単価十円の愛

「あ、最悪」

 つい口から出た。さっきまでは何ともなかったのに、かかとがジリジリと痛む。おろしたてのパンプスを履いたら、靴擦れしてしまった。財閥による盛大な跡部景吾の誕生パーティが終わって、これから帰ろうというところが。気勢を削がれた。

「どうかしたかよ?」
「いや、靴擦れした。歩いて帰るのに」
「ご両親は迎えに来ねえのか」
「今ごろ学会で福岡だよ」

 参加しようと思ったのは跡部に誘われたからだ。肝心の親が来られないというので、ちょっと夏乃も迷った。しかし「友人は大切にしなさい」という父の言と、日頃お世話になっている縁もあって、結局こうして来たわけだ。それが終わって、今は夜の七時。秋更けて日の入りは早く、あたりはスッカリ暗い。
 夏乃は「ちょっと座るね」と言って、そのへんのベンチに腰掛け、靴を脱いだ。生っ白くツルリとした足の、かかとの上に赤い擦り傷。跡部はなんとなく、正装のネクタイを直すのに気を取られたふりをした。

「ミカエルに車を出させるか」
「忙しそうだしいいよ。別に遠くもないし」
「ハン、俺様の気遣いを無駄にするとは、贅沢なやつだな。まあいい、それなら俺が送る」
「ええ?」

 大げさな。という夏乃の視線を浴びて、しかし跡部は引かなかった。夜道とか、中学生とか、女性とか、思いつく理由はいくらだってあるが、跡部にとってはすべて理由ではなく口実。それが夏乃だからだ。とにかく、譲る気はないと分かるや、夏乃はあっけなく折れて「帰ろー」と歩き出した。

「うち、本当に誰もいないからね。何も出ないよ」
「俺を乞食みたいに言うな。別に邪魔しようってんじゃねえよ。送るだけだ」
「てか、残ってるお客さんは放っといていーの?」
「ああん? 時間は過ぎてんだろ。それにあんなもん、財閥に取り入りたくてオベッカ使ってるだけのやつが大半だろーが。顔と名前を覚えてやっただけでも光栄に思うべきだな」

 跡部は吐き捨てた。ハリウッドの俳優のようにサマになった不満顔だった。毎年この時期になると、パーティに備えて参加者の顔と名前、基本的な情報をすべて頭に叩き込んでいるのだとか。弱冠十四歳の跡部は、大人の付け入る隙を与えない。その隠れた努力を夏乃は知っている。跡部はブルジョワで、高慢で、偉そうな男だが、その冠はお飾りではない。

「コンビニ寄っていい? 絆創膏買うから」
「構わねえ──いや待て。コンビニってのは駄菓子屋の一種じゃねえのか。そんなもんあんのかよ」
「え? 違うよ。大体なんでも売ってるよ。入ったことないの?」
「ねえよ」

 まっすぐ言われて夏乃はうけた。夏乃だって相当金持ちだが、コンビニくらい使う機会はある。跡部はまだ何だかよく分かっていない顔だったが、うすうす興味があることは見て取れた。やがて通り道の店舗に入る。せっかく跡部を連れ回すならと、絆創膏ついでに中華まんを買うことにした。今日は立食パーティだったから、挨拶回りで食いはぐれてしまったのだ。跡部は物珍しそうに明るい店内を眺めていた。

「おい。会計は俺がする」
「もうお財布出したからいい。奢ってくれるなら、今度もっと高いもの奢ってー。はいこれ、景吾くんの」

 店を出て、近くの公園でベンチに座った。傷に絆創膏を貼ってから、あんまんを食べる。正装姿の二人にはちょっと不相応な見栄えだが、肌寒い季節にはこれがめっぽう美味しいわけだ。夏乃が食べるのを見てから、跡部も不思議そうに口に入れる。

「これがね。私はけっこう好きなわけ」
「悪くはねえな。大味だが」
「でしょう」
「お前だけだ。俺様に喜んでこんな安いもん食わせんのはよ」
「なにそれ、強。おもしろ」

 という調子で、誰もいない公園のベンチでしばらく雑談をした。パーティではカタくて儀礼的な挨拶しかできなかったから、意外に話は弾んだ。ときおり近くの国道を大きな車が通り、ライトが建物の陰を出たり入ったり明滅した。夏乃の上品でアンニュイな顔つきが、そのたび照らされるのを、飽きもせずに跡部は見た。

「そういえば」
「なんだよ」
「誕生日おめでとう」

 夏乃が不意に笑って、さっき買った安い飴をひと粒手渡した。面食らって受け取る。夏乃の、下まぶたが持ち上がって、人懐っこい顔が可愛かった。それだけで、今手の中にあるものが宝石も斯くやの輝きを持つのが分かった。

「ありがとよ」

 それは「今日は来てくれてありがとう」という意味だったが、その一言で跡部のさまざまな感情が消化され、明日への不可思議な活力となった。夏乃はそれを聞いて、ウゲーっと信じられないような顔をした。

「嘘。そんなんでいいの? 単価十円もないよ」
「心配すんな。お前の誕生日にも、単価十円の安物で返してやる」

 と言って、跡部は少し後悔した。ここで「お前ならなんだっていい」と咄嗟に言えないのが、思春期の悩ましく悪いところだと思った。

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