狂犬よりも番犬でいさせて




同い年夢主
片思い
喧嘩を見ちゃう

 遊びとバイト漬けにも慣れてきた、暑さが顔を出しジメジメと梅雨の匂いが漂う頃。単調な学校生活が退屈だと気がついて窓外を眺め、なんか面白いことないかなぁと思っていた時だった。

「紗梨ちゃん!」

 フワッと空気が軽くなるような声に誘われて振り向いた先、そこに居たのは最近席替えで近くなった晴子ちゃん。あのね、と話し出す彼女はいそいそと手帳を広げて六月十三日を指差した。
 
「この日のインターハイ県予選、よかったら一緒に行かない?」
「……何で私?」

 そんな気軽に誘うにはまだ早いのでは?と思うくらいに、よく話すようになったのは最近のはずだけれど。私が知る中でも、人との距離感の詰め方が早い晴子ちゃんからしたら当たり前の感覚なのかな、と思えば納得するようなしないような。勝手に一人でうんうんしていると思わぬ角度で答えが返ってきた。
 
「私のお兄ちゃんが出るんだけど、今年は凄いの!」
「な、なるほど……?」

 なぜ私なのか、理由になっていない気がするけれど「応援って少しでも人が多いと楽しいと思うの!」なんて瞳をキラキラさせながら身を乗り出して話す晴子ちゃんが眩しくて。「バスケットって面白い?」と無意識に問いかけた私は来週のスケジュールを思い返す。「とっても面白いわ!」と私の手を両手で包んだ晴子ちゃんに惹き込まれて、予約していた美容院は前倒しすることに決めた。



 指定された時間通の十分前、待ち合わせ場所に向かうと松井ちゃんと藤井ちゃんが先に待っていた。……この距離ならまだ向こうは気が付かないだろう。晴子ちゃんを通して知り合ったこの二人とは、まだあまり話したことがないから正直言って気まずい。このまま合流した所で、果たして三人だけの空間の間が持つのか。そんな疑問が足をその場に留め、迷うこと数分。流石にそろそろ合流しないと集合時間を過ぎてしまうなぁ。なんて思って足を進めると、行き交う人々の隙間からパタパタと走ってきた晴子ちゃんが見えた。人波に掻き消されたあと次に晴子ちゃんを認識した時にはもう先に来ていた二人と合流していて、何故かホッとした気持ちになり私も駆け出した。

「紗梨ちゃん!」

 いち早く私に気がついた晴子ちゃんは、こっちこっちと大きく手を振っている。目立つから恥ずかしい気持ちと、歓迎されてる嬉しさとの狭間でムズムズするけれど、悪い気はしなくって。さっきまで感じていた気まずさなんて消え去り、駆け出した足はそのまま三人の元へと急いだ。

 集合場所から歩いて十分くらい。辿り着いた会場にはチラホラ人が集まっていた。勝手に観客の殆どが高校生とか選手の家族ばかりだと思っていたけれど実際のところ案外そうでもなくて。今日の初戦、湘北高校の試合まであと一時間もあるこの時間帯は、よく分からないオジサンが多かった。

「……なんか色んな人がいるんだね」
「高校バスケットも人気があるのよう!」

 一際嬉しそうにニコニコと話す晴子ちゃんは本当にバスケが大好きなんだと伝わってくる。
 晴子ちゃんの軽い足取りにつられて私までふわふわした気持ちで歩くと会場まで一瞬で。屋内に入ってからキョロキョロしてばかりの私は気がつくと湘北ベンチに近い座席へと辿り着いていた。

 コートの中もそうだけれど、ここに来るまですれ違ってきた人たちは気のせいじゃなくて、とにかくデカい。コートを動き回る選手に圧倒されて「同じ高校生とは思えない……」なんて言葉が思わず零れ落ちた。そんな私を見て無言で瞬きをするハルコちゃんと藤井ちゃんと松井ちゃんに、変なこと言ったかもと不安になったのも一瞬。フハッと笑った三人は「その気持ちよくわかるわ!」「久々の新鮮なリアクションね!」「そのうち慣れるわよ」と次々口を開いた。
 せっかくだから、なんて言葉から始まった晴子ちゃんによる湘北メンバーの紹介はわかりやすくて面白くて。何も知らないままより、一層楽しむことができそうだなんて思えてくる。

