序・永訣の雨

 私は心臓だ。心臓そのものに姿を変えたのだ。
 そんな錯覚が直感的に過ぎった。それほどまでに鼓動は熱く、大きく、全身に脈動が伝播する。呼応するように、身体にあいた傷口から溶岩にも似た血が溢れ出て、石造りの床をゆったりと進んでいった。その血は雨に混じり合い、流れをなして、いずれ大海に落つ。きっと、もうじき死ぬ。果たして人は生涯という歌劇の幕を下ろし、最期は水へ還るのだ。民衆の悲鳴、または医者や警察隊を呼ぶ声。それらの無秩序な感情の爆発を、神のように傍観した。どうしてか不安はなかった。しかし惜しむらくは、これが彼との永訣になることだった。

「今、悲しいのですか」

 目の前で膝をつく男に、そう言うつもりが、血液が気道へ入って、最後はほとんど言葉にならなかった。過去、彼に同じようなことを言われたことがある。忘れもしない審判の日だ。血族という閉鎖共同体で起こった凄惨な殺人事件、その犯人であるとして、肉親はみな有罪となった。裁かれなかったのは、既に死んだ者と、残された自身のみだ。その日はただ自らの孤独とやるせなき生命を嘆いた。そうしたら彼が「今、悲しいのか」と問うので「悲しい」と答えた。感情を知らぬ彼がどう思ったのかは、未だに分からない。それだけのことが、今日まで脳裏に焼き付いていた。

「悲しい──ああ、私は、悲しいのだ」

 はっとした。どうやら、言葉にならずとも彼には伝わったようだ。なんと真っ直ぐで明白な答えだろう。あの日、悲しみなどとは無縁だった彼が、まさか、悲しいと言ったのだ。彼の顔に涙はなく、声を荒らげることもない。しかし、降りしきる雨の轟音こそが、その深く途方もない激情を証明した。これは彼の涙なのだと、直感が告げた。

「君は助からない」
「そうですね」
「君の死を止める術を持たない私が不甲斐なく、悲しいのだ。どうか教えてくれ。このような悲しみを抱えたならば、人はどうする」
「どうもしませんよ」

 息も絶え絶えに答えながら、しかし不可思議な安堵が胸を満たした。たった今、この火花のような短い人生に満足してしまったのだ。愛しい男と悲しみを分かち合った。胸に秘めた身勝手な想いは最後まで実らなかったけれど。これを我が人生の命題と言わずして、何とする。

「感情と共に、生きるから」
「──なぜ」
「それが人間だからです。ヌヴィレット様」

 永い時を生きゆくあなたへ。この意味を、いつか理解できる日が来たならそれでいい。笑おうとして、しかし前触れなく意識の糸が切れた。身体は死に、魂は水へ還った。最後の言葉が声になったかは、知る由もない。
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