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あぁ、これは夢なのだなと思う眠りが時にある。今がそれだ。夢のくせに自分の思考がハッキリとしている。でも、これが現実ではないんだと思い知らせる元凶が目の前で微笑んでいる。

『****、どうしたの?』

不思議そうにこちらを見上げてくる女性。あの時、最後に見たときと変わらぬあっけらかんとした表情を浮かべている。彼女に触れようと手を伸ばすが、体が動いてくれない。…夢の中じゃ体は自由じゃないってことね。諦め、夢の意のままに動く己の体から力を抜き、目の前の彼女を見つめる。

彼女を見たのは、いつが最後だったか。もう、遥か記憶の果てだ。今世より更に前、前世の最も過酷だった頃。


だって、彼女は宙心丸のために良守が作った神の領域の中で生きることを選んだのだから。

『****、***結界を***するのよ』
「……?」

彼女の言葉が時折ノイズを纏ったように聞きづらくなる。こてん、と今度は動いた首を傾げれば仕方のない子供をあやす時のように眉を下げ、小さく微笑んでいる。

『こんな事が続くから疲れてるのかしら?初歩的な**よ?昔神の領域に***る時も使ったわ。***結界を作らないと消されちゃうでしょう?』

神の領域に結界を?、なにをする?消されるって何が…?

急な彼女の登場にも驚いているのに、どうも夢の中の彼女は待ってくれないようだ。少しばかり考える時間をくれないものか。…いや、彼女待ってくれる性格ではないもんな。そこまで忠実に再現しなくてもいいんじゃないか?俺の夢。

『あらあら、呆けてる貴方なんて珍しい。神の領域に***時は、体を覆う***の結界を作るのよ』

さわりと、輪郭のはっきりしない手が頭に触れる。体を、覆う、結界を作る…?今日まさに先生に指摘され、考えていた結界だ。…そんなもの、前世であったっけ?

ううーん、と唸るように考えているとくすりと、目の前から小さく息が漏れた。ゆるりと口角を上げた彼女が目尻を細めている。

『本当、しばらく会わない間に…いいえ、人間の記憶は古いものから消去***いくもの。今回私がたまたま貴方に会えたのも何かの縁』

何かを悟ったように、滑らかに言葉を紡ぐ彼女。ノイズが消え、鮮明に聞こえるようになってきた。

神の領域に入る際は鎧となる結界を自身の周りに作らないと呑まれて消えてしまうと、…そういえばそうだった気がする。なにせ、昔の記憶すぎる上真界の形成が得意でなかったことも相余り、その案件に関しては俺の手を離れ墨村や雪村の正当後継者の面々へと引き継ぎがなされた筈だ。

『貴方の場合、絶界を習得してからはそちらばかりだったから…***は苦手だったみたいだし』

ふぅ、と頬に手を付きため息をつく姿に苦笑いが漏れる。いやいや、貴女と貴女の息子たちが異常すぎるだけですからね。赤い紅の乗った薄い唇が弧を描き、目の前の彼女は静かに印を結んだ。

空気が、ピンと緊張感を帯びる。

『貴方自身の体を主軸として"方囲"し、体の内側から力を放出する。…ね、簡単でしょ?』

…………いや、言うのは簡単だけれども。

一つ瞬きをした瞬間に空気が研ぎ澄まされる。赤い紅の唇が薄く開き、何かを呟く。瞬間彼女の周りを淡い光が全身を覆うように存在している。その淡く、優しい光に引き寄せられるように手が動く。

弾かれることなく、柔らかに触れたそれはどこかほんのりと温かみがある。

『****、難しく考えないでリラックスして。昔、今の貴方じゃなくて****だった頃には自然とできていたことよ。焦らなくても大丈夫、貴方なら思い出せるわ』

頬に触れた手にすり寄るとふふふ、と表情を緩める彼女に俺もふっと小さく息を吐き出した。夢であろうと、昔の俺を知る人物に会えたことが嬉しい。しかもタイミングを見計らったかのようなグッドタイミングで。そうか、焦りすぎる必要はないのか、とその言葉がストンと胸の中に落ちた。

『……あら、残念。この場もそろそろ持たなくなってきちゃったみたい』

虚空を見上げた瞳は心底残念そうに俺の顔へ視線を移す。この場、とは夢のことだろうか。

『貴方がそちらでも元気にしていることが解って嬉しかったわ。…なかなかに力を使うからもう会えることはないかもしれないけれど。どうか元気で、****。いえ、今はかなめというべきかしら。貴方に幸多からんことを心の底から祈ってるわ』

視界がぼんやりと霞がかかったように暗くなってゆく。最後の最後に、俺の今の名前を読んだ彼女は、印象的な唇を瞼に残して暗闇の中へと消えていった。










ふと、意識が浮上する。

うっすらと開いた瞳に映る景色は最近では見慣れた真新しい天井だ。むくりと起き上がり、ガリガリと項を掻く。次いでに頬を思い切り抓れば思いの外痛く、手加減すればよかったと後悔したほどだ。

「夢、だったのか?」

昔懐かしい、彼女が俺に語りかけてくる"夢"。夢の割には的を射た事しか喋らなかったけど。…いや、夢だからか?いやいや、夢だとしても昔懐かしい彼女が俺の"今の"名前を知っているはずがない。てか、わざわざ夢の中で呼ばせる必要がない。


………………俺の夢の中に侵入してきた?


この場がもう保たないとも言っていた。どうか元気でと、もう思い出せない前世の名前を愛おしそうに呼ばれた気がする。

まぁ、次元を超えて夢に侵入してこようとも彼女ーーー守美子さんなら出来そうだ。なんせ彼女は歴代の結界師随一の力とセンスの持ち主だ。時空を繋げる、なんて事もやってのけたって言われてたし。なにより、会えて嬉しかったのだから夢でも、非現実的な方法で会いに来てくれたのだとしても、俺としては嬉しいことに変わりはない。

それに、夢の中で彼女の言っていた"結界"。俺自身では思い出すことのできなかったであろう、遥か昔奥底に眠っていた記憶。

「、繭」

舌の上で言葉を転がし、それは静かに消えていった。


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