午前零時の逃避行




幼馴染夢主
両片思い
ツーリング

 終わらない仕事、使えない先輩。「やっと華金だ〜」と言って消える同僚と、現場の事を何一つ考えてなくて自分の立場を守ることしか頭にない上司。最低ラインまで仕事を終わらせ最低な気分で会社をあとにすれば、すれ違い様にオジサンがぶつかってきた。いつもなら文句の一つや二つ吐き捨てるけれど、今日はもうそんな気力もない。
 あぁ、もう限界だ。どこでもいい、ここじゃないどこかへ消えてしまいたい。

 本当は週の半ばに頑張る自分へご褒美、なんて少しいいお酒を買っていたけれど飲む気になれなくて、やっとの思いで辿り着いたワンルームにへたりこんだ。こんな時、彼氏でもいたらもう少し気持が楽になるのかな、なんて無い物ねだりをすると同時にふと一人の顔が思い浮かぶ。それからの行動は早くて、半分無意識でカバンの中からケータイを取り出していた。

 時刻は二十三時半頃。シンと静まり返った空間で電話のコール音だけが耳に響いていた。どこかに消えてしまいたいなら、どこかへ連れてってくれそうな人を、なんて縋る思いで幼馴染みにかけた電話は繋がらなくて。こんなにも急な電話だから出なくて当たり前だよな、何やってんだろう自分、といった申し訳なさと恥ずかしさでジワジワ心臓が押し潰されそうになった時、静寂を切り裂くかのような着信音がワンルームいっぱいに鳴り響いた。

「すぐ出られなくてわりーな」
 
 声の主はさっき電話をかけた相手、洋平で。いつものメンツで集まっているのか、高宮くんたちの声が遠くで聞こえる。せっかく皆んなで集まっていたのにそんなタイミングで申し訳ないことをしてしまったようで、だんだん気が引けてきた。
 
「あー……大したことないから大丈夫。夜分にごめんね」
「何も無いのに電話するようなタイプじゃねーだろ?」

 電話ひとつで私のことを見抜く洋平は流石というか何というか。ただ何となくどこか遠くへ連れ去ってほしいとかいう曖昧なことを話せるワケもなく、言葉を濁し殻を纏う私を「ほら、どうした?」なんて全てを溶かすような声で掬い上げる。
 
「……なんかもう全部嫌になっちゃった」
「なるほどな。ワリィ、ちょっと待ってろ」

 プツリと切れた電話によって再び静寂が訪れた。さっきまで冷え切っていたはずの体が、洋平の声を聴きとった耳を中心にジワジワ熱が広がっていく。ただ、あの一瞬で溶かされた殻はひと掬いされただけで、ポタポタと零れたところからまた殻を創り始めていた。
 ちょっとってどれくらいだろう。待った先には何があるのだろうか。せっかく集まっていたところに水を差すようなことをしてしまったんじゃないか。グルグルと思考がかき混ぜられて更には日中の疲労が体を蝕み、再び携帯が鳴るまで動くことは出来なくて。着信があったのは多分、零時になろうとする頃だった。

「外、出てこれるか?」
「出れるけど……なんで……?」
「いいから来いよ、荷物はなくてもいいぜ」

 帰宅してそのままの格好だから着替える必要はないし行こうと思えばすぐにでも外には出られる。それにこっちの話も聞かず電話を切られてしまっては「来いよ」という言葉に従うしかない。最後の気力を振り絞って上着のポケットに財布と鍵を突っ込んで携帯を片手にエントランスへと向かった。

「おー、来たか」
「な、んでいるの、よーへー……さっきまで高宮くんたちといたんじゃ……」
「ちょうど解散するとこだったんだよ」

 ウソかホントか分からない、というよりも真偽を悟らせないこの男は本当に私と同い年なのだろうか。吸っていた煙草を地面に擦り付け火を消すと、呆然と立ち尽くす私に向かってヘルメットを投げてきた。
 
