデミーと比較せずとも治安の悪さが目立つ学校だ。女性が紛れ込んだりするだなんて、可能性を考えるだけでもおそろしい。――なので、このときリムネーは、闇の鏡も長い時を経て耄碌したか、と、重苦しさすら感じさせるようなため息を吐いたわけである。
 リムネーのファンの多くはリムネーの性別がどちらかということを気にしてこそいないけれど、それでもファンの中でリムネーが男であるか女であるかの議論がなされている程度には、リムネーはあまりに両性的だった。すらりとした長身、怜悧な目元。薄暗いグレーの虹彩の落とした輝きが瞼の下を覆い、ファンを見た目尻が柔らかく緩む仕草を好むものはよくよく多い。男性であれば必ず身体についているはずの機能がない――リムネーを「女性」と言わしめる理由は、それだけだ。
 黒い馬車が輝石の国にある実家の扉の前に構えていたことは、リムネーにとっては、確かにかなりの衝撃ではあった。なにかの間違いではないかとも思ったが、それを強く訴えるほど自分の性に執着をおぼえているわけではない。まああちらから呼ばれたのだからと馬車に乗り込もうとしたリムネーに嬉し気な声を上げたのは、リムネーのことを産んだ母だった。リムネーのことを、君は女の子なんだから、と言い張り、ナイトレイブンカレッジに運ばれていくリムネーに難色を示した父のことすら納得させる手腕は、流石としか言い様がないけれども。
 母は、美しいリムネーのことが好きだった。美しければよい。その美貌がこの世界から失わなければ、それで。そういうふうな考えを持っている母は、自分が腹を痛めて生んだ子の性を忘れているのだろうか、行ってらっしゃいとあくまでふつうの顔をしてナイトレイブンカレッジに運ばれていくリムネーのことを見送っていた。と、母に丸め込まれた父からは、そういう母の様子を聞いている。本当に向こうから招かれたのであればリムネーがそこに行くのは別段吝かではないけれど、とはいえさすがに闇の鏡の選定はあまりに適当だったのではないかと思わざるを得ない。あるいは、闇の鏡が「彼女は男性である」と誤認してしまうほどにリムネー・コンスタンツが「男」としての魂を持ち合わせていたのだろうか。リムネーは闇の鏡そのものではないので、鏡がどのように判断したのかなどは正解しようがないのだが。

◆ ◆ ◆

 
 無数にある濃紺の棺が、広い部屋の床にひとつも足をつけることなく、ふよふよと宙に浮かんでいる。棺の表には豪華絢爛な柄が黄金の線で描かれていた。まるで死人のようだ。冥界の魂がどのようなものであるのかはリムネーの知るところではない。この棺に入れられたものたちは魂だけになってしまっているのではないかと一瞬思ってしまったのは、次に決まっている舞台の世界観が冥界にまつわるものだったからだ。
 ――そう、舞台。リムネーの人生からは切ろうとも切り離すことのできないそれが、リムネーの名前を呼んでいる。
 玄関にナイトレイブンカレッジからの迎えが来たところまでの記憶はあった。逆に言うならばそれ以降の視界は脳裏にない。黒い馬が引く馬車に乗ったところから忽然と意識を失っていたらしいリムネーが、いるかどうかも定かではない「舞台の神様」に名前を呼ばれて、はっと意識を取り戻した。どれだけの時間そうだったのかは自覚できないがそれなりに長い間瞼を閉じていたのだろう、動かすにも一苦労だった重苦しい瞼を開ける。――そこは、今まで閉じていた瞼の裏が示していた暗闇からそう明るくなることのない、とくに明るさのない大広間のようだった。これならば眩しさに目を焼かれることもないだろうと安心したようにゆるゆると視界を開けたリムネーの視界に映った光景は、はたと気付いてしまえばあまりに異界然としている、と言ってもいいようなもので――とにかく、異様な光景だ。たとえこの世界で生まれ生きてきたとしても、魔法が身近でない人間であれば卒倒してしまうような景色ですらあった。魔力のない人間がこの場所に招かれることなど万が一にも有り得ないだろうが、底抜けの世間知らずがこの光景を目にしても同じようなことになりそうだ。リムネーはまだ見ぬ田舎者に同情を寄せた。