「それでね、流川くんっていうのが――」
「おっ、ハルコちゃん。今日はヤケに早いな」

 一人一人選手の紹介をてくれていた途中。左隣に落ちた影から聞こえた声の方を向くとそこには黒髪リーゼントを筆頭にした不良男子が四人。――いや、色んな人が来すぎでしょ。
 なるべく目を合わせないように、巻き込まれないように。なんて思った私はロクに相手の顔も見ず、先頭の黒髪リーゼントが「ハルコちゃん」と呼んだことも忘れて振り向いた顔を勢いよくコートに戻した。何で、何でこんなとこに不良がいるの?ていうか晴子ちゃんたちは何でそんなにも普通でいられるの。頭の中が様々な「何で」で埋め尽くされそうになった時。フワッと空気が軽くなるようなその声で、晴子ちゃんは「水戸くん!」と言葉を紡ぎ立ち上がった。
 
「そうなの!紗梨ちゃんが来てくれるっていうから張り切っちゃって」
「なるほど、そーいうことか」

 不良少年たちと気軽に挨拶を交わす晴子ちゃんを見上げ驚いていると、彼らは当たり前のように隣の空席へと腰を掛けていく気配がした。再び席に着く晴子ちゃんに「もしかして知り合い?」とボソボソと聞けば「モチロン!」と良い笑顔で返ってくるもんだから恐る恐る左隣へと視線を移してみる。

「おー、キミが例の」
「よかったなハルコちゃん応援が増えて!」
「もー嬉しくって!」
「やっぱ人数多い方が楽しいもんなぁ」

 私を挟んで会話を続ける晴子ちゃんは楽しそうで嬉しそうで。口を挟むのはどうかと思ったけれど、どうしても気になってしまうことが一つ。
 
「例のって……?」
「ハルコちゃんが練習の時にもう一人来てくれるって話してたんだよ」
「な、なるほど……」
「あ、オレは水戸。んでこっちが高宮、大楠、野間」

 答え合わせをしてくれたのは晴子ちゃんではなく、隣の黒髪リーゼントの人。よく顔を見るとこの人たち、見たことあるような。それになんかカッコつけてる風だけど水戸って、もしかして。

「水戸ってあの和光中の不良の元締めっていう……?」
「ヤダ紗梨ちゃん!水戸くんたちは優しいのよう!」

 必死に否定する晴子ちゃんの話は、今の状況じゃなきゃ信じられなかっただろう。私の言葉を聞いて「オレたち不良の元締めって言われてんのかよ!」なんてお腹を抱えたり若干涙目になったりしながら爆笑している人たちが、噂に聞く不良とはどうにも結び付かなくって。何より湘北と叫び、桜木君への応援なのか野次なのかよく分からない声を上げ、新品のペットボトル飲料を一気に飲み干し、先輩のことをミッチーとあだ名で呼んでは、いけいけとチームを応援する様は私たちと何ら変わりない普通の高校生だった。
 
 まんまとバスケットの魅力に取り込まれた私は、晴子ちゃん達と共にバスケ部の見学に足を運ぶようになって。前よりも格段に松井ちゃんとも藤井ちゃんとも仲良くなったけれど、一番の変化はやっぱり桜木軍団との繋がりだろう。思ったよりも人当たりが良かったこともあって、あの日以来完全に打ち解けていた。廊下ですれ違えば挨拶するし、バスケ部の見学で一緒になれば必ず喋る。
 中でも水戸くんとはバイト先が近いこともあって話す機会が多かった。同じような時間にシフトが被っていたら一緒にバイト先へ向かったし、ごく稀にバイト終わり一緒に帰るなんてことも。どれだけ遠慮しても「こんな時間に女の子一人で歩かせるワケにはいかねーだろ」なんて言って聞かなくて。そんな時は家の近く、水戸くんとの別れ道から五分くらい進んだところまではお言葉に甘えることにしていた。
 私たちの会話のほとんどはバスケ部の話題が占めている。お互いのことは話してもせいぜいバイトでの出来事くらい。そんな少しの情報と時間の積み重ねの中、触れる水戸くんの優しさに。友達思いなその心に。大人びて見えた次の瞬間見せる年相応な表情に。自分でも気がつかないくらい自然と惹き込まれて戻れない所までいくのに、そう時間が掛からなかったような。



