ラストマーダー

鍵を開ける速さで、空き巣かそうでないかを判断する防犯カメラがあるらしい。きっと、それがここにあれば、私は捕まるのだろうと思った。
狩野君に、大学の廊下ですれ違いざまポケットに入れられたのは、部屋の鍵だった。目立つところではやめて欲しい、と無言で訴えているつもりだけれど、どうやら何も伝わっていないらしい。声に出せなかった私も悪かったし、嫌だと分かってやっている狩野君も十二分に悪い。

別に初めてではないというのに、どうしてか鍵が開かない。どっちに回すのか分からなくなって、焦ったところで仕方がなかった。1度抜いてから、深呼吸の代わりに溜め息を吐く。向きを確認しながら差し込んで、

「鍵も開けれねえのかァ?」

声は後ろからだった。反射で飛び出した肘は受け止められる。以前のようにはならなくて、安心したけれど、止められたこと自体には、少しだけ嫌な顔をした。

「同じ時間じゃないの」
「1コマぶん違っただろ。寄り道か?」
「…………さあ、」

正直に、何がどうして今の時間なのか、なんて、話したところで面白がられるだけだ。
鍵はすんなり開いて、それがちょっとだけ、不服である。狩野君の、ポケットの中にそれを突っ込んで、出来るだけ無駄な時間をかけないようにと靴を脱いだ。

バッグを雑に投げて、まっすぐ向かうのはバスルームだった。いつものことなので、最初のように、借りるとは言わなくなった。だから、突然腕を掴まれたことに驚いて、振り返ってしまう。

「血の臭いが気になる?」
「………………何の話?」

質問には答えず、その答えの代わりとでもいうように右手を上げる。握られていたのはティッシュ箱で、意味が分からない、と首を捻るのは当然のことだった。
狩野君は、溜め息の出そうな顔をしていた。何に呆れられたのか分からず、捻った首は真っ直ぐにならない。何の話だと、もう一度問いかけたところで答えはない。狩野君は、ティッシュを2枚か3枚引っ張り出して、

「、っ?!?」

私の鼻を摘んだ。ごく自然に突き飛ばそうとして、違和感に気づいたのはその時だった。あ、これ、鼻血出てる。気づいてしまえば、血のにおいはとても、近いと感じた。

「……じ、自分でする」
「あ、そう」

ティッシュ箱を押し付けられる。狩野君はそのまま部屋に戻って、いつもの椅子に座っていた。差し詰め、昼寝といったところだろう。



湯船に頭まで沈める。息が苦しくなれば浮上して、3回も繰り返せば飽きてしまった。鼻血が出た時は長く浸からない方が良かっただろうか、それともお風呂で出てしまうとかそういう話だっただろうか。曖昧な知識は、こういう時に役立たずだ。
血のにおいが近すぎて、それ以外の臭いが分からない。溜め息は変に反響して、けれど誰も聞いていなかった。ああ、何のやる気も出ない。沈んだのは4度目で、けれどすぐに戻った。

「あー……」

一瞬だけ、湯船が赤色に見えた。それは、前に見た夢を思い出させて、不快だ。疲れているのだろう、と言い訳をして、それから顔を沈めることは無かった。



水気の残る髪を纏めて部屋に戻れば、狩野君は相変わらず椅子の上で、視線はテレビへと向いていた。てっきり寝ていると思ったので、それについては驚いて、何を見ているのか、気になったところは興味である。何見てるの、と声を掛けようとして、

「……またそれ?」
「んー」

テレビに映っていたのは、例の殺人事件のニュースだった。止まる事を知らない殺人鬼は、ついに7人を殺したらしい。

「舌切り男も飽きないのね」
「そうとは限らねえだろ」
「あら、舌って言ったのはあなたじゃない」

ベッドに腰を下ろして、視線はテレビから外さなかった。路上に残る、生々しい血痕が、まるでこの場にあるかのように錯覚した。未だ血のにおいがうるさいのだ。髪を結びなおして、誤魔化した。