 リムネーが目を覚ます以前にすでに入学の儀式を済ませていたらしい生徒たちが、次々と闇の鏡に自分の名を告げている。みながこぞって身に纏っている漆黒の衣に縫い付けられた金糸がよく映えていた。フードをはじめ、所々に濃紫の布が差されている。リムネーの髪色は月のない夜にも近い濃紺だ。自分もいま並んでいる生徒たちと同じようにこの服を着ているのだろうが、ろくに光のないここでは、暗い髪にかかった暗い色のフードが、湿り切った影をリムネーの顔に落とすだろう。ここ最近は舞台の役としての写真が多かったために整えられていない場の空気には慣れていないリムネーである。
 とはいえ、ここにこうして呼ばれてしまったのだから、多少の不自由は仕方がない。深く被ったフードから落ちる紺色の髪を横目に、リムネーは、喉の奥から出てきそうだった欠伸を噛み殺した。整列しているのはリムネーと同級生になるものたちだろうか。ふわり、と軽く講堂に降り立って整列の最後列に足を進めたリムネーが、ぐいと額のそばにあるフードの生地を引っ張った。
 厳格なハートの女王にもよく似た風格の、凛とした赤髪の薔薇。見るからにこの年齢にしては栄養が足りていないだろう、煤けたこげ茶色のハイエナ。少しの緊張に滲ませた期待と挑戦を隠そうともしない、おそらく人魚なのだろう銀色の硝子。それに付き従うターコイズの双生。抑圧から抜け出すことを望みつつもその奥底に別のなにかがあるのだろう、焦げた砂漠の色。リムネーとよく似た、自我の薄そうな男――オーロラのような色とりどりに光り瞬く剣。それぞれの魂が告げる地を示されていく生徒たち。最後に闇の鏡の前に足を留めたリムネーが、我慢ならないというように身にまとっていた煌びやかな装飾のフードをばさりと振り払う。
「汝の名を告げよ」
「――リムネー・コンスタンツ」
 ゆるやかに。淡々と、緩慢に。あるいは、泰然と、凛として。薄い笑みを浮かべたリムネーのそれは、少なくともリムネーにとっては自分の名前を告げるだけの別段なんともない儀式だった。けれども案外、リムネー・コンスタンツという名前は多くの存在に知られているらしい。リムネーが目指し目標とするヴィルには、あるいはリムネーと同い年でありながらもすでに多くの主人公役を射止めているネージュには適わないかもしれないが。それでも、二十分の知名度は誇っていた。板上の鬼才である。映画はともかくツイステッドワンダーランドの一般家庭で流れているドラマにはあまり馴染みのない名前だが、リムネーの名前は若いものであれば若いほど耳にしたことがあるものだ。にわかにざわついた講堂から溢れる声がリムネーの耳に入る前に、それらはすべて次に続いた闇の鏡の言葉に遮られた。
「汝の魂のかたちは……」
「……」
「……ポムフィオーレ!」
 重苦しい声が、これから四年、インターンなどでこの世界の各地を飛びまわる最後の一学年を省いても三年間、リムネーの過ごす第二の家となる寮の名前を告げる。まあ、ある種の順当さと正当性のある選出ではあった。ポムフィオーレといえば渦中のヴィル・シェーンハイトも所属している寮だったはずだ。美しき女王の奮励の精神に基づく、ナイトレイブンカレッジの中でももっとも古くからある寮。だよな、という納得の声を耳にしたリムネーが、そういうものか、とひとつ小さな息をする。
 鮮やかなアメジスト。闇の鏡の低い声に導かれるように、みるみるうちに変わっていく宝石の色。宝石が嵌め込まれたペン先をまじまじと見る暇は、リムネーにはあまりなかったけれど――……なるほど。先ほどまでは自分の身ひとつで使っていた魔法が、いまはこのペンを媒介にして動いているらしい。もっとも、厳密に言ってしまえばその効果はこのペン自体ではなく、ペンに埋め込まれた魔法石が「媒介」としての役割を果たしているのだろうが。
「ねえ、君って本当にリムネー・コンスタンツなの? 僕、入学式だってここに連れてこられる前、普通に君が出ているCMとか見ていたんだけれど……」
