長編「THE ANIMA(銀の冠)」
5・6話間のお話です。

■ ■

 水魔法が私の左腕を静かに滑り落ちると、一緒になって血も流れ落ちた。

「上の空だな」

 ジャミルくんはただ私の傷を見つめている。こうして目を合わせなくて済むことだけが救いだったが、やはり彼の考えていることはひとつも分からないままだった。

 ナイトレイブンカレッジの植物園には珍しい薔薇があって、その名をアブラ・カダブラと言う。深い赤を切り裂くような絞り模様の品種で、不思議な色彩がいっとう目を引くのだ。講義の一環で花壇の近くを訪れた私は、作業に徹しつつも暫くそれらを眺めていたが、どうかした拍子に薔薇の棘が引っかかったようだった。近くの生徒が落とした本かなにかを拾ったときだろうと思うが、このところ気もそぞろでよく覚えていない。

 怪我を負ったのは皮膚の柔いところだ。出血はあるが、棘が残っているわけでもないので、ひとまず処置は後回しにして先生のところへ戻ろうと考えていたところで、偶さか同じ講義を選んでいた友人──というかジャミルくんはあからさまに渋い顔をした。それで逃げる間もなく腕を引かれて保健室まで来た次第であった。

 彼に胸中を打ち明けられてからわずか一週間のことだ。私はもはや顔すら見られない気持ちだったが、向こうから話を切り出されては答えずにはいられなかった。どうしてこの学校の養護教諭はいつも不在なのか。おかげで気まずくてなにもできやしない。さながら迷子の気分である。私はジャミルくんがそうしたように、自分の左腕にある一すじの傷をじっと見つめた。

「いつだって乙女の悩みは尽きないものです」
「その悩みとやらは俺のことか」

 抽象的な言い回しは全く意味をなさなかったらしく、ジャミルくんは無遠慮に、しかし彼らしくはっきりと核心をついた。沈黙に徹すべきか、答えるべきか。私は暫時どちらがよいか迷って、結局どちらともつかない問い返しで茶を濁すことにした。お願いだから今日は見逃してほしいという密やかな訴えだ。

「仮にそうだとして、あなたはどうするの」
「どうもしないさ。ただ、そうであってほしいと思ってる」

 やっぱり沈黙を選ぶのが正解だったか、あるいは、どれを選んでも結果は変わらないのかもしれない。抽象的な言い回しもなんのその、案の定ジャミルくんは真正面から打ち返して私の左腕に触れた。しなやかで美しいが、少しかさついた無骨な手だ。
 私の脳裡に、初めてスカラビア寮を訪れたときのことが思い出された。あのとき触れられたのもちょうどこの怪我のあたりだったかもしれない──そう考えると、水は冷たいのに、傷の痛みが確かな熱源となって一月の水温をかき消すようだった。

 この烙印のような火照りを、あの日から忘れられないままでいる。消し去ろうとしてきたつもりなのに、彼がいると嘘のように蘇る。私のなかに滾々と流れる熱い海が、魔法の呪文アブラ・カダブラのせいで溢れ出ようとしている…気がする。おかしいな、元は熱病を癒す呪文のはずなのに。これでは全くの反対だ。

「痛っ!」

 思考の沼底に沈みかけたところで突如新たな痛みが神経を駆け抜け、反射で小さく悲鳴を上げた。

「ああ、悪い。予告なしに消毒はまずかったか」

 そういう問題じゃないんですけど! ジャミルくんの空々しい謝罪をよそに、私は消毒液の痛みひとつで取り乱す齢十七の自分を恥じた。向かいの彼は、なにごともない顔で手際よく傷の手当てを進めている。すっかり慣れているようだった。

「泣くなよ」
「泣いてないです…」

 本当に涙のひとつも出ていなかったが、居た堪れなくて右手で顔を覆った。ジャミルくんがこれほどまでに平然としているのは、きっと後悔がないからだ。一世一代の反逆も、私への吐露も、明瞭な意思をもって実行したことだから──私と真逆だ。
 ずっと成り行きで生きてきたようなものだ。習い事も服装も親の意思に従い続けて、自分で決めたまのなど進学先くらいしかない。そのくせこうして逆張りめいた思案ばかりを小賢しく巡らせている。もうこれ以上考えるな。結論は出たも同然なのだから。

「ジャミルくん。私は…」

 あなたには相応しくないから、想いを受け入れることはできない。そう言わなくてはならない。

「…ほ──本当に泣いてないから」
「知ってる」

 きっぱり言い切るつもりが、改めて相手の目を見ると、用意したセリフの全てを馬鹿みたいに忘れた。というか知ってたのならば揶揄からかわないでほしい。まんまと翻弄される私だった。

「ほら、終わったぞ」
「え? あ、どうも」

 そうこうしているうちに手当てが終わって、ジャミルくんは冗談のようにあっさりと私の腕を解放した。浅い傷だが、数センチ引っかけたせいで見た目だけは随分なものだ。

「悩むのは結構だが怪我するなよ、君」
「はあ、まあ、気をつけます」
「返事まで上の空か」

 誰のせいか。そんなことは私が訴えずともわかっているだろうから、どうしようもなくて目を眇める。ジャミルくんが次になにかを言う前に、格子窓から外気の風が舞い込んだ。

「…さむ」

 さっきまでの熱は一体なんだったのかと問いたくなるほどの急な冷気に肩を竦めた。

「当たり前だろう、いまは一月だ」

 それはそうだけど。この時期に腕まくりをしていたのだから寒くて当たり前だし、おかしいのは一月の寒さをいまになって思い出した私のほうだが、それにしたって情緒のない返答に調子が狂う。まあ、こういう人だというのは知っているし、その気になれば歯の浮くセリフだって言えてしまうことも知っているから──ちょっと待て、やめだ、やめ! またしても一週間前の衝撃を思い出しそうになった私はかぶりを振った。

「あの、手当てありがとう」

 ジャミルくんは相変わらずの涼しい顔で適当に返事した。私はそんな彼が羨ましいと思いながら、この傷が一秒でも早く癒えることを願ってやまないのだった。
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