ゆくては果敢ない

 水上瀬音は、幕府の剣士である。真っ直ぐの黒髪に、睡蓮を模した髪飾りをつけており、楚々としたかんばせをしている。軍所いくさどころに籍を置くシャンとした美人で、とがめにとってはずいぶん付き合いの長い女だった。

「瀬音殿、具合はどうだ?」
「いや、しばらくは無理──」

 その彼女はいま、血色の悪い顔で項垂れている。ここまでの船旅ですっかり体調を悪くしてしまったのだ。とがめは呆れて腕を組んだ。

「まさか船酔いとは、予想外だったな」
「逆にあの揺れでよく平気でしたね」
「そなたが乗り物に弱いだけだろう。確かに船頭のくせに拙い技術だとは思ったが……」

 彼女たちの乗る船を漕いだ男は、実のところ本物の船頭ではないので、瀬音が船酔いに苦しむのも当然の結果といえばそうなのだが、とがめはそれを知る由もない。ただでさえ神経の太い瀬音と比べてなお図太い。それでなければ幕府の重役など務まらぬのである。

「瀬音殿、そなたには悪いが私は先を急がせてもらう。気分が良くなったら私の所へ来てくれ」
「それだと護衛の意味がなさそうですが……」
「なに、ここには虚刀流の人間以外はおらんのだ。私は彼らと対立したいわけではないのだから、平気だ」

 ではな、と瀬音の返事を待たないままに、とがめは絢爛豪華な着物を翻した。気まずげな船頭と瀬音のみが海岸に残る。波が浜を噛む音のみが、しばし響いた。

「行動力がすごいんだから……」
「あのう、なんだか苦労をかけちまって、すいませんねえ」
「あ、いや……船頭さんは気に病まないでください。遠くまでお疲れ様でした」

 申し訳なさげに頭を下げる船頭に肩を竦めた。瀬音は再び不快感に目を閉じる。吐き気が強く、軽いめまいまであって、なんだか思考がグルグルしてくる。
 大体、この船頭は何なのだ──ふと、こちらを気遣わしげに見る船頭に違和感が宿る。とがめは今回の策をほとんど誰にも悟られぬようにこれほどの小舟を選んだのだ。加えてあの高慢な性分、船頭の腕だってよりすぐったはずだ。それなのにこの男ときたら、まるで素人。ここまで一人で船を漕いだ体力は認めるが、船頭というにはあまりにも足らない。

 ──ひょっとしたら、別人だったりして。とがめの奇策を読んで、唯一船頭として紛れ込んだ……忍者?

「……?」

 瀬音の思考はそこで止まった。なんだか、我ながら真実味のある空想だ。とがめが真庭忍軍に裏切られたことを考えると、その可能性は捨てきれない。変化の術を使える忍がいたとて何もおかしくはないのではないか。木を隠すなら森の中と言うし、堂々と同行することでとがめの警戒を掻い潜った線もある。さて、そうなると。この男は本当に船頭なのか。
 そこまで考えて、フとこれまでの不快感が吹き飛んだ。それは、おおよそ人間から発せられるとは思えない不気味な音が聞こえて、緊張感がまさったから。

「──おっと、動くなよ。護衛ちゃん」

 喉元にツと苦無が突き付けられた。その声色は、明らかに先程とは違う。瀬音がゆっくりと目を開けると、そこには船頭ではなく、袖のない忍装束に鎖を巻き付けた男がいた。

「……当てます。真庭忍軍ですか?」
「なんだ、気がついちゃった感じ? ちょうど良く調子崩してるみたいだし、ここで始末しておこうと思ったんだけどなア、きゃはきゃは」
「素人演技が、むしろ功を奏しましたね」

 男はまた特徴的な笑い声を立て、大きな黒目を歪めた。

「だがここまで連れてきてやったのは俺だろうよ──それにしたってあんたは疑り深いな、子猫ちゃんは気がついていなかったようだぜ? まったく、あの女も頭が良いんだか悪いんだが分からねえよな」
「気分が悪すぎて考えごとに耽っていたんですよ。無駄話が好きなようで、派手な透波<すっぱ/rt>さん」