「正真正銘、僕がリムネー・コンスタンツだよ。僕によく似た顔で、僕と同じ名前で、どこかで演技をしているひとがいたら……また話は変わってくるだろうけどね」
 リムネーの胸元で輝く魔法石と同じ色を付けた男がこっそりとリムネーに声を掛けてきたのを、リムネーは映画の制作発表のときによく見せているもののような柔和な笑みを浮かべて打ち返した。リムネー以外に「リムネー・コンスタンツ」を名乗ることができるのはおそらくリムネーのユニーク魔法だけだ。ややあって少しばかり首を傾げ言葉を選んだリムネーの髪が、ふわりと揺れる。それに合わせるような動きで苦い笑いに色を変えたリムネーの表情に、好奇心と少しの優越感を胸にリムネーに声を掛けた男が、ほう、と思わず息をついた。
 男装の麗人。あるいは流麗な顔をした美男子。しなやかな手足は男にしては肉付きのない細身なものだが、そうと思えばリムネーの姿は男にも女にも見えるようなものだった。結局、男子校であるナイトレイブンカレッジの魔法道具・闇の鏡にその魂を選ばれてこの学舎に足を踏み入れたのにも関わらず、入学してなおリムネーの性がどちらであるのかわからないままなのは、一重にリムネー自身のあまりある魅力とポテンシャルのせいだ。加えて、この場所にはヴィルという前例もある。
 やっぱりリムネーって男だったのか、という囁き声に混じる、いやそれでもあの顔は女でしかないのでは、という考察。ひそひそとリムネーの周囲に咲いた言葉たちを踏み潰すように颯爽と歩く姿を、まさか遠くからじっと観察している視線があった――などといったことには、流石のリムネーも気付いてはいなかったけれど。

「いやまさかマジのリムネー・コンスタンツが入学してくるとか現実? 拙者と推しがおてて繋いで『キラキラ☆学園生活スクールライフ』を送れるってことでござるか? それってなんてギャルゲ? 『有名俳優がキモオタの拙者と同じ学校に入学してきていまでは推しとよろしくやってるんですが』みたいないまどきラノベでも見ない展開アザーッス……って流石に気持ち悪すぎでしょそもそも拙者なんてそんな有名人と接触する機会もコミュ力もないんだからそんなことできるわけないんだよなぁ一人妄想乙w」
 リムネーに話しかけている男子生徒に熾烈な感情を滲ませた瞳を向けているなにかが、ひとりでに浮遊している。暗闇で輝く猫のような黄金の目。ぶつぶつと無限に呟き続ける独り言は誰にも聞かれることはないだろう。聞かれないという確信があるから言っているのだ。「弟」であるオルトもいまはここにはいない――青く燃ゆる炎が視界を埋め尽くすイデアの部屋には、いまは、だれも。
 入学式を終えて鏡舎に足を踏み入れるリムネーの姿をじっと見つめているイデアが、その光景を映し出すモニターからそっと目を逸らして、小さく息を吐く。リムネーの胸元にあるアメジストの紫に光り輝く魔法石と、意図せずとも視界のうちに降りてくる自分の青い炎。その差異を噛み締めるように悔しげにぎりと血の気のない真っ青なくちびるに歯を立てる。
「……どうせ僕みたいな引きこもりのクズとはこれから先も関わりはしないだろうけど」
 オルトも、ましてや「オルト」も知らない、ただひとり、イデアだけの持つ思い出の中で、リムネーの姿だけが色付いていた。映像と網膜を超えてイデアの前頭葉を刺激したリムネーの演技は、いまだイデアの心臓に突き刺さったまま抜けていない。
 ――リムネー・コンスタンツ。イデア・シュラウドの星。あるいは、この十何年という人生における閃光。輝ける夜。
 イデアは静かにリムネーを視認させていた「目」の電源を落とした。はあとついつい吐いてしまったため息は、リムネーの姿をこの学園の中で見てしまって驚愕してから幾度目のことだっただろうか。モニターの前の椅子に座り込んで、いつものように立てた片膝にそっと顎を乗せる。先ほどまでリムネーの映っていたそれはすっかり暗くなってしまった。ぼんやりとなにも映っていない画面に目を向けたイデアが唯一見ることができるのは、いまは、モニターに反射している自分の姿だけだった。

