隔絶ノーモフィリア
講義室の隅に座ったのは、サボりたい訳ではなく、ただ、目立ちたくないと思ったからである。分かっていないことを、他人に悟られたくなかった。
先生は大人数を前に、話しているだけだ。これが授業と講義の違いである。私はそれを聞いて、受け止めるしか術がなかった。
だから、置いて行かれた。あまりに名高い早慶大学に、滑り込みのような合格をした所為で、私の人生の殆どは勉強にあてられている。自業自得だと言われそうだけど、必死に食らいついてでもついていけるうちは、そうしておこうと決めた。そして何より、この居場所を手に入れたからには、音を上げる訳にはいかなかった。
「真面目だなぁ」
よくある、名前も知らない他人からの揶揄いである。無視を決め込めば、男は講義中だというのにノートを閉じた。元々、開いたページは白紙だったから、最初から聞く気はなかったのだろう。ただその、ノートの表紙が、大学で使うにはあまりにお粗末で、視線を外せなかったのが良くなかった。
「どうした?」
「……別に、」
独特な人には2種類ある。それを周りに認められる人と、認められない人だ。どちらであっても私に利はないことだけは知っていて、つまりこれ以上、関わりたくはなかった。
男と話したのは僅か2分程だった。その間の講義を、全く聞いていないのは痛手で、自分の空き時間をその補填に使うのである。何度も首を傾げる私に、先生は10分くらい、懇切丁寧に紐解いて話してくれた後、諦めたように溜め息を吐いた。
「……すみません、大丈夫です。あとは自分で考えますから」
今この場で、私に分かるまでの説明をすれば、先生は次の講義に行けないだろう。気を遣ったとも言ったし、申し訳ないとも言った。
「お前は、馬鹿じゃないんだけどなあ……」
「バカですよ。分かってますから」
「本当の馬鹿ならもう辞めてる。それに身の丈に合わない分、努力をしている。そこは買っているぞ。頑張れ」
「あはは、単位落としたら辞めますよ」
愛想笑いで部屋を出たあと、チ、と舌打ちを零した。
なにが、なにが頑張れ、だ。頑張れという言葉は好きではなかった。非常に投げやりで他人任せだと思う。まあ、応援したい気持ちを違う語彙に変換できる能力は無い癖に、只応援された、と素直に解釈できない私が悪いので仕方がない。理屈でない感情を、理屈で無理やり納得させていた。
講義が終われば、自然と足は図書館へ向かう。図書館は広くて、人が多かろうが気にならない。それでもテスト前となるとうるさいのだ。全く、常日頃からここで勉強をしている、私への配慮などあったものではない。
いつもの定位置には人がいて、けれど別に、予約制でも何でもないから怒ることは間違いだ。なんだかモヤモヤする、程度の気持ちを押し込めて、別の席を探す。そして偶然目に入ったのは、今日はもう会いたくない人だった。
今日の講義中に私を揶揄った男は、窓際の席に座って、本を読んでいた。なんだ、あいつも、勉強はするのか。これは多少の好奇心とも言って、気づかれないように後ろを通る。チラ、と本の中身を覗き見て、
「…………うわ、」
引いた。図書館にある使い古された本の上には、安っぽいペラペラのカラー本が置いてあった。そこに写っているものは私には全く興味がないものだったけれど、何故今ここでこのように見ているかと聞かれれば、分からなくなってしまうので、その点で引いた、と表現した方が良い。
「ん? どうした?」
「……場所選んだらどうです?」
男は下品に笑って、所謂のエロ本を鞄に仕舞った。
「勉強するのかァ? 席、譲るぜ」
「あなたは良いの?」
「オレが、テスト前だけコソコソ勉強する人に見えるって?」
「そこまで言ってないじゃない」
「顔に書いてある」
「……………………」
時間の無駄だ。今までの会話を水に流して、何も言わずに背中を向ける。顔は見えないし、何も聞こえなかったけれど、どんな顔で何を言いたいのかは、何となく分かってしまった。
・・・
夜の公園は静かだ。と言えたのは田舎にいる時だけで、都会の公園はまず狭い。車の通りも多くて、安らぎなんて到底無いに等しかった。ベンチが汚れていた所為で、ブランコに座らざるを得なかったのもまた、寂しさと呼べると思う。
財布を開いて、中身を数える。……無理だなあ。独り言を零したのはその後だった。所持金800円。次の仕送りまでは1週間。昼食代を削ればいけないこともないけど、今から銭湯に駆け込むだけの余裕は、まあ、ある訳がない。
大体あの大家が、私の部屋の前から動かないことが全ての原因だった。だから私は、外でどうにか1日を過ごす計画を立てなければいけなかったし、こうやって夜の公園に佇んでいるのだ。大家がそこにいる理由は、私の家賃滞納の所為だと分かってはいたけれど、この際棚に上げてしまおう。
「はぁ……」
仕方ない。そんな思いを溜め息と一緒に吐き出して、立ち上がる。別に1日風呂に入らなかったくらいで何なのだ。そんなやつたくさんいるし。臭いけど。つまり自分もそうだと言えれば良かったけれど、見た目だけはマシにしなければならないのだ。そうでないと、私は、
「こんなところでお月見か?」
「っ、つ」
めたい。冷たい。頬に当てられたのは缶ジュースだった。素直に受け取ってみたけれど、今開けて飲む勇気までは無かった。
「……あなた、」
男は何も言わず、隣のブランコに座った。まるで子どものように揺らして遊ぶのだから、珍しいより呆れである。
「オレん家来る?」
「は?」
前後の脈絡がない所為で、動揺と言っても正しかった。貰ったばかりの缶ジュースが地面を転がって、やがて石にぶつかって止まった。
「何か事情があって家に帰れない。そうだろ?」
「……まあ、そうだけど、あなたに借りを作る気は無い」
「顔に似合わず酷いなぁ。他人の好意は素直に受け取れよ」
男はニッコリと微笑んだ。それは、今までの巫山戯た言動を全て忘れさせる程に整っていた。優しさの滲み出るそれに、恐怖を覚えて、一体この顔を、何人の女にしてきたというのだ。
「借りは作らない。2回も言わせないで」
立ち上がって歩き出せば、つま先に当たった何かがコロコロと転がった。追いかけて拾う自分を想像して、そうしなかった。きっと彼には、1ミリの借りすら危ういだろう。
歩き出せば腕を掴まれて、不機嫌になったのは言うまでもない。
「今日はオレに貸しを作った方が良い」
「……どうして、」
「血の臭いがする」
ど、と心臓が、重くなったような気がした。一瞬の、思考の中断すら危うい状況でそれをしてしまえば、後は私の意思なんて関係無かった。途端に目を塞がれて、声を出す前に、耳許で囁かれる。
「黙って付いて来い。『そっちの方が得』だ」
有無を言わせない脅迫だった。私はこれに、黙って頷くしか無かったのである。