このひとのことはもうずっと好きだ。どうしてこんなひとが好きなんだろうなっていつも思っている。でも、やっぱり僕はこのひとがどうしようもなく好きだった。ただただ、僕はこのひとが好きなだけだった。



 律がね、あのひとのこと。好きなんだって。あのひとの、目深な黒髪と、窪んだ瞼の睫毛をたまに指で触る手癖が好きだって、律は言っていた。
あぁ、わかるよ律。凄く、よくわかる。
だって僕も好きだった。
あのひとの、ちょっと不幸そうな白檀みたいな気だるさは、同じ中学生の女の子なんかにはありえないものだろうから、仕方ないことだとは思う。だからわかる。

「兄さんも、あのひとのこと……好きなんでしょ」

 好き。すきだよ。あのひとのこと、すきだよ。あのひとが好き。でも、好きなだけなんだよ。それだけ。僕があのひとを好きだからって、別になんにもならないのに、僕はどうしてあのひとを好きでい続けているのだろうか。そうしている間に、僕も律も中学生になってしまったのに。


 あのひとが家に来た。たまたま近くを通りかかったから、とあのひとがケーキの入った紙袋をお母さんに手渡していた。
あ。あのケーキ、ツボミちゃんが友達と話してたあのケーキ屋さんのケーキだ。ショートケーキがおいしいって評判の――

「茂夫君」

 って、あのひとに一目と呼ばれるときは、僕は胸がいつもすっからからな気がしてなにかを詰めてやりたい気分になる。身長が前よりも伸びたねと言われたのは普通に嬉しかったけど、やはりこのひとはまた僕の知らない人間になった気がする。
お母さんが、もう少ししたら律が帰ってくるからそれまでお茶でも飲んで待っていてもらえないかとあのひとに言っていた。 律が会いたがっていた、という決まり文句はお母さんは律が中学生に上がってからはすっかり言わなくなっていた。例えば今、律じゃなくて僕がまだ家に帰っていなかったら、お母さんはなんと言ってあのひとを引き止めるだろうか。茂夫が会いたがっていたって、言うのかな。そんな、僕は全然。会いたいだなんて、思わないよ。もう中学生なんだから、それくらい。今日だって、たまたま部活がなくてそのまま家に帰ってきただけなんだ。
律は文化祭が近いからって、生徒会での準備が忙しくまだ帰っていない。
律、きっと驚くだろうなぁ。



「エモちゃん、また一つ綺麗になったな」

 そう思うだろ、と言いたいのか「なぁ?」なんて、お父さんが僕を肘でやいのやいのと小突きながら言ってくる。やめてよ、って言う僕の気持ちなんかわからないんだろうな。きっと面白いんだろう。でも、あのひとのことをまだ好きなうちは、お父さんみたいに「エモちゃん」なんて呼べないし、あのひとが大人になって、お父さんの言う綺麗に、あのひとがなっていくことを喜べないんだ、僕には。



 律が家に帰ってきた。おかえり、って言うとただいまって返してくれるいつもの律だった。律はやっぱりあのひとが家にいたことには驚いていたようだったけど、顔を合わせずに直ぐに自分の部屋へさっさと引っ込んでしまった。

「律、あのひとが来てるよ。会っていかないの?」
「うん。いい」

 律はあのひとが家に来たことには別に嬉しくもないようだった。僕は、別に嬉しいけど。何かあったのかな、って思ったけど、そっか、って言うだけに留めておいた。そしたら律もまたうん、となんともなしに言ったので、これで良かったのだと思う。
ちょっとは空気、読めたのかな。
少し感動した。

 あのひとはまだお母さんとお父さんとリビングで話しこんでいる。なんの話、してるんだろう。気にならないわけじゃないけど、聞いてもきっとつまらないだろうな。だって、恋人の話とか、されたって困る。
……恋人、いるのかな。



 あのひとはあれから何時間かして、僕の部屋に来てくれたりもしたけど、僕は僕で部屋ですることなんて勉強くらいしかないから、だんまり勉強机で宿題に励むしかなかった。丁寧にノックをして、ケーキとジュースを部屋へ運んできたあのひとが、僕のノートを伏し目がちに覗いてくるまではよかった。まだ手汗と小刻みな震えが出るだけだった。なのに、「頑張るんだね」と近い、と思う距離で、耳元を触られた声がしたからびっくりしてつい鉛筆の芯を折ってしまったのはいけないと思った。

「全然……そんなことない、です」

 上手く言えたかな、と少しだけ顔を上げる。このひとの顔をなんだか久し振りに見た。このひとも、恋人と手を繋いだり、……キスとかしちゃったりするのかな。
僕たちはまだ中学生で、大人の女の子なんてこのひとのことしか知らない。僕の人生は今このひとだけしかないのに、なんだかずるいなって思った。律がこのひとをそんなふうに呼び捨てる気持ちがなんとなくわかった気がして、ちょっと、落ち込んだ。
でも、このひととくれば、律とキスなんかしていた。

 そうだね律。僕たちはやっぱり兄弟なんだね。
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