◆ ◆ ◆


「まさか、この私が受け持つことになる最初の代に、こんな斜め上の問題児がいるとはね。……無論、だからといって、この大天才ことミヒャエル・ゴルツが考えていた指導方法に、大した変更点はないよ。きみ、この優秀な私が直接指導できるタイミングであったことに、よくよく感謝したまえ。きみ――そう、きみだ。ヴィル・シェーンハイトに手など引いてもらって学園長の前でぼけっとしている、きみ。……しっかりしたまえよ、コンスタンツ。……聞いているのかい? ……返事をしたまえ、リムネー・コンスタンツ!」
「はい、先生。そんなに大きな声を出さなくても、僕はあなたの目の前にいますけど」
「……まったく……」
 過日、ナイトレイブンカレッジ、校舎内。豪奢な金糸で彩られた深い闇の色にも似たようなペストマスクを纏った男が、確かな存在感をもって中央を陣取っている、学園長室でのことである。
 このナイトレイブンカレッジの入学式を無事に終えてから、日にちにしてわずか一日ほど。この二十四時間ですっかりリムネーの身に馴染んでしまったらしい青紫色のベストは、学園指定の制服の下で、かっちりとボタンを留められている。ポムフィオーレの色は妙にリムネーの意識に合致しているらしい。これが「魂の素質」であるというのなら、やはり闇の鏡はその前評に相応しい精度を誇るのだろう。
 自分が悪いことをした覚えはなかった。けれども、「賢者の島にある男子校」であるナイトレイブンカレッジにおける「リムネー・コンスタンツという存在」が異端であることは、昨日、入学式を終えたあと、淡々としながらも懇々と話すヴィルの口ぶりで、否が応でも理解させられてしまった。ヴィルはリムネーの精神状態をよく理解しているが、それとこの世界の常識があまり合致しないだろうこともよくわかっていた。海中の常識であれば別にそんなことも珍しくはないのかもしれないが、それはそうとしてここは地上であるので。
 もちろん、ヴィルとて普段から可愛がっている後輩と同じ学舎で魔法を学べるというところに、一ミリたりとも魅力を感じなかったとは言わない。ヴィルは美しいことに関してのみ自分がこの世で随一であるとを疑うことすらしていないが、とはいえ演技に関してはこの末恐ろしい後輩が群を抜いていると認めている。リムネーの演技力をもっと近くで学習したい、あわよくば自身の糧にしたいなどと、どうしてもそう考えてしまうのは、美しきモデルでもあるが役者でもあるヴィルにとってはなによりも自然なことだ。
 ――とはいえ。ヴィルの目の前にいるこのリムネー・コンスタンツという人間は、れっきとした女性のからだを持っている人間だった。賢者の島に校舎を構えるこのナイトレイブンカレッジは、歴史の古い男子校。生徒の選定を一手に担う闇の鏡が耄碌したとは考えられないが、それでもリムネーは間違いなく女性のからだを持っている。リムネーが自分自身に性という概念を抱いていないことはヴィルとて知っているが、彼――彼女、どちらで称するとしても、「リムネー」の身体がそうであることは誰にも変えられない。ヴィルのようにすべてを理解した上でリムネーと接してくれるひとはそういないだろう。一瞬、そういうところまで配慮すべきでしょう、と闇の鏡のある鏡舎の奥まで直談判しにいこうかとすら思ったけれど、そういう風に野蛮に意思を伝えるのはナンセンスだ。エレガントでも美しくもない。昨日、入学式が終わったあと、無事にヴィルがリムネーにポムフィオーレ寮の説明を終えてから、なにも問題ありませんというような顔をするリムネーの腕を掴んで、ヴィルはこう言った――「明日の朝一番、先生方のところに行くわよ」。問題を克明にするのは早い方が面倒がなくていい。リムネーの事情のすべてを知っているのは、この敷地内においてはヴィルだけだ。先輩になったという自覚もある。導かねばならぬという使命感がなかったとは言い切れなかった。
