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「え、落ちてない」

ガタン、と揺れたのは私の向かいにあるパイプ椅子だった。

「……お前の目は節穴か?」
「使い方違うし、動揺しすぎ」

万里君は眼鏡を掛け直してから、ようやく目を合わせてくれた。
1つだけ、大変に拙い科目があった。そこに留年するか否かが掛かっていたけれど、どうやら無事に単位を頂けたらしい。一番驚くべきは私の筈なのに、万里君の方がきっと、驚いていただろう。

まあ兎に角言えば、来年も万里君と同じ学年だし、万里君との卒業も見えてきた。2年生を超えてしまえばあとは楽だという、先輩達の言葉を鵜呑みにすればの話だが。

「今夜は赤飯にするか」
「ありがとう」
「…………買って帰ろう」
「そうだねえ」

万里君、料理できないもんね。軽口を叩いてみれば、頭をぽかりと叩かれた。

「お前よりは出来る」
「そうめんすら失敗する私と比べて恥ずかしくないの?」
「…………」

少々、揶揄いすぎたらしい。ふい、と顔を逸らされれば、ごめんなさいねと機嫌をとるしかないのである。



所謂のオタクが集うサークルで出会ったのが彼、丹羽万里である。半年くらい同じ時間を過ごして、付き合って欲しいと言い出したのは万里君の方だった。私はそれに、頷いただけである。
付き合って1年半、私は未だ、万里君に好きだと言ったことはない。そして万里君もまた、明確に、好きという言葉を使うことはなかった。デートは何度もしたけれど、恋人らしいことは何一つしていない。

その距離感が、好きだった。きっと大学生の青春とはかけ離れているのだろう。けれど、一緒に居て心地が良ければ、恋とか愛とかは要らないのではと思ってしまう。まるでストーゲイのような私の思考を、万里君は否定しなかった。
趣味も合って、恋愛観も似ていた。結婚のことをぼんやりと考えても、すぐに想像出来てしまう。だからきっと、そうなるんじゃないかという、予感があった。

「夕食は買って帰るとして……あ、どっちにする?」
「お前の部屋で」
「ん、珍しいね」

結婚という、漠然としすぎたビジョンの、唯一の障害といえばこれである。
大学進学を期に、私も万里君も、アパートで一人暮らしをしていた。付き合い始めて半年経った頃に、ルームシェア……いや、同居を提案した。家賃半額でお得じゃないの。それを頑なに拒絶したのが万里君だった。とにかく絶対に無理だ、と万里君にしては妙に頑固だったものだから、あれから一切、その話はしていない。

同居はしなくても、どちらかの部屋に泊まることはしばしばだった。大抵、万里君の部屋だったから、彼の方から、私の部屋と言ったことがまあ本当に、珍しかったのである。

「今日は、嫌な予感がする」
「嫌な予感?」
「ああ」

心なし、顔色が良くない。普段であれば、ふうん、で終わらせてしまう話題だけれど、今日はどうしてか引っかかっていた。

「嫌な予感って?」
「…………悪魔が来る」
「悪魔?」
「ああ悪魔だ。……いや、天使か?」

一人で、口許に手をあてて考えている。私としては天使でも悪魔でもどっちでも良いので、もう少し具体的に説明して欲しかった。
だから諦めずに詰め寄れば、やがて諦めたのか、大きく溜め息を吐いた。

「『紫宮京』という男がいてな」
「…………しのみやけい?」
「ああ。幼馴染なんだが、よく俺の部屋に遊びに来る。今日は、居る気がする……」
「居たら、拙いの?」
「拙い。非常に拙い」

まるで唾でも吐きそうな顔で、壁を睨みつけていた。

「あんまり、仲良くないんだね」
「いや、仲は悪くない。懐かれてはいる。俺も嫌いではない……が、そういう問題ではなく」
「じゃあ何?」
「………………異常性癖」
「はぁ……」

まるで苦虫を噛み潰したような表情だった。そんな顔を、今まで見たことがあっただろうか。澄ましている事の方が圧倒的に多いのだから、有る訳がなかった。

曰く、紫宮京という男は、『丹羽万里の彼女』が好きらしい。簡潔にまとめるとそんな話だった。だから私と、その人を会わせたくないはないという。

「その話聞いてたら、たとえ会っても気移りしないと思うけどなあ」
「前の彼女も同じ事を言った」
「それで? 寝取られたの?」
「…………」

ああ、聞かない方が良かったらしい。まあ、万里君がフリーだから、こうして付き合える機会をもらったワケで。その辺は逆に、感謝をするところなのかもしれないけれど。

「……とにかく、京には会うな。目が合ってもすぐに逃げろ。会話は全て無視」
「ええ、そんなに?」
「そんなにだ。一言も話すな」

話してしまったらおしまいだという。何故かって? 天才だから。存在を知られたら最期。そんな話を突然されても、どこか他人事のように感じてしまった。
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