一松とイチマツのお粗末な結末:消




二. 消

一松がイチマツを拾ってから、彼はなまえの家をよく訪れるようになっていた。雷に驚き家を飛び出してしまったイチマツを、偶然にも一松が拾ったのがきっかけだ。

なまえの一松に対する第一印象は、そう悪くなかった。彼のズボンは泥に汚れ、紫色のパーカーは所々濡れていた。また、猫を拭いた跡が腹部に付着している。傘もささず、そそくさとその場を立ち去ろうとする一松の丸い背中は、一見みすぼらしかったが、愛猫家特融の献身的な優しさが垣間見えた。それこそ、捨て猫のような不憫さの滲む彼の雰囲気が、そこはかとなく彼女の母性本能を適度にくすぐったのだった。

だからこそ、なまえはどこかで食事を……とならず暖かい風呂とふわふわのバスタオル、簡単だが暖かいスープをお礼として選んだ。もちろん、なまえはお礼の品を用意したり、食事に誘ったりもしたが、酷く卑屈な理由で拒否された。代わりに、猫さえ触らせてくれればそれで満足だと一松が言い張るので、現在はそのようにしている。

そういった一連のやり取りを経て、なまえは一松に対し、成人の男性であるという警戒心を抱けないでいた。そのまま一松は、なまえの愛猫イチマツのお友達という位置づけに定着した。臆病で人見知りをするイチマツが一松には懐いたので、飼い主としても嬉しかったらしい。

それを一松自身も心得ているのか、彼女の家を訪れる時は必ず猫へのお土産を持ってきた。なまえという存在に敢えて触れないようにしているようにも見えた。あくまでも、猫に会いに来ているのだと。

無論、一松に下心が全くないわけではない。けれど、彼女を女性として認識することは、お互いの不幸に繋がるという自虐的な壊滅思考が彼の下心に強力なブレーキを掛けていた。おそらくサイドブレーキもかかっている。

そんなこんなで、猫で繋がった二人の不思議なライフスタイルが着々と構築されて今に至る。


一松はいつも夜になまえの家を訪れた。彼女は日中仕事をしているので昼間は自宅にはいないからだ。

しかし今日は、日が落ち切らないうちに到着してしまいそうだ。一松は足が向くままに、なまえの猫を拾った公園を訪れた。公園は、なまえの自宅から歩いて五分もしない場所にある。晴れている日は空が広く見え気持ちがよかった。夕方は小学生ぐらいの子どもたちがよく遊んでいるが、今日は珍しく誰もいない。

柔らかな西日が公園を紅藤色に染め上げ、鳥だか恐竜だかを模した桃色の遊具がひっそりと発光している。冷ややかさを含む春の風に吹かれ木々がざわつく。黄色い砂ぼこりが、足元から立ち上る湯気のように舞い上がった。一松は砂が目に入らぬよう、風に対して背を向けた。

ふと遊具の足元を見ると、唐突に土が落ちくぼんでいる箇所がある。近づいてみれば、土の下にあったものを取り除いたことによる陥没のようだ。一松の背中がぞわりと泡立った。彼は柔らかくなった土を雑に足で払いのける。

「僕の自意識がなくなってる」

息を飲む。その穴に埋まっているはずのものを、彼は知っていた。

以前、彼は彼の自意識をこの公園に埋めた。赤子ほどのそれを手元に置いて持ち運ぶには大きすぎたし、何より醜くて扱いにくかった。どぶを煮詰めたような色をした、いびつな毛むくじゃらの自意識。兄弟に見せたくもなかったので、彼はこの公園にそれを埋めたのだった。

本来であれば、おびえて丸まった猫のような塊が土の下から出てくるはずだった。しかし、そこにはぽかんと、不安げな空間が残されているだけだ。

誰かがあの塊をどこかへもっていってしまったのか。はたまた自意識自身に手足が生え、自らどこかにいってしまったのか。どちらも考えにくかった。

一松は真っ先に公園のゴミ箱をのぞいた。何かの手違いで掘り起されたのであれば、ゴミとして捨てられているだろうと思ったためだ。しかし、ゴミ箱の中には、エナジードリンクと弁当のからしか入っておらず、わびしいサラリーマンの背中を彷彿とさせただけだった。

その後公園の遊具や茂みの中を一通り見たが、一松の自意識はどこにもなかった。しかし、目につかない場所にしまってしまいたい一心から、埋めた自意識。今更どこに消えてしまおうが、正直願ったりかなったりだ。

また、自意識の捜索を断念した理由はほかにもあった。すっかり日が沈んで暗くなった公園で成人男性が一人、あれこれやっていたら通報されかねない。なまえが自宅に帰っている時間でもある。一松は、このまま未来永劫自意識を人生から追放すると決め、汚れた膝をはたいて立ち上がった。


一松は外から部屋の電気が着いているのを確認すると、マンションの呼び鈴を鳴らす。彼自身なんだかストーカーのようだと思っていたが、蔑まされ続けて来た一松が今更世間体を気にするはずもなかった。