 結局、事態は混迷を極めている。ヴィルがリムネーの手を引くのなら、そのタイミングは今朝ではなく闇の鏡に魂を振り分けられるその前でなければならなかった。リムネーの魂が闇の鏡によって選定され、ナイトレイブンカレッジに意識なく連れてこられ、そして奮励の精神を持つポムフィオーレ寮に選ばれてしまった以上、その扱いを変えることはあまりにも憚られるのだ。
 今年度からナイトレイブンカレッジの占星術担当教師として舞い戻ってきた卒業生であるミヒャエル・ゴルツの前に引き出されたリムネーの姿は、どこからどう見ても秀麗な男子のかたちにしか見えない。自分よりも幾分か高身長のリムネーを、その頭の頂点から銀糸に縁どられた蔦柄の輝くローファーの靴底までをじっと見つめたミヒャエルが、はあと息を吐いた。どこか不満げに見えるミヒャエルの視線をするりと避けるリムネーの顔には特筆すべき色がない。
 朝早くに扉を叩いたせいでいまだに日の出を迎えていないはずの学園長室は、だというのにそれを加味しても異様であると言えるほど薄暗い。蒼穹にだんだんと混じってくる太陽の光を阻むほどに大きな黒雲はない。雨が降りそうな景色を呈しているわけでもない空は、いまは島の南側に位置するロイヤルソードアカデミーにのみその光を振らせている頃だろう。黒い空を閉じ込めている窓を背に、学園長は漆のように真っ黒なペストマスクを片手で抑え、ミヒャエルのそれとは様相の違うため息をこぼしていた。
 ――深いため息を滲ませる、吐息混じりの声だった。
「ええと……確認しますけど、リムネー・コンスタンツさん」
「はい」
「あなたは女性で間違いありませんね?」
「生物学上は、そう分類されますね」
 学園長に投げられた問いに、ひどく胡乱げな顔でもって、リムネーは応えた。
 リムネーがいくら意識していないとはいえ、身体特徴上性が異なるという事実は、それを認識してしまった人間にはやや刺激が強い。リムネーは一目見ただけでは「彼」としか称しようがない姿を持って生きてきたが――男としてあるべき機関が存在していないという、致命的な差異を宿しているのも、また事実だ。ナイトレイブンカレッジを長い間運営してきた学園長――ディア・クロウリーにとって、そういう存在がいままでにいなかったと言い切るのは難しい。この学校が紡いできた長い歴史の中で、そんな存在がいなかったとは思えないからだ。例えそれをクロウリーに申告してはいなかったとしても、だ。
「……シェーンハイトくん」
「……この子――リムネーは、自己認識の上では無性よ。『真っ白』で『誰でもない』……だからこそ、演者としては纏う人物の人生に触れやすいの。でも、強いて言うとしたら……そうね。最近までやっていた主演舞台では男の役をしていたと思うから、いまは、どちらかといえば『男性』の方がリムネーの意識としては強いんじゃないかしら?」
「まさか、そんな……演技くらいで魂の形まで男に変わっているとか言いませんよね?」
「わからないわ。だって、アタシは闇の鏡じゃないもの。その可能性があるということを仄めかしただけ……そうでしょう?」
 リムネーは、ヴィルの問いかけに無言で頷くかたちで応える。学園長の言った「くらい」――演技程度のことで自身のユニーク魔法を発現させただけあって、リムネーが演技にかけている思いは、同じ役者という仕事を営んでいるほかの誰よりも輝いていると言っても過言ではない。
 リムネーの扱いを決めあぐねている学園長の前で、リムネーはぽつりと小さな言葉を紡いだ。
「そもそも、この学園に足を踏み入れたのは僕の意思ではありません。闇の鏡に選定され、有無を言わさず連れてこられたということだけは、言っておきます。……長い間ナイトレイブンカレッジを運営しているというのなら、そういう背景はすべて理解していると思いますが」
 地平線から昇る太陽の輝きが、リムネーの顔を照らした。いまは太陽の光を一手に受けているこのひとの瞳は、金銀財宝の眠るような黄金をした月も、青にも赤にも光り輝き色を変え続ける星をも覆い隠してしまうような、重苦しい灰色の雲のような光をしている。怜悧で端正なかたちをしたリムネーの瞳が、ひとつ、ぱちりと瞬いた。リムネーのやや後ろに立っているヴィルからは位置的に窺い知ることのできない表情を真に受けた学園長が、仮面の下、すっと目を細めている。学園長が腰を下ろしている机の斜め前に腕を組んで立っているミヒャエルが、そんな学園長の様子を隠すようにリムネーの顔を見上げて、口を開いた。