「そっちじゃなくてぇ……」

もう、ニュースには飽きたらしい。照明をカラフルな本で遮りながら、狩野君は呟く。

「男だって、限らねえだろ」

見えない表情は、どうしてか、笑っているような気がした。背筋が凍る。どうして男だなんて言ってしまったのだ。全く、人間の思い込み程怖いものはない。

「確かに、女かもしれないね」

あたりさわりのない返しをすれば、狩野君は突然、表情を隠していた本を床に投げやった。想像通りの笑みではない。どちらかと言えば、寝起きのあの、不機嫌というか、何も考えていなさそうな表情に近いと思った。

「どうしたの」
「……出掛けてくる」

何か、用事を忘れていたらしい。用事が何なのか気になったのもあったし、特に興味を持って見るものもなかった。だからただ、何もしないと同じくらいの意味で、狩野君の足取りを視線で追う。着替えを始めて、ボトムに手をかけたところでやめたけれど、それでも他に、視線をやる所がない。致し方なく、ニュースの続きを眺めていた。
辛気臭い話は既に終わっていて、美術館でなにが開催だの、そんな話をしていた。案外近い、だからと言って行く訳ではない。つまり暇だった。暇は贅沢と同義である。まあ、何をするにも、狩野君が出掛けてからの方がやりやすい。
後で、何をしようかと考えていると、口から痛い、と声が出ていた。何か硬いものが、頭にあたった気がする。視線を落とせば鍵が落ちていた。

「……8時に戻る」
「朝?」
「…………」

ああ、夜か。分かってしまうのも、どうしてか腹立たしい。私が言い返せないくらいの、物理的な距離を確保してからやっと、晩飯つくっとけ、と付け加えるのだから、断れなかったのも悔しかった。

「……自分で作りなよ」

上手なんだから。悪態は誰も聞いていない。

私は、彼の何なのだろう。お前は彼氏か、と言ってしまえば面白半分に揶揄うことが目に見えていたから、直接それを投げかける勇気はなかった。つまり、彼女ではない。類似する関係性も全くもって存在しなかった。今この部屋を家としているのも、別に私の意志ではない。損得でいえば、得はあったけれども、この状況に追い込んだのは狩野京児その人である。私には、彼になにかをするという義理が、全く無いと言い切れた。それでも何かをしてしまうのは、ただの、良心の呵責であって、それ以外の理由は無い。

ベッドに転がって、暫く天井を眺めてから、勢いを余らせて飛び起きた。

「あー……」

なんだか、癖になったことが多すぎる。ここにあるものの殆どは、狩野君の所有物だ。だからあまり、我が物顔では使わないようにと思っていたけれど、どうやら徒労だったらしい。
狩野君には、ベッドで寝ることは無いから勝手にしろと、少し前に言われた訳だけど、その時ですらまだ、使わせてもらっているという建前は忘れなかった。使わないなら何でこんなにバカでかいものを、と思ってからはもうダメだ。誰も使わなければ、本当にただのスペース泥棒だ。合理的判断だと言い聞かせる私は、私に、随分と都合が良かった。

そんな自分の方が、端的に言って悪いと思うこともある。まあ、でも、あれだ。最終的に行き着く先は、こうしたのはあっち、である。一体この免罪符をいつまで使えるのかなんて、考えることは、時間の無駄だった。


・・・


「…………何だこれ」
「ハンバーグ」

狩野君は、8時を過ぎてから戻ってきた。ただいま、と言われたけれど、おかえりとは返さない。代わりに、晩ご飯できたよ、と言えば、少しだけ驚いて、やがていつもの笑みを浮かべた。
そして、これだ。私は、狩野君がちょっとだけでも驚いてくれることを期待したので、言葉に間があったことが嬉しくて、けれど努めて、当たり前だと態度に出した。

今この食卓には、レトルトの白米と、レトルトのハンバーグと、薄い味噌汁と、あと千切りには到らないキャベツが並んでいる。
食事に幸福なんか求めていない。三大欲求を満たすための、行為だった。まあ、美味しいに越したことはないから、下手くそな手作りより、美味しいレンチンゴハンの方が、合理的に考えても良い選択である。本音であり建前だった。

