損得
「周りの目が気になるってぇ?」
「別に」
そんなの、気にした方が負けだ。自分が間違っていないのなら、ただ強気であれば良い。その考えは口にしなかったけれど、何故か満足そうに笑っていた。
1人で住むには広く、2人で住むには狭い空間だった。靴を並べる間に、敷居を跨いでスリッパを並べられるのだから、抜け目が無い。気を抜いてしまえば直ぐに彼のペースだろう。それの、何が悪いかは分からなかったけど、癪に障るかを考えれば、ああこれだと納得した。
「適当に寛いで……って、ま、何も無えけどな」
ハハァ、と馬鹿にするような笑いをつけながら、男は冷蔵庫を開けた。その背中に言葉を投げかければ、すぐに振り返る。
「お風呂、借りたいんだけど」
「借りは作りたく無いって言ってなかったか?」
「作れって言ったのはあなたよ」
ただの、正当化だ。借りはもう出来てしまったのだから、1ミリも那由多も変わらない。
「狩野京児だ」
男は暇そうに、片手鍋を揺らしながら言った。
・・・
髪を乾かす頃には、テーブルの上には皿が2つ並んでいた。パスタの上にはこれでもかと言う程のミートソースがかかっている。作りすぎたのだろうか。向かいの皿に目をやれば、いかにもお店にありそうな盛り付けで、つまり、嫌がらせなのだと理解した。理解すれば、シャンプーが空だったことも偶然だとは思えない。まあ、こちらは実際偶然だろうから、とばっちりだけど。
有り余るソースを残せば、悲しい、と思ってもいないことまで言うのだから、解せない。言い返す程子どもでは無いけれど、ここまで自分にかかる嫌がらせであれば、少しくらいは止む無しである。
「楽しんでるでしょ。楽しい?」
「楽しいかもなあ」
「……あなたねえ、」
「狩野京児だ」
この人、壊れてるんじゃないだろうか。
「それ、さっきも聞いたけど」
「だから、あなたじゃなくて、狩野京児だ。どう呼ぶぅ? 狩野? 京児?」
「………………」
1日、いや、1晩なら耐えられると思ったけど、そろそろ無理そうだ。借りに対する返しは、この苦痛に耐えるだけで十分お釣りが来るのではないだろうか。
「……カリノキョウジは、私に嫌がらせをして良いことある?」
「おーう、そうくる」
「だってそう名乗ったじゃない。2度も」
思い通りになりたくなかったのもそうだし、そうとしか、呼べる手段が無いこともあった。
そもそも、おかしい話なのだ。今日初めて会った男が、私に嫌がらせをするメリットはない。まるで子どもの悪戯だ。もっと、ずっと前から私を知っていて、元より嫌いなら、話は別だけれど。
「『初対面のワタシに嫌がらせをするメリットは無い』とか考えてる?」
「…………考えてるけど、それが何」
「楽しい、はメリットではない?」
「楽しかったら何でもするワケ? おかしな人」
「おかしいのはお互い様だろ?」
流石に、不機嫌です、と自己主張する他ない。眉を顰めれば楽しそうに笑うから、何をすれば正解か、さっぱり分からない。お手上げだった。
「…………さっき、血のにおいがするって言ったけど」
だからもう、帰りたい。話を切り替えてしまえば、帰りたいの意であると察したのだろう。まあ、帰るとこないけど。
「公園の近くに、死体があったんだろうな。人だ。殺されたばかりの」
「……嘘でしょ」
そんな近くに、と続けたのは、フリだった。本当は、まるで当事者のように詳しいと吐いてしまいそうだったけれど、こんなことを言えば、どこからどう返されるか分からない。
だから帰るのはオススメしない、と言うだけなら優しい男だというのに、相変わらずのにやけ顔に苛ついた。
「物騒なニュースが多い。近くにまだ犯人がウロウロしてるかもしれない」
「あ、そう。」
興味が無いように言い放って、立ち上がる。靴を引っ掛けたところで、腕を掴まれた。
「下手したら、ハハァ、死ぬかもしれない。戻るか?」
「私が死ぬことで、狩野京児にデメリットがあるの」
無いなら止めないで。言葉にしなくても伝わっただろう。それでも男は、私の腕を離さなかった。
「…………呆れた。」
「茶番だな」
「真面目なんだけど」
「いいや、違う」
そうだ。狩野京児が私を止めたのなら、私をここに留めることは、狩野京児の意思だ。つまりこれは、借りでも何でもない。屁理屈だって理屈である。そしてこの男は、私がその理屈を武器にすると知って、それでいて、離さなかったのだ。
「本当に、おかしな人」
履きかけの靴を適当に転がして、部屋の中へと戻る。ベッドに我が物顔で腰掛けても、目の前の男は、特に何も言わなかったし、表情を変えることもなかった。
言葉の代わりに投げられたのは絵本で、馬鹿にするのも大概だ。
「何。読んでくれるの」
「ンー、読んでやりたい気持ちは山々だが、時間がないんだ。また今度な」
「冗談だから。気持ち悪い」
