長編「THE ANIMA(銀の冠)」
4・5話間のちょっとしたお話です。夢主視点。

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 睡眠魔法の誤発で昏々と眠り、日の傾くような時間に自然と目が覚めた。

 外は雨だ。合同講義のついでに図書館から「魔法理論・五元素の章」を借りていこうと思ったのに、この土砂降りでは諦めざるを得ない。なにせ魔教委(魔法教育委員会)指定の書籍、本自体に魔法が施されていて、普段はその題目どおり五つのエレメントが均衡を保てるようにして保管されているのだ。雨水が一滴でも当たれば忽ち均衡が崩れ、私はきっと先生の大目玉を──って、なんだか寝起きのくせに頭がよく回る。
 まるで冗談と言いたくなるほど潔い、眠りと覚醒の間をすっ飛ばしたような覚醒だ。魔力の干渉で強制的に眠気を植え付けられたのだから、その魔力が尽きた瞬間にスイッチが切り替わったというだけなのだろうが、それでもイレギュラーな感覚だった。

 私は一旦魔法書籍のことを忘れてあたりを見渡した。保健室には誰もいないようだが、ふと僅かな違和感を覚えた。その正体は自分の寝ているベッドの横にある、意識を失う前はなかったはずの椅子だった。となれば必然、私の知り合いか教師が様子を見に来たのだ。
 これには少し困った。目が覚めたら勝手に帰ろうと思っていたのに、これでは一言挨拶でもしないと余計な心配がかかるかもしれない。生憎、保健室の入退室記録用紙がどこにあるかなんて他校生の私は知らないのだ。それに、それに──ああ、少しどころじゃない、本当に困った!
 とんでもないことに気がついた私はサッと血の気が引くのを自覚した。もはや魔法書籍が借りられないことも、帰るタイミングをはかりかねていることも些事と思えた。だって私、よく知りもしない人間に寝顔を見られたかもしれない。意識のない時間に自分がどんな顔をしているかなんて知りようもないし、あまつさえ寝言なんて言っていたらきっと一ヶ月は引きずる。

 途方に暮れていると保健室のドアが突然開いたので、つい驚いて肩が跳ねた。また私の様子見だろうか、だとしたら眠っているときに来た人と同じだろうか──私は息を凝らして入口を見つめた。

「ミス・ミョウジ。起きてるか?」

 果たしてその人は例の授業の担当教師だったので、ひとまず安心した。彼は竹を割ったような性格で、あまりそういうことを気にする人でもないのだ。私自身の「見られた」というショックを除けば、ダメージは最小と言ってよい。

「ああ、魔法が解けたようだね。そうだ。あんたが起きたら聞こうと思ってたんだけどさ、もしかしてバイパーと付き合ってるの?」
「バ」

 バイパーって、熱砂の国出身にしてスカラビア寮所属の、私の知り合いのあのジャミル・バイパー。私は素っ頓狂な声が出そうになるのをこらえて、ただ目の前の教師の言葉の続きを待った。すると、先生も説明が必要だと感じてくれたようで、何でもないような顔でその考えに至った理由を話し始める。曰く、通りがけに偶然保健室に向かうジャミルくんとすれ違ったので私の様子見を頼んだところ、先生が来るまでずっと私を看てくれていたようで、それを見るうちにふとそんな疑惑が浮かんだのだと。

「──お」
「お?」
「おはようございます。素敵なご冗談ですね」
「冗談だなんて、そんな。ねえ」

 先生はおどけたように笑う。そんな彼の顔を見て私はひとつの気づきを得た。付き合うだのなんだの、惚れた腫れただの──そんな話はきっと冷やかしに違いない。男子校なだけに、女子との関わりを見るとそういう方向に思考が偏ってしまうんだ。実はしっかり動揺していたが、なんとか笑えば先生は肩を竦めた。

「…じゃ、バイパーの片想い?」
「以ての外です」
「フ! よもや『以ての外』とはね。本人ならともかくあんたが否定するんだ」

 そう言われて引っかかりを覚えないでもなかったが、そんなことは二の次だ。いまの私は、それよりもっと重大なことに意識を引かれていた。

「…先生。ジャミルくんがここに来たんですよね」
「頼んだからね」
「わ──私。寝言とか言っていませんでしたか。変な顔とかしていませんでしたか」
「ああ、それなら心配無用。魔法でグッスリ深く眠ってたから夢も寝言もない。寝顔も普通」

 ホッ。あまりの安堵に、私はフィクションよろしく息をついた。しかしすぐに、先生がなにやら含んだ眼差しで私を見ていることに気がつく。

「フーン、へえ。気になる人に寝顔を見られたなんて知ったらそりゃあ動揺するよねえ」
「あの、だから。そういうのではないのですけど」
「本当に?」
「本当ですとも」
「なあんだ」

 先生は気抜けしたように呟いた。

「応援しようと思ったのに」
「どうもありがとうございます。でも私、好かれる要素がありませんから」
「そう? お淑やかで優しいから引く手数多なんじゃないの」
「とんでもない!」