「ハンバーグ、好きか?」
「……別に」

安かったから、と言いながら、味のない味噌汁を流し込む。味噌汁くらいなら、と思ってしまったのは間違いだった。後悔したのは、狩野君がお椀を空にした時で、まあ、そんな時に考えても遅かったのだけど。

少しだけ中身のない会話をすれば、あとは無言だ。狩野君と向かい合って食事をする時は大抵こうで、だから始めは気にならないテレビの音が、うるさく感じてしまう。

「………瀬田俊彦さん、35歳。これで被害者は8人目となり――」

耳だけを傾ければ良かったものを、つい、視線を向けてしまった。例の事件だ。

「気になるぅ? 舌切り男」
「……いや、」

女じゃないの、と返すことすら出来なくて、自分がどのくらい動揺したのかを察した。

「……オジサンと名前が一緒だったから、驚いただけ」
「あ、そう」

偶然だと思うけど。言ってしまえば、偶然でなくなる気がして、口を噤んだ。



私が、セダトシヒコのことを考えている間に、机は綺麗に片付いていた。それだけなら格別思うことはなかったけれど、私の気づかない間に、狩野君は既に、眠る体勢に入っていた。

「…………夜だけど、」
「……夜だから、寝るんだろ…」

相変わらず、定位置とでも言うように、椅子を寝かせている。だからこれを尋ねたのは、むしろ遅すぎるくらいだ。何か話題をぶつけて、セダトシヒコのことを忘れたいというのもあった。

「……あのさあ、ベッド、使わないんでしょ。どうして置いてるの?」

決して広いとは言い難いこの部屋と比べれば、普通よりは大きいそれが、あまりに不自然だった。狩野君が使わないのは、私に気を遣っているのかと思ったけれど、そうではないらしい。

「普通、あるだろ」

ああそうか、と思ってみたものの、上手い返しは見つからなかった。だから誤魔化すように、テーブルの上に無造作に置かれた鍵を握りしめる。

「出掛けてくる」
「コンビニ?」
「……さあ」

言う必要は無いだろう。だいたい私だって、狩野君がどこに行っているのかなんて、知らないのだから。

靴を履いて立ち上がれば、頭をぶつけた。それが、狩野君の肘だと分かれば、睨みつけるのは忘れない。こういう時は大抵、人を馬鹿にするように笑っていた。寝る寸前のような態度はどこに行ったのかと、尋ねたところで笑うのだろう。

「今日は、やめた方が良い」
「どうして」
「9人目になる」

きっと、冗談で選んだ話題だ。どうしてか食いつく私も、大概だった。

「……人が殺される確率、何パーセントだと思う?」
「ゼロじゃない」
「1日に、何人も殺すのはリスクが高い」
「…………ハハァ」

俯いて、笑った。表情は窺えなくて、いつものソレだろうと思っても、どうしてか恐ろしく感じた。だから、ふ、と上がった顔を見ないように、踵を返して、

「まるで、自分が死なないって分かってるみてえだな」

足は忙しい。せっかく真逆を向かせたというのに、数秒前と同じ方を向いていた。
ぐ、と狩野君の顎を掴んで、もう片方の腕を上げる。人差し指と中指だけを突き立てて、口の中を刺した。

「狩野君」

答えない。指で、舌を挟むようにしたのだから、当たり前だ。口角は、上がっているのかそうでないのか分からない。分からなくて、好都合だった。

「ちょっと、うるさいよ」

暫く経ってから、両手を退けた。狩野君は喋らない。むしろ、動かなかった。それを良いことに、今度こそ足を反対に向ける。
外に出れば、ひんやりとした風が、指の先を掠めた。

鋏があれば、舌を切りたいくらいだ。そんなことを考えないように、どの電車に乗るんだっけ、なんて、分かりきっていることを何度も唱えた。
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