「――時に、コンスタンツ」
 冷ややかな声だ。ヴィルが視線の色を変えるほどには。
「はい、ゴルツ先生」
「きみ、性差のほかに私たちに隠し立てしていることはないかい? そう、例えば――ユニーク魔法を持っている、だとか」
 有り得はしないだろう。しかし有り得る可能性も二十分にあった。ミヒャエルの不安は、そういうリムネーの特異性の存在からも来ている。
「ユニーク魔法……ああ、華麗なる転身ダーム・デュ・ラックのことですか? ええ、使えますよ」
 ――ミヒャエルのその懸念をよそに、こともなげに、リムネーはミヒャエルにそう答えた。およそ深刻そうな色をしていたミヒャエルの質問の答えとは思えない、軽い返答だ。ヴィルは驚きにぽかんと口を開いたままになりそうだったが、そののちはたと正気に戻って、こほんと一拍、空気を戻した。
 ユニーク魔法とは、このツイステッドワンダーランドに生きる魔法士の中でも、とくに優秀なものたちが使用することのできる、自分にしか扱えない魔法のことだ。まさか自分の後輩がすでにその域に達しているというのは、ヴィルにとってはまさに寝耳に水の話ですらあったのだ。
「僕のユニーク魔法は『華麗なる転身』。僕自身を偶像とし、僕という存在を錯覚させる魔法です」
 かくして。リムネーの語ったユニーク魔法の効果は、なるほど演技という概念に自分のすべてをベットしているリムネーによく似合うものだな、とヴィルは思う。流麗な顔の子どもがいるという話を聞いてリムネーを演技の世界に連れ出してから幾年か経ったが、このようにして自分の存在すら演技の世界に生きさせようとする精神になっているとは思いもよらなかった。
 一方、リムネーの言葉を聞いた学園長は、はたといまさっきそれを考えついたかのようにいやに明るい声を響かせる。
「姿のこともあります。『彼』のことを女性かもしれないと本気で疑う生徒はあまりいないと思いますが、念には念をということもありますからね。そこで、どうでしょう? 自分のユニーク魔法で『リムネー・コンスタンツは男子生徒である』という認識を重ねる、というのは」
 ――あなたの在籍は、その条件でのみ認めましょう。私、優しいので。
 こくん。リムネーは思わず浮かび上がってきた唾を飲み込んで、喉の奥に押し戻す。常時発動型の魔法でないとはいえ、リムネーの魔力はそこそこ多い方で、この魔法にかかる魔力の量もそう多くはない。
「じゃあ、それで」
 リムネーは一も二もなく頷いた。いまから実家に送り返されたとて、そこからまた地元に近いところで入学するべき学舎を見つけて手続きまでするのもそこそこ面倒だ。なにより自分の子どもがあのナイトレイブンカレッジの生徒となることに狂喜していた母をなだめすかすことを考えれば、自分のユニーク魔法を使い続ける方がよほど楽とさえ言えた。
 それでいいのね。ヴィルの声にも静かな肯定を返したリムネーに、ヴィルははあと安堵と不安の入り交じったため息を吐く。揺らいでいたリムネーの魂のかたちが性という概念を落っことしてしまったというのはヴィルも知っていた。空いた場所に演技などという概念を注ぎ込んでしまったのは誰でもないヴィルではあったけれど、まさかここまでのめり込むとは、いたいけなあの頃は、誰も想像できなかったことだろう。
 ヴィルとリムネーは揃って学園長室から退出した。ふう、と息を吐いて胸元のネクタイを緩めようとするのを見咎めたヴィルに気付いて、リムネーは自分のネクタイからぱっと手を放す。廊下を歩いている同級生たちに「2日目から呼び出しか?」「流石芸能人は違うなあ」「今度昼飯一緒に食おうぜ」などと話しかけられているリムネーがゆるやかな微笑みを浮かべてひらひらと手のひらを振っているのを、ヴィルはリムネーの横で、ただ、じっと見ていた。