01.ヘビニラミの女

 ギーマは土下座した。
 イッシュに土下座の風習はないが、ベッドに座っていたので、結果それらしい姿勢になった。実に七年ぶりである。青臭いティーンの時代、零落した家を捨て、身一つ/ギャンブル一つで各地を渡り歩いていた。その頃すっかり板に着いた無様な作法を今さら使うとは、まさか思わない。そんなギーマをぼんやり見つめ、女はただ緩慢に瞬きを繰り返した。

「ギーマさん。ゆうべのことを覚えているの?」
「イヤ……全く。恥ずかしながら、完全に酒に飲まれていました」
「無理もないわ。相当飲みましたものね」

 さてこの女。カルミアと言って、リーグの監査や視察を担当している。ギーマにとっては知り合い以上、同僚未満の気まずい間柄だ。彼女は白の下着姿だった。ブラウスを着てはいるが、袖が手首まで落ちて、ほとんど衣服の意味がない。柔らかそうな胸元と薄い腹が、朝日を吸ってまばゆかった。普段結っている長髪はほどかれて、シットリ背中へ垂れている。それは惜しげもない露出であり、女の最もしどけない姿である。しかし当人は少しも動じていない。それがギーマをこれ以上なく困らせた。何事だ──と、途方に暮れざるを得なかった。

 時を昨晩に遡る。雪で山道が塞がり、リーグは一時運営休止となった。遭難などのリスクがあるため、挑戦者の安全をとってのことだ。四天王にとっては、予定外の休日である。そこで、最近顔を出していなかったこともあり、ライモンのカジノを訪れた。その帰りでカルミアに会い、流れで飲むことになった。しかしどうも、そのあとの記憶がギーマにはない。酔ってスッカリ機嫌がよくなり──暗転。気がつけばホテルで朝を迎え、隣にはこの状態の彼女が眠っていたのだった。床には脱いだり脱がしたりの痕跡がありありと見え、自分も相当、ハダけている。これを見て分からんやつはいない。
 別に、起きたら隣に知らない女がいるというのは、ギーマにとって珍しいことではない。肩書きやルックスに吸い寄せられた女の、後腐れないのを選んで、適当に相手しているからだ。だから、こういうときは無難に甘やかして、女の気が済んだらさっさと引き上げる。
 しかし、今朝は相手が悪すぎるではないか。よりによってこの女、カルミアだと! この歳になって酒で失敗するかよ。それも、職場の女相手に──。さまざまな思いが渦巻いた。とにかくギーマは寝起き十秒で全てを察し、沈思に耽っていた。そのうちカルミアが目を覚まして……今に至る。やるべきことが絶え間なく浮かぶが、ギーマの脳はまず「謝罪」という答えを弾き出したのだ。

「酩酊していたとはいえ、分別がありませんでした」
「はあ、そうですか」
「埋め合わせは必ずします」
「ふふ。ギーマさん、誠実ですね」

 カルミアは布団の中でもたもた動いて、うつぶせになった。両肘をシーツに立て、頬杖をつき、顔だけをギーマのほうへ向ける。そうして目を細め、心底おかしそうにクスクス笑いを漏らした。誰かに気を許すときのような、子どもっぽくて、ものすごく可愛い顔だ。しかしギーマにとっては可愛くない。彼女の「誠実ですね」が、どうしても本心には聞こえない。それは勝負師ギーマにとって、かけ離れた言葉のように思う。嫌味とすら思えた。

「つまり?」
「その言いぐさでは、わたしが合意なく乱暴されたみたいじゃありませんか。それともまさか、ギーマさんったら、今まで遊んだ女の子にもそうやって謝っていらっしゃるの? それは、ふふ。素敵なことだわ。王子様みたいだわ!」

 カルミアは何が面白いのか、耳障りのいい声で無邪気にコロコロ笑った。気勢を削がれる。なんだか自分だけ深刻なのが馬鹿らしくなってきて、ギーマは姿勢を戻した。口角の引き攣った愛想笑いをしながら、かろうじて「どうも」と返す。我ながら、ずいぶん辛気くさい声が出た。
 ──神経のざわめきを感じる。彼女はやけに上機嫌だが、理由は検討もつかない。表情は豊かなのに考えが読めない。美しいからこそ、人工物じみている。じわじわと「苦手なタイプだ」と気がついた。この女の御しがたさが、今このとき、苦手意識として顕在化した。返す返す、昨晩、何がどう転んでこうなってしまったのだろうか。いくらカジノで大勝して浮ついていたとはいえ、羽目を外しすぎた。悩みは深まるばかりである。

