誰が為の呪い




 特殊高等警察の、大河周吾という男が死んだ。

 特高に入って一年と数ヶ月、よく目をかけてくれた先輩だ。その大河が自室で首を吊ったという。組織にはただちに緘口令が布かれ、おのおのがこの事件を墓場まで持って行くこととなった。
 その頃と言えば、オペラが空前絶後の大流行だった。六区エンコにはペラゴロが集まり、毎日のように劇場へ客が殺到。それを漫然と見て、市街調査の時間を潰すのが日課だ。大河の死は、そんな他愛のない時間と同じように、たやすく流れ去っていった。群衆の歌う陽気な旋律は、帝都栄華の音であり、淘汰の音である。

 ■ ■

「号外、号外。浅草オペラのプリマ・ドンナ、久世小夜子が病で活動休止だ!」

 一九二五年、十一月下旬。浅草の街並みも寒さに霞んで見える。人もまばらな目抜き通りに、配達員の声が響いていた。不破充は、市街調査の帰りしな、何とはなしに新聞を受け取った。適当な壁に寄っかかって周りを見ると、みな同じようにして、熱心に記事を読みふけっているではないか。どうやら一大事らしい。それで、倣って文字を追いかけた。

 ──「浅草オペラの人気女優・久世小夜子、舞台を去る。原因は謎の病!
 今や、浅草六区で歌劇女優・久世小夜子の名を聞かぬ日はない。彼女は一年前、スッペ作『ボッカチオ』のフィアメッタ役としてデビュウを飾った。これは異例の大抜擢であったが、当時、無名の久世は向かい風の評判を見事に覆した。華やかな容姿と、本場・伊太利亜イタリア譲りの歌唱で、アッという間に時の人へと成り上ったのだ。久世の可憐なるフィアメッタは根強い人気を誇り、今でも『ボッカチオ』の再演は多い。
 そんな久世が、突然、次の舞台を辞退したと云う。どうやら、声を失う病に罹り、歌を続けられないとのことである。天才女優の悲報に、誰もが驚いたことであろう。中には引退を疑うものも在る。斯く云う筆者も、一・ファンとして、復活の日を待つばかりである……」

 ここまで読むと、適当に折り畳んで、折鞄に仕舞う。所詮はゴシップ、中身が薄い。紙面はつらつら続いていたが、これ以上、得られる情報もなさそうだった。はじめ、捨ててしまおうかと思ったが、写真の久世があまりに美しかったので、なんとなくやめた。

 しかし、寒いなあ。浅草六区も、今日はよほど人が少ない。平生なら、この制服を見て、街ゆく人の畏怖の眼差しが刺さる、刺さる。それがないのは、ずいぶん気が楽だ──。
 というのも、特高には、後ろ暗い印象が付き纏っている。既に浅草では知れ渡ったことであるが、念のため、ここに概要を記す。まず、夢と陰謀渦巻く帝都・浅草には凌雲閣りょううんかくという眺望用の建物がある。この日本で最も高く、浅草十二階の名で有名な帝都繁栄の象徴だ。特高は、その地下に本拠を置く組織であり、内務省からの勅令により設置された。いわば機密警察であり、帝国に仇なす反逆者をいかめしく取り締まるのが勤めだ。たとい潔白の身でも、特高さんが通れば、みな背筋を伸ばす。実際のところ、不破は崇高な志やポリシーを持たぬ男だが、それは他人の知るところではない。

 さて、指先が冷えたので、カフェーへ立ち寄った。このまま辛気臭く、薄暗い凌雲閣の地下へ戻るのも嫌で、サボタージュすることに決めた。学生時分より馴染みのある喫茶・ラパンは、特高を見ても嫌な顔をせず迎えてくれる、数少ない穴場だ。大学生の頃、不破は奥のテーブル席で、人目を忍んで新聞や雑誌を読んだものだ。以来、なんとなく癖がついて、大抵はそこに座ることにしている。

「ヤア、御免なさい。いつもの椅子ですが、今日は先客がいますよ。他の席に座ってくださいな」

 今日は、出迎えた女給にそんなことを言われた。見れば、若い女がヒッソリ座っている。断髪の、モダンな扮装よそおいの女である。何やら不思議だぞと思った。あの席は入口から見えづらく、窓も小さい。外の往来を眺めながら、親しき友と歓談する──そういう客が大半なので、ほとんど人気のない場所なのだ。不破にとっては都合のよいことだが、なんと、物好きな女だろうか。心の底に、ちょっとした好奇心が芽を出す。

