ギーマは土下座した。
イッシュに土下座の風習はないが、ベッドに座っていたので、結果それらしい姿勢になった。実に七年ぶりである。青臭いティーンの時代、零落した家を捨て、身一つ/ギャンブル一つで各地を渡り歩いていた。その頃すっかり板に着いた無様な作法を今さら使うとは、まさか思わない。そんなギーマをぼんやり見つめ、女はただ緩慢に瞬きを繰り返した。
「ギーマさん。ゆうべのことを覚えているの?」
「イヤ……全く。恥ずかしながら、完全に酒に飲まれていました」
「無理もないわ。相当飲みましたものね」
さてこの女。カルミアと言って、リーグの監査や視察を担当している。ギーマにとっては知り合い以上、同僚未満の気まずい間柄だ。彼女は白の下着姿だった。ブラウスを着てはいるが、袖が手首まで落ちて、ほとんど衣服の意味がない。柔らかそうな胸元と薄い腹が、朝日を吸ってまばゆかった。普段結っている長髪はほどかれて、シットリ背中へ垂れている。それは惜しげもない露出であり、女の最もしどけない姿である。しかし当人は少しも動じていない。それがギーマをこれ以上なく困らせた。何事だ──と、途方に暮れざるを得なかった。
時を昨晩に遡る。雪で山道が塞がり、リーグは一時運営休止となった。遭難などのリスクがあるため、挑戦者の安全をとってのことだ。四天王にとっては、予定外の休日である。そこで、最近顔を出していなかったこともあり、ライモンのカジノを訪れた。その帰りでカルミアに会い、流れで飲むことになった。しかしどうも、そのあとの記憶がギーマにはない。酔ってスッカリ機嫌がよくなり──暗転。気がつけばホテルで朝を迎え、隣にはこの状態の彼女が眠っていたのだった。床には脱いだり脱がしたりの痕跡がありありと見え、自分も相当、ハダけている。これを見て分からんやつはいない。
別に、起きたら隣に知らない女がいるというのは、ギーマにとって珍しいことではない。肩書きやルックスに吸い寄せられた女の、後腐れないのを選んで、適当に相手しているからだ。だから、こういうときは無難に甘やかして、女の気が済んだらさっさと引き上げる。
しかし、今朝は相手が悪すぎるではないか。よりによってこの女、カルミアだと! この歳になって酒で失敗するかよ。それも、職場の女相手に──。さまざまな思いが渦巻いた。とにかくギーマは寝起き十秒で全てを察し、沈思に耽っていた。そのうちカルミアが目を覚まして……今に至る。やるべきことが絶え間なく浮かぶが、ギーマの脳はまず「謝罪」という答えを弾き出したのだ。
「酩酊していたとはいえ、分別がありませんでした」
「はあ、そうですか」
「埋め合わせは必ずします」
「ふふ。ギーマさん、誠実ですね」
カルミアは布団の中でもたもた動いて、うつぶせになった。両肘をシーツに立て、頬杖をつき、顔だけをギーマのほうへ向ける。そうして目を細め、心底おかしそうにクスクス笑いを漏らした。誰かに気を許すときのような、子どもっぽくて、ものすごく可愛い顔だ。しかしギーマにとっては可愛くない。彼女の「誠実ですね」が、どうしても本心には聞こえない。それは勝負師ギーマにとって、かけ離れた言葉のように思う。嫌味とすら思えた。
「つまり?」
「その言いぐさでは、わたしが合意なく乱暴されたみたいじゃありませんか。それともまさか、ギーマさんったら、今まで遊んだ女の子にもそうやって謝っていらっしゃるの? それは、ふふ。素敵なことだわ。王子様みたいだわ!」
カルミアは何が面白いのか、耳障りのいい声で無邪気にコロコロ笑った。気勢を削がれる。なんだか自分だけ深刻なのが馬鹿らしくなってきて、ギーマは姿勢を戻した。口角の引き攣った愛想笑いをしながら、かろうじて「どうも」と返す。我ながら、ずいぶん辛気くさい声が出た。
──神経のざわめきを感じる。彼女はやけに上機嫌だが、理由は検討もつかない。表情は豊かなのに考えが読めない。美しいからこそ、人工物じみている。じわじわと「苦手なタイプだ」と気がついた。この女の御しがたさが、今このとき、苦手意識として顕在化した。返す返す、昨晩、何がどう転んでこうなってしまったのだろうか。いくらカジノで大勝して浮ついていたとはいえ、羽目を外しすぎた。悩みは深まるばかりである。
「なあに。何か、弁明の続きがおありかしら?」
