正体見たり

 十一の夜を思い出した。
 まだらな眠りだった。目を開けて時計を見ると、時刻は一時、一時半、二時と細切れに移り変わった。朝日の昇るのが恐ろしいのに、眠らなければ、明日が億劫になる。そういう曖昧な焦りを感じて、なおさら目が冴えてしまったので、私は諦めて布団を出た。湯を沸かし、茶を入れ、濡れ縁に出て月を見る。そこでしばらくぼうっとする。夜行性のデルビルも気がついて、チマチマと追いかけてきた。
 人間は疲れすぎると、むしろ睡眠が浅くなるようだった。芸事にポケモンバトルと稽古づくしの毎日である。きっと明日も明後日も同じことに励み、そのまま心身が成長し、私は大人になるだろう。……

「あれ。植え込みが動いた」

 憂いはいっとき途絶えた。風もないのに前栽せんざいが音を立てたのだ。野生のポケモンが誤って侵入したのかもしれない。しばらく放っておいたが、ずっとそこに居る。よく目を凝らすと、身動ぎする影が見え、次に、闇に浮かぶ双眸と目が合った。合うなり、悪さをするでもなく、壁から抜けてどこかへ行ってしまう。
 フと悪戯っぽい発想になった──どうせ眠られぬなら、あの影を追いかけて、散歩でもしてみようか。夜半のエンジュは歩いたことがない。思い立つや、私は部屋から外套を取ってきた。庭へ戻ると、デルビルが「はてな」と首をもたげたので、一緒に連れ出すことにした。
 丑三つ刻、街には人はおろかポケモンの気配もなく、さすがに不気味である。デルビルが先導してくれたので、影のゆくえにはそう迷わなかった。枯れた古木の並木を見歩く。秋は見事なものだが、今は侘しくて、貧しい。あんまり綺麗ではないと思った。冷えた石畳は、おとつい雪が降ったから濡れていて、空気まで寒かった。
 そうこうするうち、スズねの小径こみちへの関所まで来てしまった。木製の扉に紙切れが何枚か貼り付けてあり、いずれも「観光目的は立ち入るべからず」という旨が書かれている。無断で入り込む人があまりに多かったのだろう。スズの塔は古来より神の降りる神聖な場所だ。資格を試され、許しを得ねば通れぬ場所である。昼ならば門番が立っており、夜は固く施錠されている。

「デルビル。スズの塔には行けないよ」

 デルビルが残念そうに鳴いた。私はゴーストタイプではないので、扉を通り抜けることはできない。やすやす踏み入れられる場所でもない。仕方なし、探検は終わりだ。引き上げて明日に備えることにする。この時間は、軽い息抜きくらいにはなったはずだった。

「明日も早いから、帰ろう──わっ」

 と思いきや、何と、人っ子ひとりいないはずの関所がひとりでに開くではないか。古い蝶番が気味悪く鳴る。さすがに幽霊の仕わざかもしれないと思った。しかしすぐにそうではないと分かる。出てきたのは一人の青年だ。はじめ、暗くて難儀したが、よくよく見ればマツバくんだった。年は十七つ、旧家生まれの若い修験者で、幼い頃から知った仲である。くらい冬景色、彼の金髪はずいぶん鮮やかに見える。その後ろにはゴースが浮いていた。合点がいった。影はゴースだったのだ。

「あっ! その子。マツバくんのゴースだったの」
「ゴース? 確かに僕のポケモンだけど……きみはどうしてここにいるんだい。リンちゃん」

 私はうまく説明が思い浮かばなくて、結局「眠れなくて」としか言えなかった。しかしマツバくんは、すべてを知っているかのように頷く。外は寒いので、招かれるがままに関所へ入った。軽く休める座敷へ上がって、なんとはなしに正座する。
 向かいに座ったマツバくんが「丑三つ刻は危ない」と淡白に言った。怒っているふうではないが、その言葉には真実味がある。不思議な人だ。優しくて、努力家で、だけど底知れない。私たちには見えぬものが、この人には常に見えている。フと、そういえば、どうして彼も起きているのだろうと思った。

「マツバくんも眠れないの?」
「そうだね。気分が落ち着かなくて──なんて思ってたら、ゴースがきみを連れてきてくれたみたいだ。せっかくだから、二人で夜更かししようか」
「夜更かし!」

 その単語に私はときめいた。品行方正な生活だから、まず、こんなに遅くまで起きていたことがないのだ。まして年上のお兄さんと二人で夜更かしだなんて、すごく魅力的に聞こえた。

「スズねの小径でも歩いてみるかい」
「で、でも、許可を取らなくちゃ。許可を……」
「いいよ。きみなら大丈夫だ」
「本当っ?」
「待った。その前に」

 はしゃいでしまったが、すぐに静止を受けて鎮火した。何事かと思うが、叱咤の調子ではない。眉を持ち上げて続きを待つと、マツバくんは身を乗り出して、私の両肩に手を置いた。顔が近くて動揺した。この人は、誰がどう見ても柔和な美形だ。柔和なのに、冷たい重石みたいな雰囲気がある。だから目が合うと、首の後ろがスっとして動けなくなる。しかし、嫌とは思わない。

「それは置いていってね。イチリン」
「えっ、な。な」
「明日はきっとよく眠れる」

 マツバくんは莞爾かんじと笑って、埃を除くみたいに私の肩を払った。次に目の前で両手のひらを打ち合わす。乾いた音が響いて、私は反射的に目を瞑った。水を打つような張り詰めた空気が、徐々に霧散する。三秒くらいして、おっかなびっくり目を開けた。変わらず、穏やかな笑顔のマツバくんがいる。

「ね。猫騙し?」
「あはは。ハズレ」
「もしかして……霊的な」
「埃だよ」

 絶対に嘘だと思った。それを指摘するまでもなく、マツバくんには隠す気がないようだ。深く追求するのはやめて、次の言葉を待った。そんな私の心を察してか、マツバくんは眉を下げて笑う。様になっている。

「幽霊の、正体見たり、枯れ尾花」
「ゆう……。俳句?」
「そう。人は形のないものを恐れるけど、ほとんどは大したことない。確かに僕は今、ちょっと悪いものを除けた。でも、それはただのお負け。こういうのは案外、気の持ちようが大切なんだ。原始的なことにね」

 そういうものかと思う。マツバくんは目が違うから、視点も人とは少し違っている。彼の言うことは曖昧な精神論のようで、そうではない。多くを語らずとも、私を説得するだけの力がある。

「だから、たまには自分の心を労わることだ。頑張りすぎなくていいからね、リンちゃん」
「──かなんなあ」
「そんなことはないよ」

 思わず励まされて、ちょっと目の奥が熱い。今のはとても胸に沁みた。先の見えない努力をしているのは互いに同じだ。そのマツバくんに言われると、許された気にもなる。とにかく「どうぞ」と手を差し出されたので、なんとか泣かずに済んだ。扉をくぐってスズねの小径に入る。案の定、暗くて景色がよく見えなかったが、澄んだ空気を吸うと心が入れ替わるようだった。

「僕はいつか、きみにかなわなくなる」

 マツバくんが困ったように笑う。その言葉の真意は、まだ十一の私には分からない。