「お嬢さん。相席してよろしいですか」

 閑散とした店内である。まさか、相席の提案など予想しなかったようで「エッ」と小さな声が聞こえた。女はおっかなびっくり読んでいた本から顔を上げる。可憐なる容色が、視界に立ち顕れる。どんな変人かと構えたが、何の、可愛い女ではないか。しかし目が合うや、別嬪は目を見開いて、固まってしまった。甚だ奇妙な反応だった。不破も驚き、暫時、沈黙の内に視線が交差した。そうして女の顔を眺めるうち、不破は強烈な既視感を覚えた。髪型も化粧も変わっているが、確かに見た顔だと思った。それは、先ほど仕舞った号外に写る、冴え冴えしい美貌に他ならなかった。

「アッ、分かった。あなた、時の人だ。確か久世」
「お待ちください!」

 女改め久世小夜子が、あわてて言葉を遮った。決して大きい声ではないが、名を呼ばせぬという切実さがあった。不破は面食らって、なんにも言わずにいると「どうぞ、お掛けください」と向かいの椅子を示される。黙って軍帽と外套を脱ぎ、腰掛けた。

「面目ない。気遣いに欠けました。あなた、サヨコさんでしょう」

 今度はヒソヒソ話した。わざとサヨコなどと呼んだのは、そのほうが却って自然だからだ。偶さか名前が同じだけの、まったくの一般人と話している。そういう要領で、不破はあくまで惚けた調子で切り出した。サヨコは満足したのか、咎めずにゆっくり頷く。

「本物かあ。こんなところで会えるとは。写真で見るよりずっと綺麗なひとだな。俺、あなたの舞台を見たことがありますよ。今年の夏の、ええと」
「ボッカチオですか」
「そうそう。スッペの……アレッ。分かるんですか」
「あ、いいえ──わたくしの代表作ですので。大方、そうであろうと思ったのよ」

 記事にもそう書いてあった。サヨコはボッカチオでデビュウし、一気に成功への階段を駆け上った。不破は、今年の晩夏、同僚に連れられて劇場を訪れたことがある。大河の訃報から間もなく、鬱屈としていた頃だ。浅草の歌劇は、オペラとは名ばかり、ほとんど大衆向けの安い娯楽に過ぎない。さして興味などなかったが、しかし、サヨコのフィアメッタは鮮烈な記憶であった。ペラゴロが増えるのも宜なるかな。不破はあの日、本物の天稟を見たのだと思う。彼女こそは、浅草オペラの最高傑作だった。

「特高さまも、オペラをご覧になるのですね」
「そんなおカタい呼び方はよしてくださいよ。俺は、不破充って名前です。特高さまは特高さまでも、娯楽は好きだし、ちゃらんぽらんだし、怖い人じゃない。所詮、落ち目華族の放蕩息子ってやつです」
「はア──娯楽好きの不破充さまですか」

 サヨコは何か腑に落ちないという顔だった。舞台の上のフィアメッタとは、まるで別人である。あまり笑わず、気難しげで、近寄り難い。よほど演技が達者なのであろう。そんな人気女優も、まことしやかに引退をささやかれているのだから、これほど勿体ないことはない。不破の脳裡に配達員の声が蘇る。浅草オペラのプリマ・ドンナ、久世小夜子。謎の病で──。

「そういやサヨコさん、号外新聞に載ってたけど」
「知ってるわ」
「そうじゃなくて、おかしいな。新聞によれば、声を失う病じゃなかったっけ。俺には、あなたがつつがなく話しているように見えるんですが」
「あんなの、鵜呑みにしないでくださる。さしずめ大袈裟な書き方をして、読み手の気を引こうというのね。いじましいやり口だわ」
「では、病は嘘ですか」
「真っ赤な嘘なら、どんなにかよかったでしょう」

 サヨコは溜息をつく。続けて、訥々と打ち明けた。その内容はこうである。
 ときはつい一昨日、演目はオッフェンバックの喜歌劇・天国と地獄。予行練習を終えて、イザ本番を迎えたときだ。ユリディス演じるサヨコが「夢見る女は」を歌おうとすると、突然、声が出なくなってしまった。つい数分前の練習までは歌えていたにも拘わらず、声帯が萎縮して、結核患者のように、ヒュウヒュウと息だけが漏れる。止むを得ず、その舞台は中止となった。以来、話すことはできても、歌おうとすると、めっきり声が出なくしまったのだと言う。医者にはかかったが、診断結果は喉に異常なし。それどころか、心の病とまで言われる始末である。

