名前(一)

「夏乃。俺のことは、名前で呼びな」

 跡部はあくまで何でもなさそうに言ってから、緊張で乾いた唇を舐めた。ノンアルコールのシャンパンが、やけにぬるく感じる。跡部家主催のパーティ会場では、華々しく着飾った来客のざわめき、グラスを交わす硬い音が絶え間なく聞こえた。それらの雑音に混じって消えないよう、さりげなくも、ハッキリと。やっとの思いで口にした。

「ここは、跡部家のパーティ会場だぜ。お前からの呼び方が『跡部くん』じゃ、紛らわしいだろうが」

 言われた夏乃が、だるそうに瞬きした。いつも無気力そうにしている女だから、大した意味はないだろう。しかし跡部にとっては、彼女のかすかな一挙一動すら、ここにいる誰よりも美しいのである。御簾のようなまつ毛が照明を浴びて、光の粒子を落とすような錯視。それを見ながら、大人しく返事を待った。よもや嫌とは言うまい。嫌われているわけがないのだから……。

「いや、やめとく。面倒くさい」

 しかし夏乃は即答した。呼ぼうか呼ぶまいか。それを迷うそぶりもなく、軽い拍子で。

「は?」
「だから、やめとく。ごめんねえ」

 そうかよ。と何とか返したが、ほとんどなにも考えられはしなかった。名前すらダメか。付け入る隙を与えないという、近くて遠い一線を張られたように思えた。跡部景吾、十三の冬。人生で初めて好きな子に拒絶された。少なくとも、彼にとっては失恋にも等しい精神的ショックを及ぼしたのだった。

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 いかに跡部景吾といえども、氷帝学園中等部に入学して間もない頃は、今のような絶対的な地位にあったわけではなかった。むしろ、その尊大で派手な物言いを敬遠する人か多かったくらいだ。ただでさえ幼稚舎からエスカレータ進学の多い氷帝である。外部からやってきた跡部など、彼の生まれ持ったカリスマをまだ知らぬ生徒らにとっては、ぽっと出のお坊ちゃまに過ぎなかったのだ。

「跡部くん。跡部くん」

 魂を抜かれるように長閑な春、ジットリ汗ばむ五月の暮れ。六限目は英・グラマーの授業だ。教師がやってきたタイミングで、細くて白い指が跡部の机を控えめに叩いた。隣の席の転校生だった。
 このクラスには転校生がいる。家の事情がどうとかで入学式に間に合わず、つい先日に転入したばかりの女生徒だ。派手ではないが、なんとなく佇まいに品のある子だった。彼女がやってきたのを機に、生徒の要望で席替えが行われた。そしてくだんの転校生が、たまさか跡部の隣に決まったのだ。

「なんだ。鳥飼」
「教科書見せてほしいんだけど」

 入学シーズンから少し外れたせいで、教科書も在庫がなく、取り寄せに時間がかかっているのだという。半端な時期にやってきたため、教科書を借りるような友人もいないようだった。仕方ないので了承すると「ありがとー」と気の抜けた返事がかえってきた。そのようすを、クラスメイトはおっかなびっくり見ている。彼らにとって跡部とは、やはり近寄りがたい存在だった。
 なにせ入学式で「俺様が氷帝の王様だ」と豪語し、テニス部部長の座を奪い取った男だ。加えて彼は、夢に見るような美少年であった。切れ上がった勝気な目尻に、高く通る鼻筋、厚く形のよい唇は、アジア離れした氷の美貌。その気品ある容姿から、あっという間にファンになってしまう生徒もいたが、残りの大半は彼との距離を測りかねていた。転校生はそれを知らないのだろう。だからあんなに簡単に話しかけられるのだ。全員がそう思った。

「私の名前を覚えてるんだね」
「そのくらい、当然だろうが」

 それどころか、跡部は中等部の生徒の名前は全て覚えるつもりだったが、別に言わなかった。九月の生徒会選挙。そこで会長に選ばれるビジョンは既に明確だ。氷帝の生徒会長たるもの、生徒のことを分かっていなくては何とする──とにかく、何事も一番を狙うのが跡部の気質だった。
 転校生は「へー」と気のない返事をして、大人しく授業を聞き始めた。それから特に会話もなく五十分。朗々とした教師の音読、グラウンドから聞こえる体育の声、シャーペンが紙を滑る音、それらの音がありふれた学園生活を描いた。跡部はなんとなく隣の転校生のノートが目に入り、彼女の筆跡が整っていることに気がついた。嫋やかで流麗な、女流歌人のような文字は、なんだか意外であるように思えたが、あえて話しかけることはなかった。

「跡部くんは、放課後は部活?」

 授業が終わった後、跡部は転校生に話しかけられた。まるで会話の途中であるかのように、予備動作なく踏み込んでくるやつだと思った。しかし、たとい反応がなくても構わないというような自然な口ぶりなので、不思議と嫌ではない。

「そうなるな」
「待って、当てる。馬術部かな。それか、合唱部?」
「何でだよ。硬式テニス部だ」
「見た目の印象で言っただけ。運動部なんだ。じゃあ、これあげる。教科書のお礼に」

 塩分補給用のタブレットだった。個包装のものを一つ、勝手に跡部の机に置いた。そして相手が二百人の頂点に立つ部長であることなど知りもせず「ガンバレ」と適当に言うのである。

「お前、なんで一人なんだ?」
「ん? 何が。おせっかい焼こうとしてるの」
「違え。疑問なだけだよ」

 中学生のプライドは、容姿の他、どこか集団に所属していることで保たれる。芸能人の息子から社長令嬢まで、金持ちの揃う氷帝ではなおのことで、いかに優れた友人を持つかというのは、ほとんど死活問題と言ってよかった。一人などというのは、彼らにとって最も忌避すべきことだ。彼女が転校してきた日、男子生徒が寄り合って「可愛い」「美人だ」と一方的にランク付けをするのを聞いた。跡部はいわゆるカーストのような意義を伴わない枠組みを気にしたことはないが、少なくとも、見た目も性格も、転校生が人付き合いに苦労するようには見えない。しかし、彼女は一人だった。休み時間も放課後も、特別誰かに話しかけたりはしないのだ。それが不思議だった。

「焦らなくてもね。友達なんて、気づいたときにはできてるよ。てか、跡部くんのほうが浮いてる」
「うるせえ。放っとけ」
「何なら私たち、友達になる? クラスで浮いてる同士、気合いそうじゃん」

 例の適当な口ぶりだった。しかし跡部は珍しく気が乗ったので「勝手にしろよ」と答えた。転校生は興味なさそうに頷いてから、軽く挨拶してさっさと帰ってしまった。取り残された跡部は、教科書のお礼をブレザーのポケットに入れて、なんとなくその背中を見送る。鳥飼夏乃。それは跡部が日本に来て初めて作った友人の名である。そして言うまでもなく、これから心底惚れ込む女の名である。

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