「あなたがどんな噂を耳にしているか知りませんが、酔って職場の人間に手を出すような真似はしません。……ではなく、していませんでした」
「あら、それでは、わたしを特別扱いしてくれてありがとう。こう言うのが正しいですね」
埒が明かない。あんまり長く関わると疲れるから、これ以上状況を拗らせたくないのに。女ってのは、一回でも関係を持つと付け上がるやつがいる。もしカルミアがそうであったらと考え、すぐにやめた。想像するだに最悪だ。とにかくギーマは、この一夜を可及的速やかかつ、無難に収束させねばならなかった。
「昨晩は……昨晩は、何があったんです」
「知りたいですか?」
「こうなった以上、男には聞く義務がある」
「そうですか、と言ってもね。わたしたち、お酒を飲みましたでしょう。パルデア風のバルで。日付が変わるくらいから、二時間ほど」
会話がどうどうめぐりなので、アプローチを変えた。正攻法で尋ねてみると、カルミアは意外にも澱みなく答えた。話しながら、身体を起こしてベッドに座り、ブラウスを羽織り直す。恥じて肌を隠すのではなく、単に朝の冷気が寒かったのだ。彼女は一貫して鷹揚な構えであった。それで、ギーマも得意のポーカーフェイスを取り繕う。動揺を見せるほど、泥沼にはまっていく気がしたからだ。
「お店が閉まっちゃって、部屋飲みで仕切り直そうという話になって、その後は……」
「──その後は?」
「覚えていらっしゃらないのですよね」
「あいにくと」
知りたいのはその後だ。ギーマはあくまで平然とした顔つきで続きを待った。しかし「そうですか」と言ったきり、カルミアの説明は終わってしまった。とんだ肩透かしだ。
「終わりですか」
「ええ。いいんです、大したことじゃないから」
「そんなわけあるか」
素の言葉が思わず口をついた。少なくともギーマにとっては一大事だ。しかしカルミアは全く気にせず、勝手に話を完結させて、立ち上がった。そのまま「顔洗ってきます」と、まるで実家にいるような声で言う。あまりに自然なので、つい相槌を打ちかけて、ハッとした。
「いや、カルミアさん。重要なのはその後です」
「義務だなんて、たいそうなこと考えなくてよろしいのよ。昨日のギーマさんは忘れがたいけれど……それはそれとして、後腐れなくいきましょう。あ、もしくは、名誉のためにやり直しますか?」
「そうではなく」
「ねえギーマさん。わたしの気持ちが分かりますか?今、とっても切ないわ」
カルミアの声色が変わった。ベッドに膝をついて、ぐんと顔が近づく。髪が触れんばかりの距離だ。純イッシュ人よりもいくらか凹凸の少ない顔立ちの、鮮やかな赤の眼。それが禁断の果実の如く、爛々と笑っている。敵意はないのに、まるで蛇睨みのよう。相手を麻痺させる眼差しだ。しかしギーマは動じなかった。容姿の好い女の相手など慣れているからだ。たっぷり七秒、無言で見つめ合ったあと、ようやく彼女が口を開く。
「ああ、夢のような一夜よ、甘美なる逢瀬の記憶よ! あんなに素敵な夜を、わたししか知らないだなんて。これより寂しいことはありません。きっと、あなたも同じ気持ちでいてくださると思ったのに……。こんなこと、あんまりだわ。不公平です」
「ですから、その素敵な夜を聞きたいんですよ」
「ってわけなので」
カルミアの口ぶりは一方的であり、大袈裟で、思わせぶり。さながら舞台のヒロインである。口を挟む間もなく、あっという間に顔が離れてしまった。ムードもあったものじゃない。
「昨日のことは、もう、わたしだけの思い出にいたします。ご質問ですが、答えはギーマさんの想像にお任せしますね」
「ハア?」
「わたしは拗ねているんですよ。忘れてしまうくらいなら、そこまで執着なさることじゃないでしょう。それじゃあ、わたし、行きますから。ごゆっくり」
と言って、カルミアは今度こそ取り合わなかった。躊躇いなく目の前で着替えて、顔を洗って、化粧をした。後朝の余韻というものがまるでなく、その間、こちらには一瞥もくれない。シネマのひと幕のような遠い光景、なんと清潔、あゝ無情……。あまりに思い通りにいかないので、ギーマはもはや漫然と女を見るだけだった。ただ分かるのは、おそらく、最も相手にしてはならぬ手合いだということだ。とにかくこの一夜は、彼女の一言を以て完全に消失という運びになった。つまりギーマに分かることは、ただ土下座損をしたということだけだった。