よそ向きの半音高い声がインターホンから聞こえてくると、決まって一松は「イチマツいますか?」と訪ねた。最初のほうは自分の名前を読んでいるようでこそばゆかったが、今では随分慣れたものだ。すると彼女がクスリと笑う息遣いと「待っててね、おそ松くん」という返事をされる。

一松はその度に心臓のささくれを剥かれる思いをするのだが、理由はよくわからなかった。最初に自分の名前をおそ松と偽ってからそのままだ。訂正するタイミングが見当たらなかった。

初対面の時は、つながりができるとは露ほどにも思っていなかったので、彼は軽率に嘘をついた。予想外にもある種の絆ができ、偽りの名前に罪悪感を持たなかったわけではない。

しかし彼らは、普段から都合よく自分の名前を偽っていたし、それは日常的な処世術にも値する。そのせいで、事がややこしくなる場合もあれば、美味しい思いもした。兄弟がとばっちりで傷つくこともあったが、その分自分も傷つけられているのでとんとんだ。つまり、自分と兄弟の名前の境界線は、夕暮れ時の夜との境目以上に酷く曖昧だった。

「おそ松くん元気ない? 大丈夫?」
「ないよ、僕が元気な時なんてほとんどない」
「じゃあ通常運転だ安心安心」

それがどういうことか、「おそ松くん」となまえが彼を呼ぶたび、苛立ちまるで傷ついたように心が揺らぐ。彼は名前への執着を感じ、自分自身が薄気味悪く思えた。しかし、なまえがイチマツを抱き上げ「今日も僕と遊んでね!」と猫の手を振るの見て、ひとまず考えるのを辞めるのだった。

「一体うちをなんだと思ってるのかなー?」

なまえはライトグレーの二人掛けソファにゆったり腰かけ、独り言のようにポツリと呟いた。一松が訪れるようになってから、毛足の長いチャコールブラウンの丸いカーペットは、一松とイチマツのプレイスペースになっている。今回イチマツへのお土産として、彼は新しいおもちゃを買い、そして猫以上に遊ばせることに夢中になっていた。

訪問早々、挨拶も漫ろに嬉々としてイチマツに一直線だった一松は、おずおずとなまえの顔色を窺う。しかし、予想に反して彼女はほとんど白に近いミルクコーヒーが入ったマグカップに口をつけながら、微笑んでいた。マイナス思考の一松でさえ、彼女が怒っている訳ではないことは、邪推せず受け止めることができるくらいに。

一松はほっとすると同時に、滅多にありつけない愛情のかけらのようなものを感じて顔が熱くなった。思わず視線をそらすと、誤魔化すように不敵に笑った。

「猫カフェ。猫缶一缶で猫触り放題、食事付き」

なまえには一松の動揺が伝わらなかったのか、悪びれない態度に困ったように笑う。

「おそ松くんあんまりだよ」

そう、一松では無い誰かの名前を呼びながら。一松は下水を飲み込んでしまったような、吐き気を誘う不快感が口の中に広がる。黒く粘ついた感情の膜に体が覆われる心地がして、先程より熱心におもちゃを振った。靄のように消えてなくなることを期待して。

――誰だよ、おそ松って。

全ては一松のくだらない嘘が招いたことだ。今更でも訂正したいという気持ちと、名前に無頓着でありたいという葛藤。名前に囚われていると肯定したくなかった。一松のねじ曲がってあらぬ方向を向いたプライドが、それを許さなかったのだ。
僕は皆で、僕達は僕。六つ子と自分を切り離して、松野一松という一人の男でありたいと願うことは、禁忌のようにさえ感じていた。何方かといえば、それこそ、今更なのだ。一松がなまえに会う前から。

一松はカーペットの上にごろりと横たわると、おもちゃにじゃれつくイチマツを眺める。熱心におもちゃを与え続けた甲斐あって、興奮したイチマツは、一松の手から離れたおもちゃに、飛びつきじゃれあっていた。

熱心にじゃれつくイチマツに幾分かさみしさを感じ、一松は手を伸ばす。あの柔らな体に触れたら、どうでもよくなる。けれど、イチマツはそんな気分ではないとばかりに、彼の手をするりとかわした。

イチマツはなまえの方にピクリと耳を動かし、おもちゃも程々に走って行く。そしてなまえの膝にぴょんと飛び乗り、毛繕いをはじめた。宙をかいた一松の手に握られたのは、相手のいなくなったガラクタだ。

「イチマツー? どうしたの飽きちゃったの?」

一松は名前に反応するように首をもたげたが、すぐに自分のものではないことを思い出し、ベタっと床に頭を戻す。彼の唯一のアイデンティティとも言える名前は、彼女の猫に盗られてしまっている。それがますます彼の気持ちを暗くした。

本当の自分の名前を告げたところで、イチマツが一人と一匹になるだけ。しかも、片方のイチマツはやたら愛らしい。一松として彼女の中に確立できる可能性は、残されていない。彼はそう思いを巡らすと、手に持ったおもちゃをポイと放り投げる。

「おそ松くんも飽きちゃったのかな?」

なまえは呆れるようでいて、それでも居心地の良い視線を"おそ松"に向けたのだった。


――だから、誰なんだよ。僕は。



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