01 白濁を満たす


「え、一成、劇団に入るの? 本気で?」
「役者として入るっていうか、手伝い的な? なんかマジヤバたんな経営してる劇団を立て直す協力っていうか」
「はあ〜? なに、じゃあ骨折り損になる可能性もあるってこと? あたしは自分の弟をそんなところに送り出すつもりなんて毛頭ないけど」
 ささやかな様子で外側に跳ねた射干玉色の髪が、弟の呟いた言葉に不満をあらわすようにふわりと揺れて、やわらかな声色に反した鋭い響きの声が、ゆるゆるとして気を抜いた様子で一留の借りているワンルームマンションの椅子に背を預けている一成の耳元を切り裂くようだった。
 ――だだっ広い世界の片隅にある日本という国の首都、東京都。小さくもこの国で最も人口の多い場所の郊外に位置する天鵞絨ビロード町は、演劇の聖地だ。あわやひしめく人の声が聞こえてくるようなほどに所狭しと並んでいるあまたの劇場、息をするように重なる別々の劇団員が放つ台詞、よりよい舞台を求めてこの駅に降りる目の肥えた観客。華々しく咲く劇場がビロードウェイで名声を上げているさ中、その少し裏の通りでは、採算のとれなくなったのだろうか――よく言えば味のある、悪く言えば古めかしい劇場が、人知れず壊れていくことも数知れない。
 天鵞絨町から電車に揺られること三駅。パネルにでかでかとプリントされた楽器たちに囲まれた躑躅ヶ丘駅という文字を素通りしてしばし、駅の近くに広大な土地を持つ大学の名を、躑躅ヶ丘音楽大学という。三好一留は、その躑躅ヶ丘音楽大学――躑躅音大の弦楽器専科に通っている二年生だ。べつに実家が大学からほど遠いというわけではないが、課題として楽器の練習をすることがないわけではないため、近くの大学柄防音のしっかりとされた躑躅ヶ丘駅周辺のワンルームマンションを借りている。天鵞絨町にある美術大学――天鵞絨美術大学に通っているこの三好一成という男はなにを隠そう一留にとっては双子の弟だ。当たり前に一留が実家から音大に通うものだと思い込んでいたらしい一成が、ワンルームマンション借りたから家は出るよと言った一留にショックを受けて、週に幾度か一留の家に転がり込むようになってから、早一年と少し。一成の後輩――とはいっても、大学の後輩などではない――であり、一応一留とも面識のある男からの救援要請があり、ビロードウェイにある倒壊間近の劇場に手を貸すことになったと言った一成に、一留はぴくりと片眉を跳ね上げた。
「……手伝いって、なんの?」
「フライヤーのデザインとか、Webページとかかな? つづるん的には多分そういうので頼ってきてくれたと思うよん」
「ふーん……なんだっけ、その劇場の名前」
「MANKAIカンパニー! 名前かわいくない? 姉ちゃんもこういうの好きでしょ?」
「あたし? べつに普通だけど」
 MANKAIカンパニー――覚えがある。一留はひとり静かに嘆息した。あの劇場なら、たしかにいまは没落しているだろう。いまではない、もっと昔、ビロードウェイに行ったことのある人間なら、あるいは多少演劇をかじったことのある人間なら、MANKAIカンパニーの名前を聞いただけで、劇場のことを思い返すことができたはずだ。一留自身もむかしあの劇場で行われた公演の映像を目にしたことがある。
 つづるん。皆木綴という名前をした後輩のことを一成がよくよく可愛がっているのは、一留だって知っているつもりだ。そもそも自分がそうしたいと思ったのなら一留にそれを報告するような義務は一成にはない。楽しげな表現で「つづるん」と行っているだろうメッセージのやり取りを先に進める一成のゆび先を、一留はそっと一瞥する。それからすっと弟から目を外した一留が手持ち無沙汰になったように自分の持っている端末に指を滑らせた。
 MAN、KAI、カンパニー。端末の検索窓から容易に飛べるようになっているURLの中を覗き込む。――たしかに、これでは来るはずの客も来やしないだろう。一昔前の同人サイトのような完成度のWebサイトを鼻で笑って、一留は自室に置いてある机に肩肘をつき、空いた手のひらに自分の頭を乗せ、どちらかといえば机やベッドよりもテレビモニターの近くに置いてある椅子に座っている一成を視界に映した。そのタイミングを見計らったような素振りで、一成がいままで目を向けていた液晶から視線を上げ、双生児の、同じ色をした視線がぶつかる。
「……一成?」
「それにさ、姉ちゃんって昔、演劇してた時あったじゃん? だから俺もちょ〜っと気になってたんだよね〜」
「ああ……うん、そうね」
 いつの間にか役者でいることを辞めちゃってたけど、あの時の姉ちゃん、結構好きだったんだよ。湿気た空気を吐き出すようにぼやいた言葉とは裏腹に、吸われた息がからっとした夏の天気を呼び込むように明るげに変わった。同時に一留のベッドの下に立てかけるように置いていた荷物を手に取った一成がバタバタと出かける準備を始める。
「じゃ、いってきまっす!」
「いってらっしゃい。無理はしないように」
「りょ〜かいだよん!」
 ――昔は、揃いの射干玉の髪をしていた。いまの一成は、周りに合わせることを覚えるのと同じように、周囲に染められてしまったような、ひどく明るい髪糸をしているけれど。薄くきらきらとした茶色にやや近い金髪が星みたいな笑みを見せて、向こうのほうに踏み出していった。明かりの方へ。薄靄に隠れた春の景色が消えないうちにばたりと音を立てて閉まってしまった扉の内側で、倦怠をまとわせてうずくまる一留のことを、置いていったまま。