 最近通い始めた塾の帰り道。ブブ、とスマホが震え[新着メッセージがあります]という通知とともに、二十二時十八分という文字が映し出された。
 
 どうしても解らない課題を教えてもらっているうちに、いつもより少し帰りが遅くなってしまって。「気をつけて帰るんだよ」という先生の言葉には適当に返事をした。そして、鞄からスマホを取り出し、外に続く扉を開け[今から帰るね]と家族へ連絡を入れる。夏はすぐそばまで来ているけれど、夜風が木々を揺らすこの時間帯は昼間よりも涼しくてちょっとした散歩には丁度いい。途中寄り道をしてバイト先の近くを通ったら、もしかすると水戸くんに会えるかも。なんてちょっとした期待を胸に歩き出した。

 どれだけ歩いてもすれ違うのはリーマンばかりで。お互いのバイト先も過ぎた頃、やっぱりそんな都合のいい話なんて無いんだと期待した自分に恥ずかしさが込み上げてきた。勝手にドキドキしたせいで喉は乾涸びかけている。すぐそこの公園に自販機があったはず。そこまで我慢するか。そう思って近づいた公園からは、この時間にしては珍しく人の声が聞こえてきて。まぁ、私には関係ないし取り敢えず飲むもの買っちゃお。なんて足を踏み入れようとした視線の先に見たことのあるシャツ姿の黒髪リーゼント。
 
「あ、水戸くん」

 思わず声をかけた先にいたのは、確かに水戸くんだったけれど。いつもとは違う雰囲気を纏った、死屍累々に君臨する見慣れたはずの見慣れない男の子。私の知っている、さっきまで会いたかった人と同一人物とは思えないくらい、一瞬見えた双眸は背筋が凍るくらいに鋭くて。あぁ、ここに倒れている人たちは水戸くんが。なんてストンと現状が理解できた瞬間、私の腰は抜けてその場にへたり込んでしまった。心臓がバクバクと五月蝿くなってて喉がカラカラになった理由が、さっきとは違うというのは明らかだ。
 ヘニャヘニャになった私を認識したであろう瞳は幾分か柔らかくなっていて、右手で締め上げていた水戸くんよりひと回りほど大きな人をドサリと落としてこちらへ駆け寄ってきた。

「紗梨ちゃん、大丈夫?」
「へっ、えっ、あ、ダイジョウブ、デス……」
「動けそう?」

 さっきまでの水戸くんの顔が思い出せないくらい、いつも通りのちょっと人の良さそうな顔をして、ひたすらに私を気遣ってくれて。会いたかった水戸くんを目の前に緊張と喉の渇きで上手く言葉が紡げない。
 ただ、安心したのも束の間。そうこう話しているうちにも倒れていたはずの一人がゾンビのように立ち上がり「オイ!狂犬ゴラァ!!」と叫び、覚束ない足で水戸くんの背後をとろうとしている。
 大丈夫なんてさっきは言ったけれど、立ち上がろうにも体は言うことを聞かない。「ダメかも」と言って私が頭を振ると同時に、後ろから襲いかかってきた人を一瞥した水戸くんは男の鳩尾に肘を入れた。「ぐぇっ」という到底聞くことのないような人間の声に思わず顔が引き攣ってしまう。

「あー……ごめん、ちょっと待ってられっか?」

 そう言ってへにゃりと眉を下げた彼は羽織っていたシャツを私の頭に被せた。視界を奪われた私は言われるがままその場で蹲ることしかできなくって。ポンッと頭に手が置かれた感覚にビクリと反応してしまったけれど「怖かったら耳塞いでな」なんて怖さとはかけ離れた柔らかい声に従って、必死に手を両耳のもとへ動かし目の前の世界をシャットアウトした。確かに水戸くんには会えたけれど、変に散歩とかしなければよかったのかな。そう働かない頭で唯一生産された思考を最後に。そこから先の記憶は曖昧だった。



 シャツの下に着込んでいたタンクトップ姿になったことで晒された腕を風が撫でる。
 ドサリ、と人間が這い蹲る音で終わればよかった。紗梨ちゃんもいることだし、ぐずぐずしてらんねーな。なんて考えながら背後を振り返って現状を確認する。五人のうち二人はくたばってるけれど、詰めが甘かった残りの三人がのそのそと立ち上がった。

「和光中の狂犬くんヨォ、随分と余裕そうじゃねェか」
「そういうアンタらは随分フラフラっすけど」

 真ん中に位置する男は近場にあったバットを支えにこちらへ噛み付いてくる。誰が言い始めたか知らねーけど、和光中の狂犬なんて名前で呼ばれるのはあんま好きじゃねぇ。不必要な争いだって好んじゃねーのに、この名前が一人歩きするせいで吹っかけられる喧嘩は両手じゃ数えきれない。
 
