一年や二年で忘れられる恋ならばどれほど良かっただろう。自分から手放したはずの男を未だに引き摺る私が見ている光景は、幻覚でなければ現実のはずだがにわかに信じがたい。
「うっ、先輩」
「もー探したよ。こんなとこいたの」
「何で来たんスか…」
「迎えに来たんだってば。ほら、戻るよ」
二年と少し前、合宿を抜け出した沢北を連れ戻したのは私だった。バスケの練習がキツくて逃げ出したクセにバスケットボールを持ってズビズビ泣いていたあの頃とは真逆じゃないか。
「先輩、迎えに来ましたよ」
卒業式、袴を着た晴れ姿。一番見てほしかった人は本来ここには居ないはずなのに。存在し得ないルートが拓かれるのはやはり呪いなど彼には効かなかったのだろうか。
「さ、わきた」
「探したっすよ、ほんと進学先聞いておいてよかった」
「何で、なんでここにいるの……」
「迎えに来たって言ったじゃないっすか」
「いや言ったけど、そうじゃなくて」
「オレ、来年から向こうでプロになるんすよ」
「……そうなんだ、おめでとう」
「だから先輩。もうオレから離れないでください」
彼がアメリカに飛び立ったのは高校二年の夏、一年半前の話だ。当時付き合っていた沢北には私が一方的に別れを切り出した。専門学校に通い始めて半年、未だ何者でもない私と日に日に何者かに成っていく沢北。年下で末っ子気質なくせに何もかもが大きく見える沢北の隣に立ち続ける自信などなかった。山王高校バスケ部マネージャーでなければ関わらなかっただろう人間と国境を越えて離れ離れになっても付き合っていけるのか。そんな疑問で私の心は知らないうちに押しつぶされていたのだ。「環境が変われば、好きな人なんてすぐできるよ」そう自分に言い聞かせるように、あくまで盛大に泣く沢北を宥めて「私の事なんて忘れてね」なんて呪いを込めた言葉を放ったけれど「ぜってーいやだ」と私の腰に腕を巻き付けながら嘆く彼の目から溢れる涙は止まらなかった。
「……じゃあ沢北がプロになる頃、多分私は専門学校を卒業してるだろうしせめてその時まで待ってて」
「待てば何か変わるんすか」
「もしもね、もしも。その時まだ私の事が好きだったら迎えに来てよ。私もまだ沢北のことが好きだったら、覚悟決めるから」
あまりに泣き止まず、こんな時ばかりする年下らしい拗ねた顔には何度も負けてきて。例外なくこの時も丁寧に彼の将来のルートを一本増やしてしまったのだ。
正直そんなこと忘れていた。……いや、忘れてなんかいなかったけれど有り得ないものだと記憶の奥底に閉じ込めて封鎖したはずだった。沢北はもう私のことを過去のことにできているだろうな、なんて思うようにしていたあたりある意味呪いにかかっていたのは私の方だったのかもしれない。本当は沢北との関わりは全て絶とうと思っていたけれど、せめてこれだけはと言われ許していた殆ど一方的に送られてくる手紙を見る限り向こうでの暮らしに何不自由なさそうで、向こうの女の子とだって仲が良さそうでそう思うのも自然と言えば自然だった。
「あん時だってやっぱり別れたくなかったっす」
「……ごめんね」
「オレ、ちゃんと待ったし迎えに来たんですけど先輩はこの一年半どうだった?」
「……沢北こそどうだったのよ」
「バスケはすげー頑張ったよ。やっぱりアメリカはいいっすね、強いヤツらがゴロゴロいる」
「よかったじゃん。送ってくれた写真充実してそうだったもんね」
「でも、先輩よりいい女は一人もいなかった」
「……ッ!」
……本当に、この男は。試合中相手を見るかのような眼差しをこちらに向けて吐く言葉は迷いがない。
私だって、私だって。沢北のことはもう忘れようと付き合った人は何人かいた。それでもやけに子どもっぽくてワガママで年下全開で、それでいて急に男の顔して隣に立つカッコいい沢北が、バスケをしているアンタがまだ好きなんだと思い知らされるだけだった。
「……私だって沢北よりいい男はいなかった、よ」
「あー、もう!ほんと、そーゆーとこだってば!」
「な、何がよ」
「ねぇ先輩。前に何者かになりたいって言ってたじゃないっすか」
「……よく覚えてたね」
「先輩のことなら何でも覚えてますって。ねぇ、それ沢北栄治の嫁じゃダメっすか。立派な何者だと思うんだけど」
私の左手を取り、そっと薬指を撫でる姿はいつになく真剣だ。目に映る情景をきっかけに、まだ何も嵌められていない無垢なそこを中心としてどくりと全身が波打つ。それに一度捕まってしまった瞳から逃れることは出来なくて、もうずっと沢北から目が離せないでいる。
「先輩、一緒にアメリカ来てくれますよね」