「なあに。何か、弁明の続きがおありかしら?」
「あなたがどんな噂を耳にしているか知りませんが、酔って職場の人間に手を出すような真似はしません。……ではなく、していませんでした」
「あら、それでは、わたしを特別扱いしてくれてありがとう。こう言うのが正しいですね」

 埒が明かない。あんまり長く関わると疲れるから、これ以上状況を拗らせたくないのに。女ってのは、一回でも関係を持つと付け上がるやつがいる。もしカルミアがそうであったらと考え、すぐにやめた。想像するだに最悪だ。とにかくギーマは、この一夜を可及的速やかかつ、無難に収束させねばならなかった。

「昨晩は……昨晩は、何があったんです」
「知りたいですか?」
「こうなった以上、男には聞く義務がある」
「そうですか、と言ってもね。わたしたち、お酒を飲みましたでしょう。パルデア風のバルで。日付が変わるくらいから、二時間ほど」

 会話がどうどうめぐりなので、アプローチを変えた。正攻法で尋ねてみると、カルミアは意外にも澱みなく答えた。話しながら、身体を起こしてベッドに座り、ブラウスを羽織り直す。恥じて肌を隠すのではなく、単に朝の冷気が寒かったのだ。彼女は一貫して鷹揚な構えであった。それで、ギーマも得意のポーカーフェイスを取り繕う。動揺を見せるほど、泥沼にはまっていく気がしたからだ。

「お店が閉まっちゃって、部屋飲みで仕切り直そうという話になって、その後は……」
「──その後は?」
「覚えていらっしゃらないのですよね」
「あいにくと」

 知りたいのはその後だ。ギーマはあくまで平然とした顔つきで続きを待った。しかし「そうですか」と言ったきり、カルミアの説明は終わってしまった。とんだ肩透かしだ。

「終わりですか」
「ええ。いいんです、大したことじゃないから」
「そんなわけあるか」

 素の言葉が思わず口をついた。少なくともギーマにとっては一大事だ。しかしカルミアは全く気にせず、勝手に話を完結させて、立ち上がった。そのまま「顔洗ってきます」と、まるで実家にいるような声で言う。あまりに自然なので、つい相槌を打ちかけて、ハッとした。

「いや、カルミアさん。重要なのはその後です」
「義務だなんて、たいそうなこと考えなくてよろしいのよ。昨日のギーマさんは忘れがたいけれど……それはそれとして、後腐れなくいきましょう。あ、もしくは、名誉のためにやり直しますか?」
「そうではなく」
「ねえギーマさん。わたしの気持ちが分かりますか?今、とっても切ないわ」

 カルミアの声色が変わった。ベッドに膝をついて、ぐんと顔が近づく。髪が触れんばかりの距離だ。純イッシュ人よりもいくらか凹凸の少ない顔立ちの、鮮やかな赤の眼。それが禁断の果実の如く、爛々と笑っている。敵意はないのに、まるで蛇睨みのよう。相手を麻痺させる眼差しだ。しかしギーマは動じなかった。容姿の好い女の相手など慣れているからだ。たっぷり七秒、無言で見つめ合ったあと、ようやく彼女が口を開く。

「ああ、夢のような一夜よ、甘美なる逢瀬の記憶よ! あんなに素敵な夜を、わたししか知らないだなんて。これより寂しいことはありません。きっと、あなたも同じ気持ちでいてくださると思ったのに……。こんなこと、あんまりだわ。不公平です」
「ですから、その素敵な夜を聞きたいんですよ」
「ってわけなので」

 カルミアの口ぶりは一方的であり、大袈裟で、思わせぶり。さながら舞台のヒロインである。口を挟む間もなく、あっという間に顔が離れてしまった。ムードもあったものじゃない。

「昨日のことは、もう、わたしだけの思い出にいたします。ご質問ですが、答えはギーマさんの想像にお任せしますね」
「ハア?」
「わたしは拗ねているんですよ。忘れてしまうくらいなら、そこまで執着なさることじゃないでしょう。それじゃあ、わたし、行きますから。ごゆっくり」