「オレ、和光中の狂犬じゃなくて水戸って名前があるんだよね」
「あぁ?それが何だってんだよ!」
「いつの恨みか知らねーけどオレあんま喧嘩とかしたくないんスよ」
「だから今日はもう辞めてくださいってか?笑わせんな」
「俺らはそこの女に手出したっていいんだぞ」

 ふいに視線をオレから外した男が、そんなセリフを吐きながらユラユラと紗梨ちゃんに近付いていく。

「その子は関係ねぇだろーが」
「狂犬の知り合いなら関係あるだろうが」
「……一瞬でカタつけてやんよ」

 オレに声なんてかけなければ巻き込まれることはなかっただろうに。つーか何で声なんてかけてきたんだ。明らかにヤバイ状況だって分かんなかったのだろうか。
 ……それにしても面倒くせぇ。一対一ならまだしも、ゾンビのように地面から蘇ってる上に武器まで持ってるのは正直ダルい。バットなんて公園に忘れてくんじゃねーよ。そう文句を垂れたって持ち主はココにいねぇし結局はどうしようもない。後ろに感じる小さな塊にひとつ小さな溜息を零し、ワザワザ襲いかかってくる男達を順番をブチのめしてやる。
 元々一発ずつ喰らっていたこともあってか、人数の割には終わりは案外アッサリしたものだった。最初に殴った時よりも力をこめて拳を打つけるだけで倒れるヤツ。さっきと同じところを執拗く攻撃すれば蹲るヤツ。一人取り残されて、息巻いて逃げるヤツ。この程度なら最初から喧嘩なんて売ってくんじゃねーよ。なんて思うけどそんなヤツだったら不良になっちゃねーか、とズボンのポケットから煙草とライターを取り出し一服する。
  
 さて、これからどうするか。昂っていた感情が徐々に落ち着き思考がクリアになっていく。初めは警戒心の塊みたいな子だったのに、こんな状況でも声をかけてくれる程に仲良くなったのか。
 未だオレの言った通り蹲って視界を塞ぐ彼女は、バスケを通してしか関わりのない子。他人と言っちゃそれまでの人間なんて正直どうでもいいと思っていたけれど。

「できればこんなトコ見せたくなかったし、これキッカケで避けられるのは御免だな……」

 ぽつり、誰に聞かせるでもなく無意識に零れ落ちた言葉にハッとする。
 なんかこれ、まるでオレが紗梨ちゃんのことを好きみたいな。いや、まだそうとも決まったワケじゃねーし。これが紗梨ちゃんじゃなく、ハルコちゃんだって同じこと思うだろ。
 ――本当にそうだろうか。初めから何の壁もなく接してきたハルコちゃんなら、オレが喧嘩しているところを目撃したって何も変わらないだろう。実際、ミッチー達がバスケ部襲撃事件を起こした時だってそうだったし。ただ、もし避けられるようなことがあっても花道の好きな子に悪い印象持たれたくねーよなって思うくらいで。別に、同じクラスの誰かに避けられたって、喧嘩してるところを見られたって何にも思わないクセに。バスケを通して知り合った紗梨ちゃんにはオレのキレイなとこだけ知っていてほしいだなんて。

「うわー……まじか」
 
 気がつきたくなかったような、気がついてよかったような。上手く処理しきれない感情を吐き出すかのように紫煙を吐き出し、崩れかけたリーゼントを撫でつけた。
 チカチカ点滅する街灯が目下の女の子の存在を主張してくる。
 
「紗梨ちゃん、大丈夫?」

 とりあえず、とタバコを揉み消し声を掛けてみるも置物状態の彼女からは何も反応がない。そういえば耳塞いどけってオレが言ったんだっけか。同じ目線になるよう屈みこんで頭を覆っていたシャツを捲ると、モゾモゾと両手を動かし彼女は塞いでいた耳を解放した。