質問しているようで決定事項を突きつけるような圧は私の覚悟すると言ったあの時の言葉を信じて微塵も疑っていないのだろう。そんな沢北に伝えたいことが喉に引っかかる。覚悟を決めると言った以上、本当は沢北が迎えに来た時点で答えは決まっているけれど、私にはすぐに頷けない理由があった。
「……あのね沢北。行きたい気持ちは山々なんだけど」
「……何か問題あるんすか」
「ごめん……本当に来ると思ってなくてこっちで就職しちゃった……」
「え!?!?先輩それマジで言ってます……?」
「滅茶苦茶大マジ……」
「マジかよ……ちなみに、何の会社っすか」
さっきまで試合中波に乗ってるときのようなカッコ良さが続いていたのに、途端に口を尖らせ涙目になった沢北が昔と何ら変わっていなくて漸く一息つくことが出来る。
迎えに来るはずないとタカを括っていた少し前の私は、慣れないスーツに身を纏って必死の思いで就活に励んでいた。小さい頃、大人になったら何になりたかったかなんて覚えていないけれど、大人になった今なりたいと思えたものを必死に掴み取ったのだ。
「スポーツ系の配信やってる企業、かな……バスケのこともっと広めたかったし、もしかしたら仕事で沢北のこと見れるかもって思って……」
「……ッ!!じゃあ先輩、今からその会社行きましょう」
「ハァっ!?なんでそうなるわけ!?」
こっちは袴姿だっていうのにお構い無しに私の手を引っ張ってズカズカ歩く沢北について行くのが精一杯で。これからまだ友達と写真だって撮りたいんだけど。そう思って後ろを振り返れば沢北との事情を殆ど知っている友達は盛大な笑顔で盛大に手を振っていた。
「ねぇ、沢北!待ってってば!」
「イヤです!オレと結婚してアメリカ行くから就職出来ませんってスグにでも言いに行くんです!」
「いや、そんな簡単に信じてもらえないって!」
「何で?オレが一緒に行くのに?」
本人がいるのに信じてもらえない訳ないじゃん、なんて盛大な我儘を押し通そうとする男の瞳は澄んでいて。立ち止まる私を他所に、早く早くと袴の袖を引っ張り続ける。
「沢北は何をそんなに焦ってんの……」
「チームメイトに嫁連れて来るまでアメリカ帰ってくんなって言われてるから」
「な、に話してんの向こうで!」
「だって先輩!」
突然立ち止まり振り返った沢北はより一層目に涙を浮かべ詰め寄ってくる。
「オレと別れたあと何人も彼氏いたって聞きました」
「何人もは流石に語弊が……」
そもそもどこから情報漏れてんの、なんて疑問は「バスケ部の情報網ナメないでください」と一言でバッサリと斬られた。
「先輩、ソイツらとどこまでしました?」
「なっ……どこまでって別にどうでもいいでしょそんなこと」
「全然よくねーっす、新しい彼氏出来たって聞く度日本に帰ってきて先輩のこと拐いたかったんすよ」
嫉妬で狂いそうだった、なんて零す顔があまりにも捨てられた仔犬のようで悪い事をしたわけでもないのに申し訳なさが湧いてくる。でも、あの手紙に添えられた写真のことが頭にチラついて、私のことを棚に上げてんじゃないかってキモチが今度は湧いてきて。
「沢北だって彼女の一人や二人いたでしょ」
「いなかったすよ、オレがどんな思いで今日を待ってたと思ってるんすか」
だからお願い、一緒にアメリカに来てくださいよと強請ってくる沢北が嘘をついてるようには見えない。モゴモゴと返す言葉を探っている私に痺れを切らしたのか「今答えられないなら全部あとで聞くから。覚悟しといてくださいね」なんてムッとした顔で言い、再び腕を引っ張って歩き出した沢北はこうなったら何を言っても聞かないだろう。こうなってしまえばもう、私は白旗をあげるしかなかった。
「あー、もう!わかったから!せめて一回着替えさせて!あと友達と写真も撮る!会社行くのも話すのもそれから!」
「……ッ!先輩!!!!」
パァっと顔が明るくなった沢北が掴んでいた私の腕を勢いよく引いたせいで、思いっきり彼の胸へとダイブする。人目を憚らずぎゅうぎゅうと抱きしめてくる沢北の胸元からは信じられないくらい大きな音が響いていた。
「……心臓の音すご」
「あんま聞かないでくださいよ……断られたらどうしようってメチャクチャ緊張したんだから」
「試合でも緊張しない沢北が?」
「そー、オレのことこんなに乱せるの先輩だけっすからね」
彼に回された腕が少し緩んだ隙に顔を上に向けると、同じようにこちらを見ていた沢北と視線が絡みあう。そのまま吸い寄せられるように彼の顔が近づいてきてそっと触れるだけのキスをされた。
あの日封鎖したはずの私の人生ルートは結局一箇所にしか集まらなかったのだからこの先どの道を選んだって沢北から離れることはできないんだろう。「一生オレから離れさせないっすよ」なんて解くつもりもない呪いに私はかけられてしまったのだ。