 と言って、カルミアは今度こそ取り合わなかった。躊躇いなく目の前で着替えて、顔を洗って、化粧をした。後朝の余韻というものがまるでなく、その間、こちらには一瞥もくれない。シネマのひと幕のような遠い光景、なんと清潔、あゝ無情……。あまりに思い通りにいかないので、ギーマはもはや漫然と女を見るだけだった。ただ分かるのは、おそらく、最も相手にしてはならぬ手合いだということだ。とにかくこの一夜は、彼女の一言を以て完全に消失という運びになった。つまりギーマに分かることは、ただ土下座損をしたということだけだった。

§


 二週間ほど経った。ある日、ギーマはヤミカラスがいないことに気がついた。いずれ弱点の補完とするため、新しく迎え入れた個体だ。おおかた散歩にでも行ったのだろうと思うが、長い間戻ってこないとなると別だ。何か帰れない理由ができたと考えるのが自然だった。
 あのヤミカラスはまだ幼く、空の飛び方を知らない。となれば、そう遠くまで行けないはずなので、探すのは難しいことじゃない。案の定、リーグの施設を十分ほど歩けば、すぐに迷子は見つかった。

「こんにちは。どなたかお探しでしょうか。それとも、この子はあなたのポケモン?」

 行方不明のヤミカラスが、別嬪の腕に抱かれている。借りてきたチョロネコのようにジッとしたまま、不思議そうに飼い主を見つめていた。ギーマは反射で眉が寄るのを抑えた。なにせ件のヘビニラミの女、カルミア。踵と首の後ろがジリッと焦げるような心地だ。

「ああ……はい。確かに」
「まだ飛べないのね。屋根から下りられなくなって、困っていましたよ。わたしのビビヨンが見つけて、連れてきてくれました」
「ハア。それはありがとうございます。何かお礼をしましょうか。以前のお詫びも兼ね」
「あ、結構ですー」

 間髪入れず快活な返事をされた。間髪どころか、半ば被せ気味だった。

「新しい子なのですね。よろしいと思います。むしタイプにも、かくとうタイプにも対策できますから。それにとっても可愛い。デビュー戦が楽しみです。ほら、もう、飼い主のところへお帰り」

 カルミアはヤミカラスを地面へソッと移した。続けて、何を言うでもなく会釈し、きびすを返して仕事へ戻る。長い髪から、ほのかにアンバーノートが香った。コクのある深いアイシャドウと、虫の翅のように存在感のあるまつ毛。ダークなリップ、シットリと白い頬。それらすべてが鎧のようにキラめく。彼女の武装は美しく、また完璧である。そうして、隙が少なければ少ないほど、例の無防備ですげない姿が何気なく脳裡を過ぎった。一度目にした以上、避けられないことだ。しかし、それが小骨のように引っかかる。ある種、苛立ちにも似ていた。ギーマの中に、一抹の負けん気が燻った。

「ヤミ?」
「なんでもないよ」

 真っ赤な嘘だ。結局、カルミアは宣言通り後腐れなく振舞っている。あの夜は予定調和のごとく、いっそ薄情なほど綺麗に収束した。ギーマはそれを、一方的で身勝手なことだと捉えた。結果はどうあれ、過程の問題だ。ひとつの猶予もなく、こちらだけが損をして終わったのだ。明らかなる不完全燃焼。そう考えると、俄然、負けの気分になるではないか。なんと辛気臭いことではないか。
 ギーマは生来、勝負師である。彼の世界はいつでもオール・オア・ナッシング。知恵・運・経験、自らのすべてを運命の女神へ捧げ、それらが報われたときに無上の幸福を感じる。そういう、過激で純粋な勝負の世界に耽溺しているのだ。反論の余地なく負けたのなら、いくらでも納得しよう。しかし、帳尻合わせのような終わりでは勝負師の名が廃る。カルミアの完璧な鎧を剥がさずば、このゲームは終われない。あのヘビ女の三文芝居を暴くまでは……。

「カァ」
「不思議か。いずれお前にも分かるよ。男の子だろ」

 ヤミカラスがいとけなく首を傾げる。とにかく決めた。この蟠りを解き、駆け引きに勝つ。男の人生の大半は、闘争心とロマンでできている。コレと一本決めたなら、後には引かれぬサダメであった。

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