そんなことより、こんな時間に、時間が無いなんておかしな話だ。そう思った頃にはもう、玄関のドアに手を掛けていて、不思議でないなら何なのだ。
「気にするな。夜型なだけだ」
思考を読んで黙らせた、と説明されても疑問には思わないだろう。そう言われてしまえば、あらそうですか、いってらっしゃいしか返す言葉は無い。鍵の回る音を聞いて、あとは、静寂だった。
してやられたと唇を噛む。外側から鍵を掛けられれば、出られないのは必然だった。本当に只の夜型で、その意図はないのかもしれないけれど、そう考えた方が理に適っていた。
・・・
「ち、こくっ!」
ここ最近で、一番深い眠りだった。夢そのものを見なければ、嫌な夢を見ることすら無いのだ。目覚めは快調だった。時計を見るまでは。
二度寝どころか1日眠れる、くらいの気持ちだったのに、完全に起きてしまった。考える暇なく床に足をついて、そこで違和感に気づくのである。
本来の、この部屋の主は、椅子の背を倒してそこに寝ていた。眺めるだけでは罪悪感が募るだけだ。
「お、おきて、遅刻」
肩を揺らしても反応は無かった。頭を叩いて、頬を引っ張ったところでようやく目を開ける。少しだけ、驚いた。あまりに不機嫌そうな顔で睨まれたから。欠伸をすれば、いつものにやけ顔である。
「ん、何時?」
「1時」
「おやすみ」
どうやら寝起きはダメらしい。あと不機嫌。夜型という話もあながち間違いでは無さそうだと、1人で納得する。
まあ、彼がいくつ単位を落とそうが知った話ではない。そもそも、一緒に行く義理すら無かった。
「私、行くから。」
「んー」
「あのさ、」
「んー?」
「……あの、ありがとう」
別に、どこに利があるかを考えれば伝えなくても良かったけれど、言っておかなければならないと思った。当たり前の人間であれば、そうなのだ。
返事は無かった。都合が悪く眠りに入ったのかもしれない。
一瞬取り繕えなかった不機嫌そうな顔とか、私生活丸出しの行動があれば、やけに近しく感じてしまう。それは良いことかもしれないけれど、私にとっては悪いことだった。
ここに来るのは、最初で最後だろう。そう考えても、寂しさも哀愁もエモみも何も無かった。
適当に準備を済ませて、部屋を出ようとしたところで、何かが引っかかった。違和感があるけど、それが何なのか分からない。
気の所為か。自分を納得させるようにそう思って、靴を履いたところで、手を止める。
「……違う」
気の所為なんかでは片付けられない。頬を引き攣らせながら引き返すと、男は既に起きていた。まるで私が、引き返すことを分かっていたかのような。
「どういうこと?」
手に持ったままの靴を、眼前に差し出した。
これは私の靴ではあったけれど、昨日履いていた靴ではない。今思い返せば、衣類のケースが2つは増えている気がするし、洗面台には見知った歯ブラシがあった気がする。
「バレた?」
「バレたじゃないです! どういうことよ」
要約、引越しだそうだ。私の。どこからつっこむのが正解か分からなくて、只、溜め息しか出ない。
「まあ、溜めてた家賃も清算してやったし、プラマイゼロだろ?」
「……………………」
ついに溜め息を吐く気力すらなくなった。自分を落ち着ける為に、軽く深呼吸をする。2、3回としてみたけれど、落ち着くなんて、どこの幻想だ。抑えられないのは怒りではなく、恐怖なのだろう。
「あなたが、」
「『アナタがワタシといるメリットは』ってかあ?」
「……揶揄ってる」
「正解」
笑い方は下品だ。うるさい、と怒りそうになる感情を飲み込む。男はにやけるように唇の端を吊り上げたけれど、目はあまり、楽しそうではなかった。
「楽しい」
「それだけ?」
「理由にならないかァ? なら言い方を変えてやる。ココの方が部屋も広い、ボロくもない。家賃は0円、大学にも近い。お前にデメリットは?」
「無いけど、それが何?」
「ハハァ、お前にデメリットが無いのに断る理由は?」
……ああ、だから嫌いなのだ。彼の一体どこに、怖いを抱いていたのか、分かった気がする。癪に障るとはこのことで、苛立ちと怒りは未だ抑えられる訳が無い。
「狩野京児が勝手に、私の部屋引き払った所為だから、自業自得よね」
「京児でいい。呼び方も言われなきゃ、他人の名前も呼べないんだろ?」
「あ、そう。よろしく、狩野君」
最初から、意味の無い会話だったのだろう。無駄な言い争いをしている間に、狩野君はスクランブルエッグを皿に盛り付けて、テーブルに置いた。続いて出てきたのは目玉焼きで、性格が悪いなんて、これ以上言ったところでそれこそ無駄なのだろう。
「ねぇ、血のにおいって、どこからしたの」
スクランブルエッグ、訂正、ぐちゃぐちゃの目玉焼きの上にケチャップをかけながら呟く。狩野君は顔を上げる訳でもなく、手を止める訳でもなく、独り言に独り言で返すようだった。
「さあ、」
興味が無さそうに呟く男からは、少しだけ、血のにおいがした。