 お淑やかで優しい。確かにずっと心がけてきたことだ。自分でもつまらない女だと思う。悪くはない成績と無償の優しさは私なりの鎧で、私が他人にそうであるように、あんまり興味を持たれたくないのだ。そうでなければ私は相手のことがわからなくなってしまうだろうから。とはいえ、殊更人間に興味のないジャミルくんのことだ、私にはもっと興味がないだろう。昔のよしみでちょっと話す機会が多いだけだ。

「まあ、バイパーも恋人作るって柄じゃないか。いつも主人に付きっきり──あんたみたいなのは我慢のしすぎで病んじゃいそうだね。今日の怪我だって主人にせがまれて料理してる最中に切ったって話だし」
「怪我? 切ったって、まさか包丁で?」
「そう。魔法で止血してハンカチで抑えてたけど、ありゃ相当深いね──あ、ハンカチと言や」

 先生はやおらポケットに手を突っ込んだかと思うと、一枚の布を取り出した。ハンカチだ。シックだけれど、エキゾチックなワンポイント刺繍が美しく趣味がいい。上等のものに違いなかった。

「これ、あの子のだね」
「ジャミルくんのことでしょうか」
「ン。ここにちょっと血が付いてる。このくらいなら魔法で消せるけれど。それにしても、怪我に加えて忘れものとは、随分調子が狂ってるみたいだね」

 頬に意味ありげな微笑を漂わせて、私に目配せをする。なんとなく「あんたのことだろうよ」と言われている気がして身の縮む心地だった。確かに、そつないジャミルくんがミスを重ねるだなんて変な話だけれど、そう何でも私に繋がるものではない。

「ここ最近はマジフト大会有力選手の怪我が多いから、前者はそっち絡みだろうけど」
「それってなにかの作為があるのでは…」
「気にするこたない。ウチの問題だから。で、このハンカチはどうする?」
「え、ああ、私が届けます」
「そう来なくちゃ」

 いつもの癖でつい引き受けてしまった。短く口笛を吹いた先生は、たぶんもう職員室に帰るのだろう。

「歩ける?」
「はい、平気です」

 ひとつ問いかけて立ち上がると、入口のドアを開けて私が出るのを待っているようだった。当然だ、女学院の生徒をいつまでも寝かせてはおけない。

「スカラビア寮まで押しかけてやりなよ」
「そんな、次に学校で会ったときにでも」
「これからテスト期間に入るんだよ、ホリデー明けまで会わない話になるけど?」
「あ、そっか…」
「アジームなら気にせず迎え入れてくれるだろ」

 寮長アジームが気にしなくても私が気にする。他校の先生が知らなくても無理はないが、女学院の校訓は「乙女よ貞淑たれ」なのだ。そりゃあ皆さんお年頃、彼氏の部屋に泊まるなんてことを平然とやってのける生徒は少なくない。けれど大人しいお嬢様で通ってきた私が恋人でもない友達のために男子寮をひとりで訪れるなど言語道断だ──なにせ体裁がよろしくない。

「そうだ、ミス・ミョウジ」
「はい。なにか?」
「さっきはああ言ったけど、あんたたち、なかなかお似合いだよ。なんといってもあの皮肉! 寝起きだからか知らんが、相当決まってたね」
「え? 私、皮肉なんて言った覚えは…」

 皮肉だなんてあんまりな言いざまだ。一度はそう思ったが、私は律儀に会話を思い返して気がついてしまった──おはようございます、素敵なご冗談ですね。単に起き抜けの挨拶として言ったつもりが、後半の言い回しも相まって捉え方によっては「寝言は寝て言え」の婉曲表現のようになってしまったらしい。あの潔い寝起きの不思議な感覚さめやらぬままに冷やかされて、面倒なのが隠しきれなかったのかもしれない。その、ほら、女学院の寄宿舎は完全個室制だから。それに私だって寝起きから完璧なお嬢様なわけじゃないから──ああもう、すっかりやらかした。

「あ、あのう。すみません。そんなつもりじゃ」
「違う違う。褒めてんだよ。咄嗟に振られてあの口八丁なら、きっと商家の膝元でもやっていけるさ」
「ですから」
「まあまあ。将来のお婿さんに会いに行ってきな」

 先生はそう言い残すと、ひらひら手を振って廊下を歩いていった。

「…いまのは、私──」

 私、さては最後までからかわれた。やっぱり子どものやることなすこと、大人にとってはほんの些事なのかもしれない。いずれにせよ、ホリデー明けまでナイトレイブンカレッジに来る機会がないのならば、引き受けてしまった以上こちらから届けに行くしかないだろう。大丈夫、私がスカラビアに行かなくたって、カリムくんにお願いして渡してもらえばいい。うん、これ以上ないほどの名案。とにかくハンカチを綺麗にして、後日カリムくんに話してみよう。そう思って私は女学院に繋がる鏡へ足を進めた。
 後日、カリムくんが先生の言うとおり本当に性別など気にしない人で、なおかつ人を丸め込むのが上手い生粋の商家の息子で、なんだかんだ単身スカラビアへとお邪魔してしまうことになるのは、言うまでもない話である。

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