「何もかも嫌になっちまったお嬢さん、オレと一緒にどっか遠くにでも逃げねーか」
「……ッ!」

 欲しい時に欲しい言葉を与えてくれるのは昔からそうだ。いつだって私から溶けだした一を掬って十以上のものを的確に与えてくれる。そんな欲しかったものを差し出されたら断る理由などなくて、返事をする代わりにキャッチしたヘルメットを被り、洋平の後ろに跨った。
 
「今なら何話したっていいぜ、走ってる間なら何も聞こえねーから」

 だからあんま抱え込みすぎんな、そう言ってアクセルを踏む洋平の背中にしがみついて私たちの逃避行が始まった。
 職場のいざこざや人間関係にツイてない今日の帰り道。ポツリ、ポツリと溶け出した言葉とともに涙が零れる。呟く程度の声量は確かに風を切る音で殆ど掻き消されているかもしれないけれど、この前乗せてもらった時に彼の声は聞こえていたから全く聞こえないってのは嘘なんだろう。そうだと分かっていても洋平の優しさで溶けだしたモノは留まることを知らず、繁華街や海辺など洋平が駆け抜けた先々に零れ落ちていった。

 一頻り言葉と涙を零しきったことで落ち着を取り戻し、吸い込んだ夜風の冷たさにふるりと体の奥底が震える。縋り付くように目の前の背中をより一層力を込めてぎゅっと握ると、それに気がついた洋平はスピードを落としてバイクを停めた。

「落ち着いたか?」
「うん、だいぶ。付き合ってくれてありがとう」

 ヘルメットを外し少し体をこちらに向けて座り直した洋平は涙の跡を擦るように私の頬をひと撫でしたあと、ポケットから煙草を取り出した。吐き出される紫煙はこちらに来ることなく、私とは逆の方向へと流れていく。私もヘルメットを脱いでボーッとその様子を「煙草が似合う男だな」なんて呑気に眺めていると、煙を吐くために後ろを向いた彼の姿、もとい彼の濡れた背中が街灯の下で瞬くのが目に入った。
 
「ごめんね、洋平の服汚しちゃった」
「帰る間紗梨が隠してくれるならそれでいいぜ」

 他でもなく自分が汚してしまったそれに何とも言えない罪悪感が襲ったけれど、「帰る間」という言葉にピクリと反応してしまう。当たり前だけどこれからあのワンルームにまた帰れないといけないのか。そうしたらまた一人になってしまうのか。散々連れ回してもらった上にまだ帰宅してもいないのに、逃げ出したい気持ちだけがまたフツフツと湧いてくる。どうにかしてこの感情を隠したくて地面と視線を合わせていたら、あの全てを溶かすような声が降ってきた。

「どうかしたか?」
「あー……」
「んだよ、まだ帰りたくねーって?」
「うっ……ゴメン、やっぱり大丈夫……」
「ったく、我慢する方が身体に毒だぜ。まー時間も時間だしそこ向かうか」

 煙草を挟んだ指が差す方を見ると、ありきたりなビジネスホテルの看板が照らされている。「あー」とか「でも、」と口籠る私に「答えは決まってんだろ」と洋平は呆れた声を落とすけれど。それでも私にヘルメットを被せる手は柔らかく、見上げた顔はどこか慈しみを含むようで、まいったような表情をしていた。

「洋平って優しいよね」

 たかが幼馴染に、なんて思わず零れた言葉に振り返ることなく自分もヘルメットを被り「動くぞ」と一言零した洋平は、慌てて彼の背中を掴んだ私の手をノールックで掴み自分のお腹の方へと攫っていった。突然のことに驚きを隠せず、手を離そうとしてもアクセルを踏んだ勢いで揺れる車体にそのまま洋平に抱きつくしかなく、まるで恋人同士のような格好のまま私たちの逃避行が再開する。走り出すと同時に一瞬見えたミラーに映った洋平は困ったような顔をして口を動かしていたけれど、風に攫われたその言葉が私の耳に届くことはなかった。

(オレが優しいのは紗梨だからなんだけどな)








おはなし