 この男をとがめのところへ行かせるわけにはいかない。どうにか此処で足止めしなければと、瀬音は目を眇めた。体調が悪いのに。

「おいおいおい、つれねえな。透波さんなんて言うんじゃねえよ。真庭忍軍は今や独立した集団だぜ。それに、俺には真庭蝙蝠って名前がある」
「そうですか。それで、不承島に何の用?」
「あんたに教える義理はない──と言いたいところだが、どうせ死ぬんだ。冥土の蝙蝠が土産を振舞ってやるよ。真庭忍軍には金がねえ。そのためには莫大な価値のある四季崎の刀が必要なんだ」
「つまり刀の在処を聞きに来たと」
「そういうこった。だからあんたには悪いが、さっさと始末させてもらうぜ。ああ、言っとくが、抵抗は無駄だ。そんな刀じゃ俺には勝てねえよ」

 蝙蝠は彼女の腰に据えられた刀を一瞥する。拵は黒漆塗り、反りは少なくほとんど直刀のようなものだ。しかしいっとう目を引くのは、鞘から柄にかけてが紐で固く結ばれていることだった。単なる飾りではない。その刀は抜刀できないようになっているのだ。

「蝙蝠さんでしたっけ? 四季崎記紀の刀はいくつ持っているのか、お土産として教えてくださいますか」
「オイオイ、知りたがりだな。ひょっとしちゃって機を伺ってる? マアいいや。今は俺の持つ絶刀・かんなの一本だけだ」
「苦無以外の武器は見当たりませんが」
「おっと、見せるわけには行かねえよ。こんな高価なもん、腹に収めとかなきゃ不安でしょうがねえ」

 腹に収める、という言葉の意味がそのままであるとは俄に信じ難いが、そうでなくてはどこにも武器を持つようには見えない。訝りつつも瀬音はひとまず納得した。

「買い手は見つかってるんですか?」
「ンなのこれから探しゃあいいだろ」
「いないでしょう。なかなか」

 四季崎記紀の刀には国ひとつを買えるほどの価値がつく。剣士ならば誰もが欲しがるが、かといってその対価を払える者は極小数。そう簡単に買取手が見つかるはずはないのだ。

 さて、正念場。
 喉元には苦無があるし、戦闘に持ち込めば忽ち負けてしまうだろう。瞭然たることだ。とがめも真庭忍軍も四季崎記紀の刀を求めているのだから、手を組めれば一番いいに決まっている。

 とがめが訪ねた虚刀流がどれだけの実力を持つのか、瀬音は知らない。それでも暗殺専門、実力者揃いの真庭忍軍と衝突することは、これからの旅の妨げになろう。ただの一時的な護衛のつもりが、随分な重荷を背負ってしまったようだった。瀬音はしばし憂鬱そうにため息をついたりしていたが、おもむろに涼し気な目をぱっと蝙蝠へ向けた。

「──分かりましたよ、蝙蝠さん」

■ ■

 とがめは、虚刀流の住まう掘っ立て小屋で、なかなか来る様子を見せない護衛を気がかりに思っていた。見かねて、鑢七実が声をかける。

「どうかなさったのですか、とがめさん」
「いや、この島を訪ねるにあたってひとり護衛を連れてきたのだが、それが浜辺で別れて以来一向に来ないのだ。そなたたちへの話は終わったが、これだけ遅いとさしもの私も心配になる」
「何かあったんじゃねえのか?」
「そんなはずはない。この島にはそなたたちしかおらんのだろう」

 不承島は虚刀流の流刑の地であり、七実と七花の鑢姉弟以外に、住人は当然居ない。加えて、今日訪れたのはとがめと瀬音のみ。なかんずく尾行には神経を尖らせたため、有り得ない。何かが起こる余地はないはずなのだ。

「この島にはあなた達しか来ていないのですか」
「そうだ」
「とがめさんと護衛の方だけですか」
「そうだと言っておるだろう」
「では。船で来たのでしょうけれど、その船は誰が漕いだのです」
「異なことを言う。船頭に決まって──」