「……みとくん?」
「おー、終わったぜ。大丈夫?」

 揺らめきながら徐々に焦点の合う視線が絡まってこちらの姿を認識すると、勢いよく貸していたシャツを押しつけられた。

「シャ、シャツありがとう!」

 必死にこちらを見ないように背ける顔を、点滅していた街灯がタイミング良く照らす。夜の闇に溶けていた紗梨ちゃんの顔はどことなく赤く染まっていて。「どういたしまして」なんて無難な言葉を零した直後、今の自分がタンクトップ一枚だということに気がついた。……なるほど、マジか。これくらいで。軍団の奴らとは違うんだし、もうちょい気にしてあげた方が良かったか。受け取ったシャツに腕を通しながらそんなことを考えていたら、紗梨ちゃんはチラチラとこちらを伺うかのように視線をよこし、おずおずと口を開いた。
 
「水戸くんは狂犬なの?」
「ン゛っ」

 紗梨ちゃんの口から発されるとは思いもしない単語に思わず変な声が出る。聞いてたのか。というか覚えていたのか。気に入ってる訳でも無い、勝手につけられた二つ名。オレとしては忘れてほしくて。

「まあ、何つーか、そう呼ぶ奴らもいるけど……いや、あんな奴らの言うことなんて気にしなくていいよ」
「そっか……?」

 気になります、と顔に書いたままだったけれど無理矢理納得させて「家まで送ってくよ」と強制的に話題を断ち切ることにした。

「ええ!大丈夫、一人で帰れるよ」
「こんな時間に女の子一人で帰らせるワケにはいかねーって」
「でも……」
「オレがしたいからそうさせてくんねぇ?」
「うっ……」

 いつものバイト終わりならすんなり送らせてくれるってのに、家までなんて言ってしまったからだろうか。言葉を詰まらせ「本当に一人でも大丈夫だよ」とか「家すぐそこだから」と何とか断ろうとしてくるけれど、オレだってここは譲れない。「もう少し一緒に居たいんだけど」なんて言ったらどんな反応するだろうか。なんて気になったものの、その言葉は飲み込んでダメ押しのように「な、お願い」と顔を覗き込んで伺えば「じゃあお願いしようかな……」と頷いてくれた。少し強引すぎたかと思ったけれど、立ち上がって「私の家、あっちの方」と指差した紗梨ちゃんの顔はやっぱりまだ少し赤くて。これ、もしかしていい感じなんじゃねーの。と柄にもなくニヤそうになった顔をペチンと軽く叩いて何回目かの「マジか」が零れた。




「遅かったじゃない、どうしたの」
「あー……ちょっと、課題の解らないとこ聞いてたらこんな時間に」
「そうなの……?」

 玄関先で娘と会話しながらも、チラチラとこちらを窺う母親の視線は隠しきれていなくて。拳の傷を隠すように体の後ろで腕を組み、軽く会釈をする。

「同じ学校に通う水戸といいます。こんな時間に一人で歩く紗梨さんとたまたま会ったんで送り届けに」
「まぁ」
「お節介かと思ったんスけどあの辺治安悪いとこもあるんで」

 さっきまで殴り合いの喧嘩をしていた張本人が治安の悪い場所だなんてよく言うぜ、なんて脳内のもう一人の自分が呟く。それでもオレの言葉に精一杯頷く紗梨ちゃんを見て、ソイツの言うことなんて聞かなかったことにした。「水戸君、わざわざ送ってくれたんだよ」なんて紗梨ちゃんの追い打ちもあってか、親御さんの少し硬かった表情はフッと力が抜けたよう紗梨ちゃんに似た柔らかな笑みへと変わっていって。

「水戸君、ありがとうね」

 普段浴びることの無い純粋な好意が小っ恥ずかしくてムズムズする。とはいえ親御さんの印象、まずはクリアか。なんて無意識にそう思った己にまた「うわー……まじか」と脳内の自分が呟く。最早この感覚に慣れ始めたもう一人のオレは「多分マジだぜ」と相槌を打ってやった。
 紗梨ちゃんを送り届けるという任務を達成したオレに、これ以上この場にいる理由はもうない。

「じゃあオレ帰るね」
「あっ、水戸くん」
「ん?」
「今日はありがとう。また明日」
「……おう」

 ヒラリ手を振って、紗梨ちゃん家の前をあとにする。……また明日か。喧嘩後特有の興奮とは違う高揚感が落ち着かない。明日が楽しみなんていつぶりだろうか。喧嘩した翌日はダルいし、適当に一限はフケてから登校しようと思っていたけれどちゃんと朝から行くとしよう。そく心に決めたオレは明日早起きするために寄り道することなく真っ直ぐ自宅アパートへ帰路についた。








おはなし