「そりゃ、奇ッ怪な病だ」
「お医者様はみな『歌だけが歌えないだなんて聞いたことがない』と仰るわ。だから、心の病と言われて、終わってしまったのよ。精神病院に入りますかと聞かれて、勿論、お断りしたけれど」
「ウン、それがいい。あそこは病院とは名ばかり、まともな治療が保証されていない上、生活の質もよくないと聞きますからね」
「わたくしもそう思って、でも……」

 俄然、弱々しい声になった。これまでの気丈な振る舞いが嘘のようだ。柳の眉が下がり、目元が烟る。サヨコの顔は、饒舌に不安を物語っていた。

「でも、それってつまり、声を戻す薬も治療もないってことでしょう? 劇団だって、そう裕福なわけじゃない。歌えない役者をいつまでも置いてはおけないわ。わたし、わたし──これからなのに……」

 サヨコは若かった。元より劇団のプリマ・ドンナなど、若さと美しさに支えられた一時の栄華だ。それでも、その一時すら失ってしまうというのは、なんとも憐れなこと。彼女がドンドンと弱気になっていくのが分かった。今にも泣きそうだ。
 不破は、面倒な話を聞いてしまったと思った。興味本位で首を突っ込んだが、このままでは自分はサヨコの慰め役になりそうだ。折角のサボタージュが──そうは思うが、泣きそうな女を一人残して行けるほど、冷酷にもなれないのである。

「そう悲観しないでください。なにも不治の病と決まったわけじゃないでしょう」
「不治」
「嫌なところだけ抜き出すなあ。声の出し方は忘れてないんだから、見込みはありますよ。原因が心理的なものなら、なおさら。誰かと話すとか、気分転換をするとか、そういうことがキッカケになって、もしかしたら状況が変わるかもしれませんよ。何なら今、ちょっと歌ってみますか。ほら、適当にね」

 励まされて機嫌が回復したのか、サヨコは言われるがままに息を吸う。少ないながら客がいるので、控えめに鼻歌を試みた。しかし、駄目だった。出だしは調子が良いかに思われたが、結局、ひっくり返って無声音に戻ってしまうのだ。一か八か試して見たが、裏目に出た。不破は、サヨコが今度こそ泣き出すのではないかと身構えた。

「エーッと──とにかくね。まだまだ、諦める前にできることはありますよ。だから」
「不破さん」
「どうか気を落とさないで、前向きに考えましょう」
「不破さんッたら。すごいわ」
「焦る必要は……ハイ?」

 不破の口から出任せが止まった。意外なことに、サヨコは感激しているようだった。

「わたくし、もう二週間も歌が歌えなくって、本当に、全く、これっぽっちも。少しだって声が出なかったのです。でも、今は声が出たわ。すごいことよ。どうしてかしら?」
「ウーム。俺にはサッパリですが」
「ねえ不破さん、次もまた、わたくしとお話してくださらない。なにだか、状況が変わりそうな気がするのよ。期待が胸を打つのです」
「いやあ、そう言われましても。俺はお医者さまじゃないですからね」
「いいんです。ただ、少しの機会も逃したくないの。この病が本当に治るのなら、わたくしはなんだってするわ。毒だって飲むし、炎の道だって歩く。それに比べたら、安いことよ」

 思わぬ申し出だった。サヨコの顔には、メラメラと決意の炎が宿る。生まれながらの役者として、大衆とは一線を画す強力なるアウラがあった。勝気な瞳は期待に輝き、真っ直ぐ相手を射抜く。不破は思わずたじろいだ。芽吹くような眼差しに、貪欲なる才能のキラメキを見た。彼女は本気だった。

「ハア、ではまた、週末にでも……」

 あまりの熱量に、不破は敵わなかった。気圧されてしまったのだ。色よい返事に、サヨコは微笑した。それは美しくもあり、また不敵でもある。彼女の秘めたる情熱が男をも凌ぐものであるということは、一連の応酬でよく分かった。

「ありがとう。わたくしの病気が治ったら、きっとオペラにいらしてください」
「ええ、きっと。楽しみにしていますよ」

 あれよあれよといういちに、断る機会を逃した。今週末、喫茶ラパンにて逢瀬の約束が成立してしまったのだ。──どうしたものか。彼女のデモニッシュな意気が目に痛い。まるで、同じ人間だとは信じられないほどだ。マア、仕方あるまい。不破の胸には困惑と諦めが宿る。けだし、当面の退屈しのぎにはなるだろうかなと思った。


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