 そこでとがめの言葉は途切れた。この島を訪れたのが己と瀬音だけではないと気がついたためだ。

「まさか──いや、しかし、あの船頭が敵であるはずは」
「先程、真庭忍軍に裏切られたという話をしたではありませんか。変化の術は、忍の常套手段なのでしょう」

 実際のところ、蝙蝠の忍法は変化の術の範疇を遥かに超える「骨肉細工こつにくざいく」であるのだが、当然七実は知る由もない。

「だとすると……まずい、あいつは四季崎の刀を持っている! 七花、そなたも来い!」

 とがめは見るからに病弱そうな七実を気遣ってか、七花だけを呼んで、たちどころに浜辺の方へ駆け出した。

■ ■

「蝙蝠さん、鉋を奇策士さんに売る気は?」

 このときばかりは蝙蝠の饒舌も鳴りを潜めた。それは、単に瀬音の突拍子もない発言に驚いたというのもあるが、むしろ鉋を手放すことに抵抗を覚える自分に気付かされたからだった。

「……。一度裏切った奴らと手を組めってか? 馬鹿なこと言ってんじゃねえよ、きゃはきゃは」
「こう考えるんですよ。裏切ったからこそ、違う組織の者として対等に取引ができる」

 苦無は依然として喉元に当てられたままであった。口を回しつつも、隙はない。

「分からねえな。関係ないお前がそこまで言うか? それに、あの女が俺らに金を払うかよ」
「確かに関係ないけど、私も一応幕府の雇われなんですよ。奇策士さんのことはそれなりに知っています。彼女には大量の金子にも勝る、尋常ではない野心がある。分かるでしょ、あなたも」
「だが」
「やけに食い下がりますけど──まさか、鉋を手放したくない?」

 四季崎の刀には毒がある。その毒に魅入られてしまっては、もはや刀を自分のものとしておかなければ気が済まない。道中とがめが語ったことであった。瀬音は、蝙蝠がわずかに見せた隙を見逃さなかった。
 刹那、瀬音は喉元の苦無を手で掴み一気に横へ逸らす。反対の手で刀を構えて、鞘に刀を収めたまま、彼の鳩尾へ鋭く突きを繰り出した。抜刀しないという戦い方に、剣士のくせに妙に手馴れていた。

「──! オぐ、」

 胃の腑からせり上げる不快感に、蝙蝠はたまらず嘔吐く。その拍子に文字通り腹に収めていた直刀──絶刀・鉋が吐き出された。近くに落ちたのを見て、すぐさま足で奪われないよう固定する。国ひとつ買える秘宝を足蹴にしてしまったが、胃液まみれにされていたのだからマシというものだろう。

「うわ、本当に腹に収めてたんですか……もしかしてそれが真庭忍法ってやつ?」
「クソ、てめえっ!」
「すみません、蝙蝠さん。奪い取る気はなかったんだけど、どうしても手放せないみたいだから。あ、ダメですよ。この刀は取ったらいけません。私が預かります。毒に惑わされず、キッチリ交渉しましょうね」

 この女! 有利になった途端に預かるだと。交渉だと。わざとらしく嫋やかに笑いやがって。こんな屈辱があるか。蝙蝠は奥歯を噛み締めた。

「大丈夫? 立てます?」

 しかし瀬音は全く気にしない。苦無を素手で掴んだために出血している手を軽く振りながら、反対の手を蝙蝠に差し出してみせた。そのとき。

「──瀬音殿!」

 と、静かな浜辺に第三者の声が響いた。

「あ、奇策士さん」
「無事か!」
「それなりに。そちらは虚刀流の当主殿ですか?」
「あ、ああ。鑢七花と言う……ってそうではなくて! そなた何故真庭蝙蝠に手を差し伸べているのだ! というか踏むな、四季崎記紀の刀だぞ!」
「説明しがたいところだけど、少し交渉していたのです」
「こ、え? 交渉」

 あっけらかんとして二の句が継げないとがめに対し、激しく動いたことで船酔いの余波が押し寄せたのか、瀬音は気だるげに告げた。

「奇策士さん、もし彼が変体刀を売ると言ったら買い取る気はあります?」
「確実に手に入るのならば買い取るが……それは仮の話だろう」
「だそうですよ。どうでしょう、蝙蝠さん。私は悪い条件を突きつけているわけじゃありません。ちょっと武力行使しましたが、自分の身を守ったのです。売りますか?」

 ここで売ると答えれば、今後も確実な買取手として当てにすることができる。さらに刀を蒐集していく上でも敵が少ないに越したことはない。それが最善の策であることはよく理解しているのだが、やはり知らずのうちに刀の毒にあてられていたようで、踏ん切りがつかない──何のために変体刀を手に入れたのか、そんなのは里を復興させるために決まっている。瀬音が射るようなまなざしで「蝙蝠さん」とひとつ名を呼んだとき、彼の何かが吹っ切れた。

「チ、分かった、分かったよ! 売りゃあいいんだろ!」

 蝙蝠は瀬音の差し伸べた手を無視してすっくと立ち上がった。計画が総倒れである。この場において、水上瀬音に敗北したのである。それを認められないほど馬鹿ではなかった。

「……買い手がいねえのは事実だ。望み通り売ってやるよ」

■ ■

「絶刀・鉋、確かに頂戴した。さすがに国ひとつとまでは言わないが、里を復旧できる程度の金子は支払わせて頂こう」

 ときは変わって、夕暮れどきの浜辺。鑢七花、七実と奇策士とがめ、そして瀬音と真庭蝙蝠は船のすぐ側で向かい合っていた。

「いいか、あくまでこれは一時休戦だ。そこを間違えるなよ」
「はいはい、俺だって無闇に敵を増やすようなヘマはしねえよ。しつこいな、子猫ちゃん」
「まったく、どの口が言う──しかし、七花の実力を見ることが出来なかったのは惜しいな。蝙蝠くらいなら殺しておいても問題は無いのだが……」

 とがめは鉋を綺麗に包んで箱にしまい、両手で抱えながら忌々しげに吐き捨てる。どうやら真庭忍軍への不信感は未だに拭えないようだった。

「俺もあんたと戦えなかったのは残念だぜ。初めての実戦、何より折角考えた奥義を試せたかもしれないのに」
「実戦経験がひとつもねえ小僧に負けるかっつーの。忍術を使えばお前なんて相手にならねえよ」
「あら、それはどうでしょうね」

 血の通わぬ声で鑢七実が告げる。病弱そうで、戦いなどとは無縁そうな彼女が会話に入り込んだことにとがめたちは些かぎょっとした。彼女は続けて、

「経験だけで判断するというのは浅はかなことですよ──忍者ごときに遅れをとる虚刀流ではありません」

 と、暗殺集団の人間に臆する様子を見せずに、それどころか、意地の悪そうな笑みさえ浮かべた。この女も虚刀流に変わりはない。不気味とさえ言える冷静さに蝙蝠は目を細めた。

「それはそれとして。七花も折角その実戦というのが出来るのだから、頑張りなさいな。とがめさん、七花を頼みます」
「ああ、そうだな。瀬音殿、護衛はここまでだ。感謝する」
「いいえ。大した働きはしていませんから」

 その一言で、ようやく瀬音の仕事は終わるらしかった。今回は殊に疲れたが、悪くない仕事だった。

「それで、そなたにもうひとつ頼みたいのだが、真庭忍軍の連中に一時休戦の旨を伝えてきてはくれまいか」

 その考えはこの言葉によって瞬時にひっくり返されるのだが。

「エと、……私の仕事はあくまで護衛というお話でしたよ。蝙蝠さんに伝えてもらえばいいじゃないですか」
「おいおい、子猫ちゃん。そんなふうに簡単によそ者を入れるわけにゃ行かねえんだよ俺らの里は。こいつの言う通り俺ひとりで十分だろうが」
「何を言う。一時休戦だと言っただろう、私は貴様らを信用したわけではない。信用のおける者を使うのは当然のことだ。それに瀬音殿、私はそなたの能力を買っている。聞き入れてはくれまいか」
「それはそうだけど……いや、でも、先程のは半ば暴力に訴えたというか。とにかく正当な手段ではありませんでした。悪徳でした」
「時にはそのような決断も必要だろう」

 そもそも、七花はとがめと同行し、七実は島に残るのだから、此処でその役目を果たせるのは瀬音しかいない、ということは彼女自身も理解していた。加えて、あの奇策士に勝てるほどの弁もない。要するに手詰まりだった。

「わ。分かりました」

 ひょんなことから、剣士・水上瀬音は刀集めに巻き込まれる運びとなったのだ。「あんたも大変だなあ」という七花の言葉に、彼女と蝙蝠は肩を竦めるほかなかった。

(第一話、了)


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